4 そして僕はつまづき、転んだ
◇
翌日。アイルは、杖を振りながら廊下を歩いていた。その杖先からは、光の線が出ており、何かしらの形を成しては消えていた。
ヴィンがこの光景をよく見かけると気付き始めたのは、ほんの数年前。もしかしたら気づかなかっただけで、ずっと前からやっていたのかもしれない。
ちょっと目を離したすきに、さまざまなものをまわりに置きたがるのは、寂しさを紛らわすためか――。
そのとき、黒猫はいつもと違うことに気づき、思わず目を見開いた。
「アイル」
声をかければ我に返ったようで、光の生物もすぐに消えてしまった。
「何?」
思いっきり不機嫌ですと言いたげな顔を向けられ、黒猫は小さく息を吐いた。
「なんでディルクの杖を持っているんだ?」
自分の杖はどうした、と聞こうとしたら背を向けられてしまった。
まったく。今やっと気づいたぞ?
ついさっきの光の線を思い出す。杖先から出た光はさまざまな生き物になり、しばらくした後風に吹かれたように消えてしまう。それはいつもと同じだ。でも、今日は動物たちの動きがぎこちなく、すぐに消えてしまう印象を受けた。
そしたらどうだ? 案の定というべきか、アイルは自分の杖ではなく祖父ディルクの杖を使っているじゃあないか。ちなみにユリアンの杖は、燃えて無くなっている。
朝から不機嫌なわけにも納得できる。思い通りに魔法が使えないのだろう。それにしても、よくディルクの杖で魔法が使えるな。
黒猫は妙に感心してしまった。今日も魔法の授業は普通に行われたのだが、このときはヴィンも気づかなかったし、何より他の生徒や教師さえもわからなかったのだ。
他人の杖を使っての魔法の制御は、かなり難しい。多くのヴィンダーが、他人の杖では魔法が使えない。一人ひとりが違う個性や人格を持つように、杖もその人にとって一番合うものを与えられるから、当然と言われればその通りなのだが。
「あの杖、あれを扱える者なんかもういないと思っていたんだがな」
血縁者だからか、と思ったが黒猫は頭を振った。杖はそう単純なものではない。他人の杖を使いこなすには、杖の主と似た何かがなければ拒絶される。
アイルはディルクと似たものがある……?
「いや、まさかな」
ヴィンは自分の考えを笑い飛ばすと、先代から託された、まだまだ頼りない背中を追った。
◇
とても窮屈な世界だ。
アイルは眉間に皺を寄せながら思う。生まれながらに才能と地位を手に入れたアイルを羨ましがる者は多くいる。でも、それが何だ?
僕は……何もしていない。
歴代にも類をみないと言われる、アイルの魔法の才能とその魔力の量。けど、ただそれだけだ。
なのに皆、僕に何かを求める。
その何かがアイルにはわからない。
両親、そして祖父のその偉大な功績が、アイルを追い詰める。
――まるで籠の中の鳥だな。
「アイル」
父の遺した使い魔が名を呼んだかと思ったら、肩に飛び乗ってきた。本当の猫じゃないためとても軽い。
「帰ろうぜ」
首にまとわりつく温もりが、いつもより心地よく感じた。
アイルは適当に扉を選ぶと、その前に立ち杖を振った。そして、ドアノブをゆっくりひねるとその先には、さわさわと風に揺れる草木が目の前に飛び込んできた。爽やかな風が、アイルの髪をなでる。
「お帰り、アイル」
「おばあ様! 寝てなきゃ駄目だって言われてたのに」
庭に埋められた花の手入れをしている老婆を見て、アイルは顔色を変え駆け寄った。
アイルが完全に潜り抜けると、扉は消えてなくなってしまった。
「心配しなくても、大丈夫」
「僕が大丈夫じゃない」
朗らかに笑う祖母カローラを、アイルは屋敷の中へ連れて行った。
「アイルは心配性だね」
てくてくと歩く黒猫に向かってカローラは言った。
「さあ? 俺にはわからん」
黒猫は尻尾を振りながら答えた。
屋敷に入ると、アイルはカローラを座らせ、キッチンへと姿を消した。
屋敷と言っても御三家と比べれば随分と小さい。二階建ての洋館のような建物で、階段の手すりや屋根といった場所に風の模様が刻まれている。もとは中流家系であり豪華なものは好まなかったせいだ。だが、質素ではあるが職人の技巧が凝らされた屋敷である。
庭も子供がかくれんぼできるほどの広さはある。芝生とレンガで整備された庭は、祖母に園芸の趣味もあり草花で溢れている。そのため、周辺住民の憩いの場にもなっていた。
先代が生きていた頃は使用人もいたが、今はアイルと祖母の二人暮らしだ。カローラはディルク同様、変わり者のヴィンダーとして名を馳せていたらしい。草花の世話はもちろん料理から洗濯、掃除に至るまで家事全般すべてを魔法なしで自分の手でやることを好むからだ。
何故? と幼いときアイルは尋ねたことがある。
「自分の手でやるとね、魔法じゃあ込められないものが込められるのよ」
そう言われたとき、魔法じゃ込められないものが何なのかわからなかったが、その言葉を聞いて、素直に「すごい人なんだ」と幼心なりに感動したことは覚えている。
そして、そんなカローラは今、心臓の病を抱えている。完治することは難しいと言われた。
ヴィンダーも人間だ。永遠に生きることはできない。始まりがあれば、終わりもあるのよ、と泣きじゃくるアイルの頭を撫でながらカローラが諭したのは、まだ黒猫の記憶に新しい。
「はい、お水」
「ありがとう」
そう言ってコップを受け取るカローラをヴィンはじっと見つめた。
「おばあ様は、もう少し自分の身体の事を考えてください」
目を吊り上げる孫にカローラは笑顔で返した。
「確かにそうね。でもね、アイル。もしアイルの言うとおりにじっと寝ていたら、心が先に死んでしまうわ」
私ももう歳だからね、覚悟はしているわと言った途端、アイルの顔が曇った。
「アイル、貴方は私がいなくなっても、平気よ。私の自慢の――」
「……じゃない」
ヴィンはゆっくりと尻尾を振った。俯くアイルの表情まではわからない。が、心情は察することができた。
「……平気じゃない」
「アイル……」
「平気じゃない!」
そう叫んで飛び出してしまった。
一瞬の静寂に終止符を打ったのは、ヴィンだった。
「……今のはお前が悪い」
黄色く光る目を受けながら、カローラはそっとため息を吐いた。
「そうね。でも、本当のことでもあるわ。……あの子は優しいから。だから今のうちに覚悟はしておいてほしいのよ」
それにしても、酷な話だと使い魔であるヴィンは思う。
同時に、人間はよくわからないと改めて思った。
「私がいなくなっても、あの子を――」
「お前に言われる筋合いはねえ」
そう言って、ヴィンはゆっくりとした足取りで、アイルの後を追った。
◇
窓のない部屋に三つの影が揺らめいた。地下にある部屋のため、空気は湿っぽくよどんでいる。息苦しさを覚えるのは、部屋のせいか。それとも部屋の中央にある祭壇のせいか。
「さあ、始めよう」
その一言で二つの影が静かに頷く。
これが成功するか失敗するかはわからない。けれども、この世界を揺るがすことに違いはなかった。
中央に立った者の口元が、卑しく歪んだ。
◇
「入るぞ」
一応、一言入れてから部屋に入った。
そこは、アイルの自室だ。驚くほどに殺風景である。が、本の量だけは凄まじく多い。
生まれたときから一緒にいるヴィンは知っている。本がアイルにとって心のよりどころであったことを。
「……あいつ、またあそこに行ったのか」
部屋の中にアイルの姿を確認できなかったヴィンは、入ってきたドアとは別にある扉を見た。年季の入った木製のドア。その扉のドアノブをひねると、わずかに開いた隙間に体をねじ込んだ。
風が草を撫でる音が、耳に入る。視界いっぱい緑なのは、草の背丈が高いからだ。そんな緑を揺らしながら、ヴィンは一直線に歩いた。
「こんなところで泣いていたのか?」
「……誰が」
小高い丘の上で膝を抱え、顔を埋める小さな背中に、黒猫は声をかけた。
草が邪魔だ、そう思い、その背に飛び乗ると細い首元までよじ登った。振り落されるかな、と思ったが、どうやらそんな気力もないようだった。
――本当、簡単に噛み砕けそうな首だよなあ。
それでも、生まれたばかりの赤子のときから見ていたヴィンは思う。よくここまで大きくなったものだと。
「アイル、前にカローラが言ってただろ? 命あるもの、終わりは――」
「わかってる」
「わかってるなら、何故泣く?」
「泣いてない」
わからないなあ、とヴィンは思う。妖魔の世界では、相手が死にかけているときが己の力を上げるための絶好の機会である。それにもちろん、妖魔には親兄弟といった家族という意識がない。一人で生き、最後は生きているものの糧となる。そこのどこに涙を流す?
正直なところ、カローラはもう長くない。
ヴィンの目にははっきりとそう映った。だから、アイルにも伝えようと思ったのだが。
――今はやめておこう。
そう思った。
風が吹いた。さっきより高い場所にいるせいか、土や草木の匂いがする風が、髭を揺らす。
この場所は、ユリアンが息子の遊び場に、と用意してくれたものだ。といっても、魔法がかけられているのは、アイルの部屋にある扉のみ。この場所自体は、この世界にあるどこかなのだそうだ。一見人間が住んでも支障がなさそうな場所だが、夜になると極寒の地へと変貌する。
人間は簡単に死ぬ。
ヴィンを使い魔にしたのは、ユリアンだった。そしてヴィンにしても、初めての主だった。
さすがディルクの子というべきか、結構な変わり者で自分の命に関しては、とんと無頓着だった。
「俺の身にもなってみろよ!」
ウィンディーズ家は御三家とは違い、歴史も浅ければ警備も薄い。それに、これまでの常識を覆すほどの大変革を成し遂げた一族であることからか、以前の制度で恩恵を受けていた者から命を狙われることが多々あった。
今はウィンディーズという家そのものが衰退したおかげというべきか、そんなことは滅多にない。
そして当時のウィンディーズ家の警備といえば、この黒猫一匹だけだった。
「使い魔だからって、酷使しすぎだぞ!」
たまには休みをくれ、と吠えるヴィンにユリアンはいつものように笑って言った。
「悪いな。でも、これはお前にしか任せられないから」
別に本気で休みが欲しかったわけじゃない。ちょっとからかってみよう、そんな出来心だ。
それから間もなくして、ユリアンとアイルの母ツィラは死んだ。事故死だというが、そうは思えなかった。
ユリアンとツィラが死んだその日、ヴィンは屋敷でアイルの子守をしていた。――出かけていたことすら、知らなかった。
きっとユリアンのことだ。たまには休みをやろうと思ったのだろう。だったら、警護をきちんと固めとけ――。そう言いたいが、もうユリアンもツィラもこの世にはいない。
それからだ。ディルクやユリアンが一生をかけ築きあげたものが、徐々に崩れ去ったのは。
この小さな主が、ディルクやユリアンのようにこの世界を変えられるとは思っていない。
たしかにアイルには、二人以上の才能がある。でも、それだけではこの現状を立て直すことはできない。それに、アイルは先代の意思を継ぐどころか疎ましく思っている。
ユリアンは、今の息子を見ても別に怒りはしないだろう。好きなように生きてほしいと言うはずだ。
でも、とヴィンは思う。
それなら何故俺は、こんなにも腸が煮え返りそうなほどの感情を持て余すのだろう、と。
◇
窓の外から見上げた空は、ネズミ色の厚い雲に覆われていた。
まるでこの地域の今を表しているようだ、と窓辺でたたずむレリックは思った。
マグレーティとフィンシュテットをわける、「分断の境」。魔法の施された境界線は、本来ならもうないはずだった。
そう、ヴィンダーの中でも異端と言われたウィンディーズ家が、衰退しなければ。
我々を脅かすこの脅威は、これまでにないほど膨れ上がっている。今ここで止めなければ、さらにひどいことになるのは、子供でもわかる。
ヴィンダーとの間に大きな溝がある限り、我々は理解し合えないのだろう。
本来なら、ずっと昔に今の状況になってもおかしくはなかった。だが、「ヴィンダーは我々の敵であり、同種とみなすな」という教えがあったからこそ、数十年前まで我らの自由はそれなりに守られてきたのだろう。
それを今になって、わかるとはな。
レリックは鼻で笑った。
だが、ウィンディーズという一族を信用したことは、間違いじゃなかったと思いたい。けど、そうもいかないだろう。
「レリック、すまん! 失敗した」
大きな音と共にドアから入ってきたのは、ランスだった。苦虫を潰したような顔には、深い後悔の念が浮かぶ。
「例の作戦を実行していた奴が死んだ。……どうやらアイツ、貧困民を雇って『材料』を手に入れたらしいが、それが漏れていたらしい。『小瓶』の方も回収はできなかった……すまん。オレがいながら」
そのまま腹を切ると言い出しそうなランスを見て、レリックは頭を左右に振った。
「いい。お前が無事でよかった」
うなだれる青年から再び窓の外へと視線を移した。
――これでまた振り出しに戻った。
「夜明けは、遠いな」
今にも雨が降りそうな空を見て、レリックはぽつりと呟いた。
◇
――ここは、変わらないな。
白に近い金髪をなでる風を受けながら、アイルは思った。
僕は、あの頃と比べて少しは変わったのかな。
ユリアンやツィラと過ごした記憶はない。その代り、祖父ディルクと過ごした日々なら、わずかではあるが覚えている。
何にもとらわれず、何も気にせずにいられたあの頃。自分の気持ちに素直になれたあの日々がどうしようもなく、懐かしい。
一度、ここで昼食をとったことがある。注がれる暖かな日差しの下、ディルクとカローラとヴィンがいて笑い声しか聞こえなかった。
あの頃に、戻りたい。
けれど、時間を巻き戻す魔法なんか存在しない。常に一方通行な時間の流れに、ヴィンダーも身を置くしかないのだ。
いずれ独りになるのはわかっていた。けれど、未だにそれを認められない自分がいる。
「おい! アイル」
ヴィンが耳元で騒ぐ。五月蠅いと思いつつ、そのまま無視した。けれど――。
「アイル! 妖魔だ!」
その一言で飛び起きた。
「なんでこんなところに!」
「俺が知るかよ。……けどコイツ、召喚された臭いがする」
つまり、誰かがアイルの命を狙ったことになる。
「ふん」
鼻で笑ったあと、ベルトに差していたディルクの杖を抜き、鳥のような妖魔に杖先を向けた。
◇
「おい、アイル! 早くしねえと――」
「黙れっ」
突然声を荒げたアイルに驚き、黒猫は顔を向けた。
するとどうだろう。
杖はしっかり妖魔に向けられている。けど、肝心のアイルの表情が浮かない。眉間に皺をよせ、暑くもないのに額からは汗が噴き出ていた。
「アイル?」
静かな声音で名前を呼んだ。けど、アイルの耳には届かない。
「アイル!」
「五月蠅い!」
集中しているのはわかる。けど、なんでまだ魔法を使わない?
耳を劈くような悲鳴が聞こえた。妖魔の鳴き声だ。あっちは完全に戦闘態勢に入っている。
そう思っているうちに、翼の生えた妖魔は一気に降下してきた。
もたもたしていると、いくら低級妖魔でもやられちまう。
ヴィンは、いてもたってもいられず、睨みで妖魔の羽を凍らせた。氷は羽だけでなく、妖魔自身も覆うと、妖魔は落下した。その衝撃で氷は砕け、粉々になった。
「お前、死ぬとこだったんだぞ!」
牙をむき出しにしながら怒鳴った。けど、アイルは表情のない顔で、ただ自分の手のひらにある杖を一心に見つめていた。
「アイル?」
どうも様子がおかしい。
顔色を窺うようにしてのぞけば、驚くほど青くなっていた。
「どこか具合がわるいのか?」
もしかしたら、呪詛のための囮用妖魔だったのか?
いろいろ思案しているときだった。
「……ヴィン」
今にも消えそうな声で名を呼ばれ、黒猫は主人の肩へと飛び移った。
「なんだ?」
自分が動揺しちゃいけない。
ここのところ滅多に見ることがなかった、アイルの余裕のない表情をみて、いつも通りを心掛けた。
「……みたい」
「ん?」
「魔力を感じない。……魔法が使えない」
ヴィンは言葉を失った。
「どういうことだ!」
しばらくの沈黙のあとに出た声は、驚くほど鋭かった。
「わからない」
そんな使い魔の口調にも動じず、アイルは淡々と答えた。それどころじゃないのだろう。
「お前の歳で、しかもいきなり魔力が消えるって普通考えられないだろ! ――アイル。変な冗談はよせ。笑えない」
だが、アイルは力なく首を振った。
冗談ではない、といいたいのだ。
「嘘だろ?」
肩から飛び降りた黒猫は、アイルの正面に立つと叫んだ。
「頼むから、嘘だって言ってくれっ!」
ヴィンダーにとって、魔力は命に等しい。
ただでさえ、ウィンディーズという名家の当主であり、類稀なる魔力を持つアイルから魔力を取ってしまえば――。おのずと言いたいことはわかるだろう。
ヴィンはぎりっと歯を噛み締めた。そして、眉間に皺を寄せたまま、しばらく固まっていれば、次の瞬間、苦痛にも似た視線を向けられた。
「悪い」
そう言って、ヴィンは肩から飛び降りると、笛に似た音を吹き始めた。
「ヴィン!」
鋭い声で使い魔の名を呼ぶが、それでも黒猫は止めなかった。
「やめろっ」
アイルが叫んだそのときだ。
さわさわと風に靡いていた丈の長い草が、突然意思を持ったかのように、アイルの足首に巻きついた。
「くそっ」
逃れようとするアイルだが、草はびくともしない。動けば動くほど、絡みついた。
嫌な予感がする。
口笛のような音はもう聞こえない。その代り、周囲の草木が不自然に揺れた。
ヴィンの戦法を嫌というほど知っているアイルにとって、それは自分に向けられるものだと察することができた。
――鎌鼬だ。
ヴィンダーの魔力は、血のように体の中にまんべんなく存在すると言われている。そのためか、身に危険が迫れば自然に防御魔法が働く。熱い物を触ったとき、手を引っ込めるのと同じような原理だ。
ヴィンは、反射的に起こる防御魔法を引き出させようとしているのだ。
でも、嘘は言ってない。
ヴィンは、人間ではなく使い魔だが、生まれたときからずっといるのだ。――今更嘘をつくほど信用していない相手ではない。
「ヴィン!」
名前を呼んでも、一瞬躊躇するだけで、止めようとはしない。普通、使い魔は主の命に絶対服従だ。でも、ヴィンは違う。もともとアイルの使い魔でないことも大きい。
「ヴィン!」
もう一度名を呼ぶ。それでも同じだ。黒猫の目に、揺るぎはない。このままでは、ズタズタに引き裂かれてしまう。
――それも、仕方がないか。
「……いきなり魔力が消えて、細切れに殺されたって、文句は言えない」
こんなことは、どんな文献にも載っていなかった。だったら、ここで死んでしまえば全部なかったことになる。それならそれで、いい。
ただ――。
「……このままじゃ、死にきれない」
アイルは抵抗するのをやめ、体中の力を一気に抜いた。
魔法で操っているといっても草は草。
アイルに巻きつくそれらは、一瞬大きくしなった。そのタイミングを使い、アイルは手を伸ばした。賭けだったが、どうやら成功だ。
アイルは、必死に伸ばした手で、黒猫の尻尾を掴んだのだった。
「ちゃんと僕の目を見ろ」
いきなり尾を掴まれた黒猫は、一瞬何が起こったのかわからず、全身から殺気にも似た空気を放ったが、すぐに状況を把握したらしい。
金の双眸が、アイルを映す。
「僕は嘘をついていない」
とても静かな声だったが、黒猫にはきちんと届いたようだ。
「わかった、わかったから、下ろせ」
掴んだ尻尾を離せば、体中に絡みついてきた草も、何事もなく風に揺られていた。
一応ヴィンが周りの安全を確かめたあと、一人と一匹は、向かい合うようにして座った。
腰まである草が一面に広がるこの場所で、しゃがみ込んでしまえば、草が姿をすっぽり隠してしまう。魔法のいらない目隠しだと、アイルは思った。
「一体、どういうことだ」
本気で怒っていることが、手に取るようにわかる使い魔のおかげで、逆にアイルは冷静でいられた。
「そんなの僕にわかるわけがない。むしろ、僕が知りたい」
アイルは、自分の手のひらを見た。
「でも、魔力を感じないことは、本当だ」
いつもは意識さえすれば感じるはずの魔力が、今は何も感じない。
歳をとれば魔力は弱まる。だが、一度に消失することはない。これがこの世界の常識だ。
「新種の病、なのか?」
もしかしたら、病気なのかもしれない。
だが、それをヴィンは否定した。
「魔力そのものだけに影響する病なんて聞いたことねえ。それに、体はなんともないのに、魔力だけっていうのは、どうも変だ」
「じゃあ、どうすれば」
「魔力についての知識がある奴、研究者、ああ教育関係者がいいだろうな」
「教育関係者……つまり教授、か」
ヴィンは頷いた。
「奴らは研究者でもあるからな。何か知っているかもしれねえ。聞くとしたら……ドーリスあたりか」
明日の朝一にでも研究室に行ってみようと思っているときだ。
「アイル」
名を呼ばれ、黒猫に視線を向ければ、神妙な面持ちでこちらを見つめていた。
「何?」
「……このことは誰にも言うな」
アイルは黙ったまま、黒猫を見た。
「『ウィンディーズ』という自分の立場をきちんと理解しろ。魔力がないなんて、ノーマーのガキと同じなんだ。名家の当主なら、絶対に気づかれちゃなんねえ」
文句の一つや二つ飛んでくるかと思ったが、アイルは黙ったままだった。
それなら、それでいい。
「というわけで、お前は黙って普段通りに振る舞っていろ」
「魔法を使う場面になったらどうするんだ?」
「俺に言え。大抵のことはできる」
黙り込んだ主に、黒猫は尻尾を振った。
「信用してないのか?」
「さあね。……でも、つべこべ言ってられる立場でもない」
「わかってるじゃねえか」
「ただし、絶対にうまくやれよ?」
さて、どこまで騙しきれるか。
それは、アイルにもヴィンにもわからなかった。