12 闘技場
◇
冷たいものが、顔に当たった。
「いい加減、起きやがれ」
ずきりと痛む頭を抑えつつ、ゆっくり目を開くと、桶を持って目の前に立つ大男が飛び込んできた。
最悪だ――。
前髪から滴り落ちる滴は、ぽたぽたと腕に当たる。拭いたくても、だるくて腕を上げるのももどかしい。
一体何事だ?
徐々に頭が冴えてきたときだ。
「そろそろお前の番だ。早く武器を選べ」
そう言って、大男は無理矢理アイルの腕を引っ張り上げ立たせると、そのまま隣部屋に連れて行った。
……ここは、どこだ?
はっきりしてきた頭で周囲を見渡せば、明らかにアルビーネの屋敷ではない。粗末な木造の建物の中のようだ。その中に、たくさんの男がいる。ほとんどの者が、体躯のしっかりした男ばかりであるが、片手を失っている者、大きな傷痕のある者などどこか血生臭い。
――まさか、な。
悪い予感を振り払いながら入った部屋で、予感が的中したことをアイルは思い知った。
ありとあらゆる武器がそこにはあった。
「好きなものを選べ」
そう言って、大男は部屋を出ていく。
好きなものを、選べ?
そんなこと言われても、何に使うのかわからないというのに。――いや、なんとなくわかる。
がちゃがちゃと耳障りな鉄の音、さっきのこもった眼差し、負傷した人間。そして、こびり付きそうになる、血の臭い。
ここは、……人の生き死にを鑑賞する場所、闘技場だ。
目の前が真っ白になった。
「お待たせいたしました! 次の試合へ移らせていただきます!」
会場を盛り上げる、進行者の声が高らかに響く。
次は、アイルの出番だ。
ルールも対戦相手も、何もかもわからないまま放り込まれ、正直何が何だかまだ理解が追いついていない。けど、意識を失う前に聞いたアルビーネの言葉から、支払った分の金は返してもらう、ということだろう。
まだ、頭がずきずきと痛む。
そんなアイルを余所に、無情にも試合開始の音が場内に響き渡った。
それと同時に、幕が上がり、アイルは半ば押し出されるようにして放り込まれた。
どうやら、思った以上に時は流れていたようで、空高く輝く太陽の眩さに、思わず目を細めた。
どうして、僕がこんなところにいるんだろう。
今更ながら、自分の境遇を不思議に思う。
そんなとき、獣の咆哮が耳に飛び込んできた。
アイルの対戦相手のようだ。
大きな獅子を前に、アイルはそっと息を吐いた。あのときは、女の使い魔だった黄金の獅子を相手にした。けど今はあのときとは、違う。
アイルは、自分の両手のひらを見た。
今の僕に、魔力はない。争いごともできれば避けたい。でも、僕は誓った。
――強く、生きなさい。
死期の近い祖母の言葉を胸に、片手に持つ剣を強く握り直した。
元、ヴィンダーアイル・ウィンディーズが闘技場に出る――その噂は瞬く間に広まり、賭け金も観客も、闘技場始まって以来の盛り上がりを見せていた。
「キングに金貨一枚」
そして、観客のほとんどが、アイルの対戦相手であるキング――無敗の獅子に賭けた。
「魔法が使えたら、間違いなくウィンディーズ家の坊ちゃんに賭けたけどな」
「剣術や体術は、からっきしって聞いたことがあるぞ」
確かに、アイルは人前で魔法以外の武術を見せたこともなければ、そう言ったものは極力避けていた。
だが、それ以上に観客たちは見たいのだろう。……天才ヴィンダーと呼ばれ、自分たちにはないもので満たされていた者が、無残に散る死にざまを。
だが、試合は一分もなかった。
観客たちが歓声を上げ、盛り上がる前に決着がついてしまったからだ。
腹を空かせた獅子が、試合開始の合図と同時に檻から放たれると、真っ先にアイルの喉元めがけて牙を振りかざした。
これで決着はついた、そうほとんどの者は思った。だが、アイルはそれをかわすと、剣を一振り降った。境界線を引くように降った剣は、獅子の尾を切り落とす。
キングは、痛みからか大きな咆哮をあげた。怒り狂ったキングは、止めるのが難しい。満足するまで暴れ回るため、犠牲者は対戦相手のみならず試合終了後の回収係まで及んだことが過去にあった。
怒り狂ったキングに、観客席から歓声が聞こえる、まさにその一歩前。
突如、キングは場外へと退場した。
しんっと静まり返る場内で、ぽつり立つのはアイルただ一人だけだった。
「お前、凄いな!」
中に戻れば、一人の男が話しかけてきた。
左目の下にある、花のような六つの丸い入れ墨。アルビーネの屋敷で読んだ書物にあった。たしか、殺人者の入れ墨だ。
一見、そういうふうには見えない。人懐っこい笑顔は、とてもじゃないが人に嫌われるより懐かれそうだ。
人は見た目じゃないなと思う。
「オレは、ランス。お前は?」
見たところ、オレより年下だろ? というランスにアイルはめんどくさそうに一度だけ頷いた。
「名前は?」
「アイル」
もう、いいだろう。いい加減鬱陶しく思い始めた頃、ランスはアイルの腕を掴むとどこかに向かって歩き出した。
「お、おい」
「お前、細い癖にあのキングを瞬殺だもんな。大したもんだ。どこかで鍛えていたのか?」
「殺してはいない」
「ああ、そうだな。ごめん、ごめん」
そう、殺してはいないのだ。
ただ相手の殺気を削いだだけ。大抵の生物は、自分より圧倒的に強い者を前にすると、戦うことを避ける。それを剣を使い実践したまでだ。
「でもさあ、あんな技どこで学んだわけ? 野生同然の動物を従わせる術なんて、普通身につけられないだろう?」
「……別に。たまたま詳しい奴がいただけだよ」
脳裏をよぎる、漆黒の体と金色の瞳。
ヴィンは何かとつけては、アイルに魔法がなくても生き残れる術を叩きこんだ。
今回もその賜物である。――決してアイルの持つ武術の才能ではない、と言いたい。
こりゃ驚いた、と黒猫の舌を巻かせたこともあるが、アイルは全然嬉しくなかった。
傷つけ殺す術など、あっても仕方がない。
それにしても……。
「どこに連れて行く気だ?」
「初勝利祝いだ」
そう言ってランスは、にかっと笑った。
ここで待つよう言われたアイルは、闘技場地下の壁に寄りかかった。闘技者であるアイルは、この闘技場から出ることはできない。いわば、見世物の奴隷。
ここでも籠の中の鳥、か。
空はこんなにも近く見えるのにな、とアイルは青い空に向かって手を伸ばした。
「ほい」
伸ばした手に突然持たされたのは、古びたカップだった。匂いを嗅げば、かすかに果物の匂いがする。
「毒は入ってねえよ」
ランスも同じものを呑んでいるのだろう。片手に同じように飲み口が少し欠けたカップを持っている。恐る恐る口を付ければ、甘酸っぱい味が口いっぱいに広がった。




