2 マグレーティ
◇
真っ白な雲が空を侵食する午後。
少女は一人、ぼんやりと小さくなっていく青い空を見つめていた。ゆっくり、それでも確かに消えていく青色。ただ一方的に白に食べられる青をどうにかしたくて、手を伸ばしてみても、どうにもならない。
ここは、そういうところ。
少女は小さな手足で、壁のように積み上げられた木箱の上に立つと、背伸びしながら両腕をうんっと伸ばした。
何か掴める気がするのに。
何もない両手を見ながら、少女は思った。両側を少女よりも高い壁が天に伸びているせいで、ここは日の当たりが悪い。苔の生えた壁をよじ登るトカゲが目に入った。
わたしにも壁を登る手があればな。
食い入るように両手を見つめても、突然吸盤が出てくるわけもなく、いつも見ている小さな人の手がそこにあるだけだった。
「……お使いの続きをしないと」
ぴょんと木箱から飛び降りれば、少女はさらに路地の奥へと走って行った。
◇
ローブさえなければ、ノーマーとヴィンダーの区別はつきにくい。
ただアイルの場合、珍しい髪色をしているせいで、嫌でも人目を引いてしまう。それをのぞけば、誰がどう見ても十代半ばの少年だ。白に近い金髪の癖っ毛は、父親譲りだと聞いている。でも、顔は母親似らしい。
写真でしか知らない両親。祖母を始め二人を知る人から「似ている」と言われても、親と言う者がどういうものか、アイルにはいまいちわからない。喜んでいいのか悲しんでいいのか。どういう反応をするのが一番いいのかわからず、アイルはいつもひきつった笑みを浮かべることしかできなかった。
一度、それが嫌になって姿を変えてみたことがあった。が、すぐに元に戻した。見慣れなかったというのもあるが、何となく自分が自分でない気がしたのだ。
それ以来、アイルは自分の容姿を変えていない。
「さて、どこに行こうか」
ほとんどのヴィンダーが、ノーマーを自分たちと同じ人間としてみない。今では多少なりとも意識は改善しつつあるが、それでもまだ、すべてを払拭することはできない。
歩みを進めながら、アイルは見慣れた景色に目を配っていた。
死ぬまで一度もマグレーティに足を踏み入れたことがないというヴィンダーもいる中、アイルはよく訪れる。だが、本人にその自覚はない。
その気はなくとも、撒いてしまった悪い種は芽が出る前に摘む。
アイルは、ぐっと伸びをするとノーマーが住む、マグレーティを歩いた。
この世界には、一つの大陸がある。そのため、陸で生活する生物はみなここに暮らしている。けれども、その九割が人の住める土地ではなく、ここ、フィンシュテットとマグレーティだけが、唯一人の住める場所であった。ヴィンダーなら、他の土地で暮らすことも不可能ではないが、いつ魔力が衰えるのかわからないため、ここを離れ暮らす者は少ない。そして、ヴィンダーが主に住んでいるフィンシュテットは、マグレーティよりもずっと人の住みやすい土地であった。
一方マグレーティには、活火山が存在し、地震も多い。竜巻などの災害も多く発生する。一年を通し雨が少なく乾燥している地域だ。それに、土地も北地域に比べやせ細っていて、収穫は少ない。それも、ヴィンダーとノーマーを対立させる要因になっていたのだろう。
分け合えばいいのに、と思ってもそれができないのが人間だ。
――めんどくさい。
アイルはそっと息を吐いた。
◇
走れば走るほど、まわりは薄暗くなった。
ネズミが目を光らせ、生臭さが立ち込める。こんな場所でも、暮らしている人間はいる。
息をするのも申し訳なさそうにひっそりと身をひそめる者もいれば、ぎらぎらと目を光らせ獲物を狙う獣のような目で周りを睨む者もいる。
少女には見慣れた光景である。誰かが喧嘩でもしたのか、ばらばらになった木箱の破片を飛び越えた。
「おや、ココじゃねえか。どうしたんだ? そんなに急いで」
どこで手に入れたのか、片手に酒ビンを持ち、顔を真っ赤にした初老の男が少女を呼び止めた。
顔なじみの人間だ。幼いときからよくしてくれる良い人である。
「お使い。これを持って帰るところ」
そう言って持っている物を見せた瞬間、男は目を見開いた。
「ココ、これをどこで?」
心なしか、声が上ずっている。
何か取り返しのつかないことでもしたのだろうか?
「酒場。酒に酔っている人間から持ってこいって」
素直に答えれば、男は震えた手でココの手にある物を指差した。
「お前、これが何なのか、知らないのか?」
「知らない」
ただの木の枝ではないのか?
木の枝をちょっときれいに加工してあるだけの。
小首を傾げながらそれを見ていると、男は声を潜め言った。
「悪いことは言わねえ。ココ。これをもとの場所に戻すか、捨てろ」
「どうして?」
持って来いって言われた。
持っていけば、お金がもらえる。
お金があれば、しばらく食べ物に困ることはないというのに。
「どうしてってお前。これはおれたちには必要ないものだからだよ。もし、奴らに追われてみろ。命がいくつあっても足りねえ。……殺されるぞ」
「……これがなければ殺さることはないって言ってた」
男は酒臭い息を吐いた。そして真剣な目を少女に向けると低い声音で言った。
「お前は素直に育ったな。けど、この世界で生きるには知恵を付けなきゃならねえ。いいか? あいつらの魔法に杖なんか必要ないんだ。ただ、対象に対して的確に魔法を使うためにあるだけなんだよ。杖がなくてもあの猛獣は呪いを使える。覚えておけ」
心配そうな表情を浮かべる男にココは頷いた。
「わかった。ありがとう」
そうか、これは猛獣が使う物だったんだ。
ただの木の枝にしか見えないのに。
「わかったのなら早くそれを……」
「でも、残念」
少女はにこりと笑うと、ぼさぼさの髪を揺らして言った。
「今、追いかけっこの真っ最中なの」
◇
マグレーティにやってきたのはいいものの、具体的に何をするわけでもなく、アイルはいつものようにあてもなく町中を歩いた。
無意識のうちにため息を吐く。
なんで僕はこんなことをしているんだろう。
ゼアにされた忠告のせいか、はたまたウィンディーズ家当主としてか。
なんか、いいように動かされている。
まあ、むしゃくしゃしたから、と言ってもいいだろう。自分の感情に振り回されるのは、あまりいい気がしない。
僕は一体、何なんだろう。
そう思って視線を上げたそのとき。怒声と共に物が崩れる音が鳴り響いた。何事かと視線を向ければ、二人の男と雑巾のごとくボロボロな少年が、大通りから少し入った細い道の中央にいるのが目に入った。男二人は、マグレーティでは着用を禁止されているローブを羽織っている。
ローブはヴィンダーの証の一つ。それを羽織っていることは、ノーマーを蔑んでいることと変わらない。
チッとアイルは舌打ちをした。
何も珍しい光景じゃない。一部のヴィンダーはノーマーを奴隷にとして売買している話も聞く。どれもここ数年で増加傾向にあることだ。
原因はわかっている。ウィンディーズ家の弱体化だ。友好関係まで結び、一時は争いがなくなることに希望を抱いたノーマーも、今では死んだ目でローブを見る。
その目の奥にある感情は、悲しみか、絶望か。それとも、憎しみか――。
そして、僕がマグレーティで魔法を使ったことは皆知っている。つまり、ウィンディーズ家もマグレーティでの魔法使用を許可したようなものなのだ。それに、今のフィンシュテットの最高機関は、この事実から目を背けている。
アイルは舌打ちを打った。
これだから、嫌になる。
――僕は偉業とかそういうものは、いらない。
アイルは、蹴られ殴られるノーマーの少年を見ながら思う。
どうしてウィンディーズ家は、御三家ほどの権力を持つ名家になってしまったのか。
――どうして僕はウィンディーズ家の元に生まれてしまったのか。
「さっきから、何見てんだ」
じっと立ち尽くしていたせいか、一人の男がアイルに気づいた。
「ちょうどよくね? 見た目も悪くねえし。きっと高く売れるだろうぜ」
ローブを羽織った二人組は、ひとしきり笑ったあと、杖をナイフのように向けてきた。
バカだなとアイルは思う。
マグレーティでの魔法は禁止されている。……が、それは表上。これを見れば、すでにない掟だと嫌でもわかる。
だが、だからといってローブも杖も持たない人間がノーマーだとは限らない。
馬鹿馬鹿しい。
アイルは一瞥をくれると、その場から立ち去ろうと背を向けた。だが、アイルをノーマーだと勘違いしている二人の逆鱗に触れるには、十分すぎる行動だった。
「お前、俺らをなめてんのか」
「ゴミクズ風情が。俺達に歯向かえばどうなるか教えてやるよ」
そう言って、杖先を向けられてもアイルは表情ひとつ変えなかった。
なんだかな、と思ってアイルはため息一つ小さく吐いた。
ヴィンダーでウィンディーズ家及び御三家を知らない者はいない。けれど、ほとんどのヴィンダーはそれをローブで判別している。
本当、僕は人間で陽炎じゃないのに。
杖を出そうとしたそのときだ。
「いてっ」
突然、一人が額を抑えた。誰かが石でも投げたのかと視線を下げたアイルは、投げられたものを見て目を大きくした。
地面に転がるのは、細い木の枝。だが、ただの枝じゃない。
――どうして杖が?
「おい、どうしてノーマーがこれを持っている!」
はっと顔を上げれば、その場から必死に逃げようとあがく少女がいた。だが、もう一人の男に髪を掴まれ逃げようにも逃げられない。
このノーマー、僕を助けようとしたのか?
初めてのことに呆然と立ち尽くしていれば、追い打ちをかけるように、男が叫んだ。
「こいつ杖を盗んだのか?」
信じられないといった様子で顔を見合わせる二人。この隙に姿をくらますこともできたが、アイルはそうしなかった。
――本当、ヴィンがいたらまた小言を言われる。
眉をひそめ、この状況をただ傍観した。
◇
カチャリ、とティーカップを置く音がやけに大きく響く。
ここはマグレーティにある、とある館の一室。そこから窓の外を眺める一人の男がいた。
金髪に金の瞳。三十代半ばに見えるのその男は、端正な顔立ちに反し纏う雰囲気には刺さるような冷たさがあった。
よく同胞からは「クジャクの羽を持った鷹のようだ」とからかわれている。そんな鳥がいたら派手すぎてすぐに滅んでしまうだろう。
こちらに向かてくる足音が聞こえて、視線を外から扉に向けた。
「レリック、言われた通りにしたからな」
荒々しく扉を開け入ってきたのは、浅黒い肌の青年だった。後ろで結う焦げ茶色の髪が、ネズミの尻尾のようだ。
「ああ。ありがとう、ランス」
「ちょっと、ランス。あなたその振る舞い方、どうにかして直したら? イノシシが入って来たかと思った」
椅子に座っていた女が、眉間に皺を寄せながらランスを睨んだ。
「はっ! お前が不愉快になるのならオレは大歓迎だね!」
空いている椅子に座ると、ランスは足を組んだ。そして、机の上に置いてある菓子に手を伸ばす。
途端、バシッと鋭い音が聞こえた。
「痛っ。何するんだよ、ババア!」
再び叩かれる音が部屋中に響く。
「お行儀が悪い! それに口のきき方に気を付けなさい! 若造が!」
栗色の髪をまとめ上げ、ワンピース姿で仁王立ちする女は、常に持ち歩いている黒い万年筆をランスに向けた。女は、ランスの手や頭をこれで叩いたのである。
「エミーリア」
窓辺にいるレリックが、涼しげな視線を投げながら女をいさめた。
不満そうな表情を浮かべつつ、エミーリアはしぶしぶ元の席に着くと、机の上に置いてあるティーポットを持った。カップに注がれる紅茶の香りが、この場の空気を浄化しているような錯覚を覚える。
紅茶を飲み落ち着いたのか、エミーリアは静かな口調で呟いた。
「本当に夜明けは来るのかしら」
レリックは、ちらりとエミーリアとランスに視線を配ると、気づかれないよう口角を上げて言った。
「止まない雨がないように、明けない夜もないさ」