10 飼い人2
翌朝。久々にベッドで寝ることができたアイルは、少しだけ調子が良かった。
ちょうど起き上がったと同時に、扉のが開く音が聞こえた。何事かと身を構えれば、見知らぬ一人の女中が入ってきた。女中はアイルには目もくれず、黙々と室内にあるテーブルに食事を並べる。並べ終わると、部屋を出ていった。
パタンと扉の閉まる音を聞いたあと、テーブルに目をやった。
パンとスープとサラダ。
質素ではあるが久々に見るまともな食事に、腹の虫が鳴る。
毒が入っているかもしれない。が、昨晩のことを思い出しすぐにその考えを振り払った。あの女は、僕をそう簡単に殺しはしないだろう。
アイルは、ゆっくりベッドから降りると、椅子に座った。口の中にたまるつばを飲み下す。しばらくテーブルに置かれた品々を見つめていたアイルだったが、スプーンを手に取ると、震える手で温かいスープを口に入れた。上手いのか不味いのかわからない。けど、何日もまともな食事を取っていなかったアイルの腹には、十分染み渡った。
スープを、それもスプーン一杯口にしただけなのに、何故か視界がかすんだ。
一緒に連れてこられた面々も同じような待遇なのか。そう思ったアイルは、こっそり部屋を出ると屋敷の中を歩き回った。
「この役立たず!」
「申し訳ありません!」
突如、狂ったような叫び声が聞え、アイルはそちらに足を向けた。ドアの隙間から中をのぞけば、この館の主である女が目を吊り上げ、物凄い剣幕で怒鳴っている。一方、そんな女の足元で、額を床にこすり付け必死に謝罪する男がいた。
彼もまた、飼い人なのだろう。
「お気に入りの服なのよ!」
「申し訳ありませんっ、申し訳ありませんっ」
男は狂ったように、同じ言葉を続けた。
「もういいわ」
女は立ち上がると、片手をくるっと回した。その瞬間、その手に木の枝のようなものが握られる。
杖だ。
それを見た瞬間、男の顔は遠くからでもわかるほど青ざめた。
「どうか、どうか命だけは」
「いやよ」
女は短く答えたあと口の中で呪文を唱えると、杖を振った。
「命だけは!」
そう懇願する男の願いも虚しく、言葉は唐突に遮られた。恐怖に彩られた顔のまま、男は動かなくなった。――石にされたのだ。
「まったく、役立たずの家畜が」
唾を吐くように言葉を吐いた女は、彫刻のように固まった男の頭を狙って、足を振り落した。
ゴトン、と音を立て男の頭が転がった。
「ああ、もう。また着替えなきゃいけない」
目を見開き、呆然と立ち尽くすアイルとは対照的に、女は着ている洋服を叩いた。まるで、虫一匹を殺しただけだと言わんばかりの態度が、どうしても理解できない。
「……お呼びでしょうか」
女はテーブルの隅に置いてあるベルを鳴らすと、すぐにあの女中がやってきた。
「片付けといて」
「かしこまりました」
顔色一つ変えないで答える女中。それが信じられなかった。
……仲間じゃないのか。
そうこうしているうちに、女がこっちに向かって来た。あまり魔法を使わないことから、そんなに魔力のあるヴィンダーではないらしい。
カツカツと女の足音が大きくなる。
隠れないと。
でも、隠れられるような場所がない。
どうする……。
そのときだ。
「こっち」
耳元で囁かれた声に、肩が跳ねた。が、そんな事はお構いなしとばかりに、手を引かれる。
手を引くのは、アイルよりも背の低い黒髪の少女だった。
「ここに」
そう言って、押しこめられたのは、アイルの胸ほどある犬のような置物の影だった。ここだと見つかる、そう口にしようとしたとき、女がちょうど扉を出てきたところだった。
少女は、アイルが見えないようにその小さな体で影を作りながら、女に向けて深くお辞儀をした。
女は眼中にない様子で目の前を通ると階段を上って行ってしまった。足音が完全に消えるまで、じっと息をひそめる。
足音は小さくなり、そのうち扉の閉まる音が耳に入った。
「助かった」
縮こまった体を伸ばしながら礼を言えば、少女は頭を左右に振った。
「恩返し」
「恩返し?」
おうむ返しに問えば、少女は頷いた。
「助けてくれたでしょ?」
助けた?
顎に手を当て、記憶をさかのぼれば、簡単に思い出した。まだ、そんなに日は経っていないからかもしれない。彼女は、アイルの杖を持っていった、あのときの少女だ。
「ああ、あのときの」
そう言えば、少女はこくりと頷いた。
「わたし、行かなきゃ」
そう言って、黒髪の少女は走り去って行った。
部屋に戻ったアイルは、扉に背を預けうずくまった。
どうやらあの女、アイルをこき使うのではなく愛でる方に力を注ぐらしい。飼い人でこうした個室を与えられているのはアイルだけで、他の者は男女別に寝床があった。食事もパンと水のみの質素なものだ。
アイルは、大きく息を吐いた。
甘やかされ、肥やされ、食べごろになったら皿に盛りつけられるのだろう。
――そんなの、こちらから願い下げだ。
その次の日から、アイルはあまり食事を取らなくなった。
連れてこられてきたあの日以来、アイルは放っておかれている。外に出なければ問題はないらしく、アイルは飼われた愛玩動物のようにおとなしくしていた。屋敷の中を自由に歩き回って日々過ごしていたのだが、数日もあればどんなに広い屋敷でも見飽きてしまう。それはアイルも例外ではなかった。
他の飼い人と過ごすこともたまにあるが、朝から晩まで休む間もなく働かされているようで、そんなに暇ではない。
それでも、言葉を交わすうちにどういう人なのか、少しずつではあるが知ることができた。
その中でも一番親しくなったのが、ルーナだった。
アイルがまだ魔力を失う前に会った少女である。
もともと孤児だったようで、名前がないことを知ったアイルが「ルーナ」と名付けたのだ。
「ココでいいのに」
ずっとココと呼ばれていたというが、この際名前を持った方がいい。
――名はね、ずっと、それこそ死ぬまで持つことができる贈り物なのよ。
アイルという名も、貴方のお父さんとお母さんからのプレゼントなんだから。
そう言って目じりに皺をよせほほ笑むカローラの顔が浮かんだ。
アイル、か。
名を蔑ろにしてはいけない。
ある日、ヴィンが尻尾を床に叩きつけながらそんなことを言った。
どうしてと問えば、名は二つの意味で「シュ」だからだという。
つまり、「呪」と「祝」。
そのときは意味がわからなかったが、今はわかる。
人身売買場での、「アイル」という囁き声。
良くも悪くも、僕は名に縛られている。
僕は、一体何をしたいんだろうな。
ルーナに名を与えた日の夜。窓の外から見える月を眺めながら、自分の行動に嘲笑を浮かべた。
アルビーネ。
それが、この館の主の名だ。フィンシュテットでは中流家系の一族の者らしいが、ここマグレーティでは貴族のように大きな顔をしながら豪華な生活をしている。
「ノーマー」とは、ヴィンダーの奴隷を示す言葉だったか。
今日、また飼い人が殺された。
魔力のありなしだけで、同じ姿形をしているノーマー。それを、野花を摘むように、簡単に殺せるヴィンダー。
「……狂ってる」
物陰からその様子を見ていたアイルの瞳の奥に、強い意思が光った。




