桜だけが知っている
父が死んだ。会社のトイレで首を吊っていたそうだ。私には何の感情もわかなかった。あの人は、何も言わなかったし、私も何も聞かなかった。私が就職して家を出てから、お正月に伯母の家で顔を合わせるだけだった。
(母さんが蒸発してから、笑わなくなったよね)
私は柩の中をのぞき込む。死に化粧をほどこされても、能面のような顔。首吊りの死体は顔がむくんで醜いと聞いたことがある。醜いと言うより、ずっとこんな顔だった気がする。
父が死んだのは、所属する課のお花見の前日だったという。警察に呼ばれて会議室のような場所で、男女の私服警察が私に尋ねる。言葉を発するのはもっぱら女性だった。
「自殺するようなそぶりはありましたか?」
「離れて暮らしているのでわかりません」
私はそれ以上、何も答えられないのだ。父がどんな人だったかさえ、忘れているのだから。身元確認のときも、父が死んだという感覚はなかった。
「なにか、気になることはありませんか?」
「……桜」
「え?」
「桜が嫌いだったなって……関係ないと思いますが」
その後、司法解剖の書類にサインし、警察を出た。
不意に後ろから声が私を呼びとめた。振り返ると私より十歳くらい年上の女の人が、なんだか苦しそうな顔で立っていた。
「どうかしましたか?」
私はゆっくりと彼女に近づいてそう言った。彼女は首を横にふり、父のことで少し聞いてほしいことがあると言った。
「わかりました。私、このあたり詳しくないんですが……」
「近くに喫茶店がありますから、そちらで……」
私はうなずき、彼女についていく。沈んだ顔。派手さのない服装。どこか疲れ切っている背中。
(父の何を話したいのだろう)
私にはあの人がどんな人であっても、別に何も感じないのだけれど。
喫茶店でコーヒーを飲みながら、私は彼女の話を聞いた。
「実は、お花見の幹事は遠野さんじゃなくて、私だったんです。今、子供のことでちょっとごたごたしてて、そしたら、遠野さんが幹事を代わってくれたんです」
彼女はうつむいたまま、じっとコーヒーを見て話す。
「昨日のお昼休みに昼食のついでに場所の下見をしてくると言ってでられたんですが、戻ってきたときひどく顔色が悪くて。具合が悪いのか聞いたんですが、ちょっと人込みに酔ったとだけいわれて……。まさか、こんなことになるなんて……」
彼女は顔を両手で覆う。どうやら、自分のせいだとでも思っているようだ。
「たぶん、誰のせいでもないと思います。私は父と離れて暮らしているので、何があったのかわかりませんが、警察の方は自殺だろうと。ただ、念のため司法解剖をしたいということでしたから」
私が淡々とそういうと彼女は、びっくりしたように顔をあげた。
「あの……会社で何かあったって考えないんですか」
奇妙な質問だなと私は思った。
「どうしてですか?」
「だって……会社で亡くなったんですよ?」
「じゃあ、会社でトラブルを抱えていたと貴女はいいたいんですね」
そう問い返すと彼女は困ったようにそうではないとしりすぼみの声で答えた。
「会社で死んだから、会社に問題があるというのなら、それは警察に言ってください。どういう理由でなんて考えても、私にはわかりません。父とは疎遠でしたから」
そういって、私は自分のコーヒー代を置いて、店を出た。
その足で伯母の家に向った。伯母は心配そうな顔で出迎えてくれたが、心配される必要がないほどに、私は父のことがわからないのだ。リビングでお茶を飲みながら、司法解剖で遺体がこちらにもどってくるのは二日後だと伯母に報告する。
伯母はそうと言って、お葬式の手配はこっちでやるから、ちゃんと休みなさいと言う。たぶん、彼女には私がいつもと変わらない態度でいるから、父が死んだことを受け止められていないとでも思っているのだろう。
(受け止めるも何もないのだけれど……)
私は素直に伯母の好意に甘えたふりをした。そして、その日の夕方。自分の部屋でぼんやりとニュースを見ていた。
『こちらが廃校になった○○小学校です。地元でも桜のキレイな場所として、この時期は校庭を解放していたそうですが、校舎の解体が決定され、桜も移植するか伐採するかということが話題となっています』
そこは、私が一年だけ通った小学校だった。確かに桜のキレイな学校だった。入学式の日に父と母、そして私は一番大きな桜の下で写真をとった。やがて母が蒸発することなど、思いもしないで。
(ああ、そうか……)
不意によみがえった記憶が、父の死と母の蒸発がつながっていることを私に納得させた。
お葬式は身内だけの密葬となった。粛々とお経があがり、やがて出棺。桜が舞い散る中、父は細い煙となって母や祖父母の待つ空へ登っていく。残った骨は、私の部屋にいる。納骨の日まで。
そしてあの廃校になった小学校では、一体の白骨死体が見つかった。銀細工のネックレスがどこのものか鑑定中だという。鑑定しても、誰にも見つけることはできないだろうなと私は思う。それは、父と母が結婚する前にふたりで作った世界に一つのネックレスだ。
母は蒸発したのではない。私が殺したのだ。妊娠中の母を驚かせようとそっと近づいて……。おそらく死因は出血多量だったのだろう。血まみれで動かない母をゆすっていた私。それを見つけて青ざめた祖父母。
『お母さん動かないの。あそこでわって言ったら落ちたの』
二階へ続く階段の上を指差して、私は確かにそう言った。
そう、私が母を殺したのだ。父も祖父母のそれを隠ぺいしたけれど。あの大きな桜は知っているだろう。
あれは事故ではなく、故意であり、幼い私の心に芽吹いた殺意を……。母の腹に宿った命ごと、母を殺したのは私。
(ああ、やっとみんな私の物)
私は棚の一角に並ぶ黒々とした位牌たちを眺めて微笑んだ。
【終わり】