夢魔の涙
セックスなんて簡単だ。画面上には、そんな言葉がいくらでも踊っている。そんなご時世だから、【未経験】なんて代物は死語にでもなってんだろうと思いきや……。厚生労働省調べによると30歳以上で童貞もしくは処女が4人に1人はいるらしい。
(繁殖する暇もないのか人間は……)
生き物として終わってるんじゃねぇの?つうか、最近仕事しにくいなって感じてたのはこのせいかよ。男の夢にもぐりこみ、誰でもかれでも襲わないように精液をしぼりとったり、女の夢に現れて、がちがちの貞操観念をぶち壊して、淫らな繁殖行動を促してやってたのはいつのことやら。
それでも世界の人口は膨れ上がって満員御礼だと上司はいっていたか?俺はとりあえず人口が減りつつある民族に対して、仕事しろとのお達しがあったせいで、常夏の国からこんな島国に飛ばされちまった。そのうえ、実績が上がらない。
理由はいくつかある。
一、働き蜂よろしく仕事づくめの日々で生気が枯渇している
一、十代から肉欲を二次元で慰めて終わる。
一、妊娠・出産・育児を軽視された女たちが肉欲を放棄。
一、躾せず家畜のごとき育成によるストーキング気質の蔓延
その他もろもろである。
【穴があったら突っ込みたい】ってのが男ってもんだろうが!!と俺が怒っても仕方ない。強姦という犯罪に手を貸すのが俺の仕事ではなく、あくまでも合意の上の繁殖行動を促すのが仕事。
キューピッドたちが、相性の良さそうな男女に矢を打ち込む。すると二人は少しずつお互いを意識し始める。でもって、俺は男の夢にその女の姿で現れて精液を抜くと同時に強く相手を欲するように促すのだ。男は女に花を贈ったり、食事に誘ったりしながら、じわじわと関係を深くしていく。でもって、俺は女の夢にその男の姿で現れて、快楽を目覚めさせる。
「昔は何を思いしか……」
この国じゃ、キューピットの矢が刺さっても気が付かないで終わる連中が多すぎる。俺が男の夢に立てば、ないないと否定され、女の夢に立てば最悪と蹴飛ばされる。本当に腹立たしいったらありゃしねぇ。こういう日は、お気に入りのカフェでコーヒーを飲むのが一番だと俺は出かけた。
俺はマンデリンを飲みながら、ぼんやりと流れるジャズに身を浸す。不意に俺の後ろを誰かが通り過ぎた。
(この感覚はまさしくキューピットの矢!!)
俺はそっと気配をたどり、一人の女が席に着くのを確認した。確かに矢が刺さっている。だが、妙だ。背中の真ん中に刺さっている。普通は心臓に真正面から刺さっているはずなんだが……。
(とうとうキューピットまで匙をなげたのか?)
俺はそっと女を観察した。俺からは女の顔は見えないが、微かにガラスに映ったその顔はなんとも言いようがない顔だった。
幼いような、大人びたような……
少年のような、少女のような……
顔かたちは、一般的なこの国の人間だ。なのに、ガラスに映る顔は人間とは違うようにも見えた。
俺は目をこすり、マンデリンを飲み干すと店をでた。まあ、何であれキューピットの矢が刺さってるやつを見つけたんだから、今晩はあの女の夢にもぐりこんで相手の男を確定してくるしかない。男が先に見つかれば、仕事は楽だが。というのも、古来から女を口説くのが男の仕事なのである。口説きのテクニックは、時代や文化によって違うが、人間が社会というコミュニティを形成してからはある程度、人間同士で情報交換してそのテクをみがいていたはずなんだがな。まあ、今はそんなこともないらしい。
自称ナンパの伝道師とかいう男が、いろんな国から入国拒否をくらっていたりする。女性軽視、女性蔑視および風紀にかかわるいかがわしき人物らしい。
人間世界の事情もいろいろ複雑だなと思いながら、俺はあの女の夢の中に潜った。女が見ていた夢は、どうやら暖かい海の中のようだ。見るものすべてが蒼い。なのに、魚がいなかった。
(さて、あの女はどこだろう?)
俺は暖かな水の中を小さな魚の姿で泳ぎ回った。ようやく、人影をみつけて俺はギョッとした。
二人の男女が岩に座って、眠る子供の頭を撫でている。その二人の背中には、黒い羽根と白い羽根。それもどちらも片翼だ。
「おい、そこの小悪魔。姿を見せろ」
男が金の目で俺をひと睨みすると、俺は本来の姿に強制的に戻された。
(こいつ……片翼のくせに……上級悪魔かよ)
「夢魔にしてはこぎれいだな。お前」
意地悪そうに男は笑う。
「やめなさい。この子を託す相手ですよ」
女がたしなめるように男を耳をひっぱった。
俺はできる限りの虚勢をはって、大罪者に頼まれごとなんて御免だねと言ってみた。悪魔も天使も、片翼というのは大罪を犯して天界からも魔界からも追われている奴らだ。人間で言えば、殺人を犯して世界中に指名手配されてるようなもんだ。そんな危険なやつらと関わるのはごめんだった。ただ、俺はさっきから二人の間にいる小さな女の子が気になって仕方がない。そのうえ、心臓のあたりがちりちりと痛む。
「どうした?胸でも痛むか?」
悪魔は俺の心中を見透かすように、意地悪な笑みを浮かべる。天使は小さくため息をついて、悪魔の非礼をわびた。
(片翼とはいえ、天使は天使ということか……)
「あなたはこの子に刺さった矢に反応してここまでいらしたんでしょう」
「まあな。俺の仕事の目印だからな。それにしてもなんで背中に刺さってたのかわからねぇけどな」
「そりゃ、キューピットの矢じゃねぇからな」
「なんだって!!」
俺は驚く。俺たち夢魔は、キューピットの矢にしか反応しない。そういう生き物だ。
「似ているがな。これはオレたちが作ったフェイクだ」
悪魔はあの女に刺さっていたはずの矢をいつの間にか手にしていた。矢羽の赤いハートが見る間に白と黒の羽に変わる。
「なかなか引っかかってくる奴がいなくて困ってたが……」
悪魔はにやりと笑い、その矢を俺に投げつけた。矢は俺の心臓を貫いた。激痛が全身を走る。
(意識が……)
夢魔として大失態だ。
(こんなこと……)
俺の意識は暗い闇に落ちていく。そして走馬灯のように誰かの記憶が駆け巡る。
悪魔はもともと天使だった。
天使はもともと人間だった。
二人は一つのリンゴを二人で食べた。
天使は悪魔になり、人間は天使になった。
神の怒りに触れて、二人は片翼をもがれた。
それから……。
天界と魔界から逃げる日々。
「神様は万能じゃなかったのかよ……」
俺は痛みに苦しみながらつぶやく。
「オレたちの存在がそれを否定する。だから片翼は大罪者なのさ」
悪魔はひどく優しい声で答えた。
「私たちは神の御手からこぼれたのです。そして【まつろわぬ民】に助けられました」
天使はひどく悲しい声で答えた。
「まつろわぬ?……なんだそりゃ……」
「この国に神よりも昔から住んでいる一族だ」
「よくわかんねぇよ……」
「わからないほうがいいのです。どうぞ、忘れてください」
遠のく二つの声。最後に重なるように聞こえたのは、この子を頼みますという切なる願いだった……。
「ねえ、大丈夫?」
小さな女の子の声に俺は目を覚ました。まだ、あの女の夢の中にいるらしい。
蒼くて暖かい海の中。俺は身を起し、少女と向き合う。胸が痛くてたまらない。焼けつくような、うずくような、締め付けられるような複雑な痛みだ。
「胸が痛いの?」
「ああ、痛い……」
「泣かないで……」
小さな手が俺の頬に触れる。冷たい、命の宿らない手……。俺はその手を取って、その掌に誓いのキスをした。
「迎えにいくから……」
俺はそう言い残して女の夢を去った。
夜が明けて目を覚ました俺は、自分の左胸をみた。最初は蛇かと思ったが、こいつはドラゴンだ。東洋の龍だ。二匹の龍が蒼い球を間に挟んで、絡み合っている。俺はとんでもないものを押し付けられたような気がするが、まあ、悪い気はしなかった。
(この先、何が起こるのかさっぱりわからないが……)
俺はお気に入りの黒いコートを纏まとい出かけた。
『迎えにいくから……』
朝からずっとその声が耳を離れない。幻聴だろうかと彼女は思った。薬は医者の処方通りに飲んでいる。生活のリズムを作るために、社会復帰のためのリハビリにも通っている。なんだか落ち着かないなと彼女は思った。今日は帰りに【ランカ】に行こうと決める。いつも、心が落ち着かない時に利用するカフェだ。
彼女はいつもの席から中庭を眺める。スペシャルブレンドを飲みながら、あの声に耳を傾ける。
『迎えにいくから……』
優しいくて、どこか悲しい声。けれど、不快感はない。不安もない。苛立ちもない。今までの幻聴とはどこか違うと、彼女は不思議に思いながらコーヒーを飲み干した。
店を出ると、黒いコートを着た青年がガードレールに腰かけている。ふと目が合うと彼は立ち上がって彼女に近づく。
「迎えに来たよ」
そういわれて、差し出された手。彼女は、泣き出しそうな笑顔でその手を取った。