27 傷は深く大きく
◇
扉の前に置かれた、冷え切った食事を見てルーナは肩を落とした。
「温かいの、置いておくから」
そう言って持ってきた食事を扉の前に置いた。
水は少し飲んでいるようだが、それ以外は手を付けた形跡がない。
もう一週間近くが経とうとしている。このままじゃいけない。そう思ってもルーナにはどうすればいいのかわからない。
「どうだ、様子は」
顔を上げれば、ランスが向かっていた。頭を振れば、ランスの眉間に皺が寄る。
「こうなったら、強行手段だ」
そう言うなり、ランスは部屋の扉を蹴破った。
途端、風が襲ってきた。あまりにも勢いのある風で、思わず顔を覆う。ランスも同じように両腕で顔をかばった。
「アイル! いつまでも閉じ籠ってるんじゃねえ!」
そう言って部屋に一歩足を踏み入れた瞬間だった。あれほど吹いていた風が、ぴたっと何事もなかったかのように止まった。部屋の中のアイルは、突然の来訪者に驚き、目を丸くしている。そんなアイルのまわりを囲むように、たくさんの本が散らばっていた。
「お前、いつまで拗ねてるんだ」
いい加減にしろ、と怒鳴るランスの迫力に驚いているようだが、アイルは前と変わらない様子で答えた。
「僕が何かしたか?」
放っておいてくれと言わんばかりに、アイルは背を向けると再び開いていた書物に目を落とした。
「お前、それ本気で言っているのか?」
「何? 別に冗談言ったつもりもないけど」
用がないなら出てって、とアイルが言った瞬間、ランスの怒りが頂点に達した。
やめて、というルーナの声も二人には届かない。ランスはアイルを殴った。
壁に背を強く打ったアイルは、そのまま床に突っ伏したまま起き上がらない。武術に関してはランスより上であるはずのアイルが簡単にその拳を受けたことに、ランスは胸が締め付けられる思いがした。
「バカ野郎」
殴られた本人ではなく、殴った側が涙声になってそれだけ呟くと、ランスは部屋を後にした。
残されたアイルは、おもむろに殴られた頬に手を当てる。思いっきり殴ったのだろう、そこは真っ赤に腫れ、口の中も切ったのか端から血が伝っていた。
ルーナはすぐに台所に行き、冷たいタオルを持ってこようと思ったがやめた。扉を閉めれば、もう開かないような気がしたのだ。とっさにお盆の上に乗っていたタオルをコップの水で濡らすと、アイルのそばによりリンゴのような頬にあてた。
アイルは何も言わなかった。されるがままのその目は、うつろに見えた。
ガラス玉のようだ。路地裏で何度も見たことがある。――死を直前にした者の目だ。さっと顔から血が引いたのがわかった。けど、ルーナは散らかった部屋を片付け窓を開け、新鮮な空気を入れこむと、まだ人形のように動かないアイルのそばに座った。
部屋いっぱいにあるのは、マグレーティに関する本。ふとアルビーネの館にあった書斎を思い出す。きっと、何かに没頭していなければ壊れてしまうのだろう。黒髪の美女の話をエミーリアから聞いていた。
どういう言葉をかけるのが一番いいのかわからない。
「……だよ」
静寂の中、突如聞こえた声。顔を上げれば、奥歯を噛みしめるアイルの顔が目に入った。
「誰にもわからないさ!」
精一杯の強がりに見えた。なぜなら、アイルの頬には涙が伝っていたから。
驚いたように目を見開くルーナは、アイルがそのまま部屋を出ていくのを止めることができなかった。
「ランスのせいね」
アイルが姿を消し数日が経った。レリックの寝室に集まったランス、エミーリア、ルーナはなかなか見つからないアイルに心を痛めていた。
「貴方、相手の気持ちというのがわからないの?」
「そんなわけあるか。このままじめじめうじうじと部屋に引きこもっている方が意味ないだろ!」
そう答えたランスに、エミーリアは額を押さえた。
「いくらなんでもやりすぎたのよ。気持ちはわからなくないけどね」
ただでさえ、ヴィンダー側の動向が怪しくなってきたのだ。むしろ今まで目を付けられなかったことが奇跡に思える。そんなときに内輪で問題を抱えていれば、早く解決しようと焦らされる。
だが、それよりも自然と今後のことに気を取られ、エミーリアもランスも表情を曇らせた。
あの火事の時と同じだとルーナは思った。
だったら私が動く。
部屋を出ると、ルーナは屋敷を出た。
心当たりはない。でも行かなきゃいけない。
待っているだけでは、私は何も得ることができないから。
足が痛い。体が重い。のどが渇いた。頭が痛い――。
今、自分が何をしていて誰にどう思われるかなんてものほどどうでもいいことはない。
とにかく前へ進みたい、その気持ちだけがアイルを動かした。
動かなければ、止まってしまえば囚われそうだった。何に? と問う自分がいる。アイルは力なく首を振った。もう、何も考えたくない。
三日間、歩き続けた足は棒のようで動かせば痛みしか感じない。乾燥した土地は、無情にもアイルから水分を奪い取り、肌は荒れ、唇も切れ、とても十代の少年には見えなくなっていた。
それでも前へ進む。今はこの痛みさえも必要だ。
……何か刺激がなければ、思い出してしまう。脳裏をよぎるランスの言葉、そしてヴィンの――。
「やめろ!」
考えたくない。思い出したくもない。なのに、自分の意思とは関係なく、記憶はアイルに見せる。
痛む足を思いっきり叩いた。うめき声が漏れる。だが、痛みが遠ざけてくれた。そのまま、痣だらけの足を引きずりながら、再び歩き出そうとしたときだ。
視界が傾いたと思ったら、体を打った。……倒れたのだと認識するまで少し時間がかかった。体はアイルが思っている以上に限界に近い。それでも構わず、起きあがろうとすれば、何かが落ちる音を聞いた。おもむろに手元を見れば、そこに転がる木の枝が目に入った。その先には小さな袋がついている。
途端、アイルの目は大きく見開かれた。
さっとそれを拾い上げると、腕を伸ばしたたきつけようとした。
けど、できなかった。
「くっそ」
杖だけなら躊躇なく叩きつけただろう。折ることもできた。でも、カローラの言葉とルーナからもらった匂い袋の香りが、祖母とヴィンと過ごしていたほんの数ヶ月前のことをありありと彩った。
「何なんだよ、もう」
かすれたその声と共に、乾いた大地に数滴の滴が落ちた。
アイルは両親が嫌いだ、というフリをして生きてきた。嫌いも何も、記憶にすらないのだから、親という存在自体よくわからない。
でも、周りから語られる両親の話はおとぎ話の英雄のようで。幼いころは、それはそれは鼻が高かった。自分は英雄の子供だと世界中に言いふらしたい気持ちでいっぱいだった。……自分に魔法の才能がないことを知るまでは。
それからだったか。武術、それも剣術における才能をヴィンに指摘され、半ば願掛けのように剣を持つことをやめた。
もともとヴィンダーにはいらない才能だ。でも、結果的に身を守る術を持っていたからあんなむちゃくちゃな方法で、自分の中に眠る魔力を目覚めさせることができたのだと思う。
それから数年後、自分の魔力の量が類を見ないほど膨大だと知った。するとどうだろう。今度は両親と僕を重ねてみる者が増えた。まだ小さな体にその期待は、身動きができなくなるほど重い。具体的に何をそうすればいいのか道を示してくれれば、その通りにやっただろう。でも、そんな者はいない。……当たり前の自由が苦痛だった。
そんなアイルが唯一落ち着けたのが、ウィンディーズ家の屋敷内、カローラやヴィンのいる空間だった。
今じゃあもう、どこにも自分の居場所はない。
うつろな瞳でそんなことを思う。
きっと心のどこかで、また前の生活に戻れると思っていたのだ。
それこそ、なんて馬鹿馬鹿しい幻想を抱いていたのか自分でもわからない。けど、それはもう叶わないことをアイルは知っている。
「もう、どうにでもなれ」
乾いた唇から漏れた言葉は、誰の耳にも止まらず、風に流された。




