愚者とウサ耳
月からの使者を名乗るウサギが、僕の目の前に現れた。
二本足で立ち、英国紳士のような黒スーツにステッキ。外国の童話に出てきそうなキャラクターのようだった。
「こんにちは。私は、あなた達地球人と友好関係を結びたく思い、やってまいりました」
そんな人――ウサギが、なんでアパートで一人暮らしをしている学生である僕のところに来るのか分からない。
「しかし我々も、地球人が本当に信頼におけるかどうかは意見の分かれるところでして。そこで地球人から一名を選び、その者次第で判断を行うという結論に至りました」
要するに僕は、この月のウサギたちのモニターに選ばれたのだ。
「それで僕はどうすればいいんですか?」
「一ヶ月、あなたの日常生活を観察させて頂きますのと」
ウサギは、おもむろに箱を一つ取り出した。僕は慎重に箱を開ける。
「これを身につけて頂きます」
サッと顔が青くなったのを自覚した。
そこ入っていたのは、ウサギの耳の被り物だった。
「いや、あの。これをずっと……?」
「その通りです」
「人前でも?」
「ええ。不可抗力で外さざるを得ない場合を除いて」
これをつけて人前を歩く。想像しただけでゾッとした。
「これを外したら?」
「あなた達地球人を敵性民族としてみなさせていただきます。最悪、我々と戦争ということになるかも知れません」
「戦争……」
「我々ならば、地球全土を掌握するのは容易いでしょう」
僕は絶望的な気分で天を仰いだのだった。
――クソ、なんで僕なんだよ!
何度もそう思いながら、僕は電車に乗っていた。
顔も良くない男がウサ耳を着けるという、悪趣味なアンバランス。こんなの最悪に決まっている!
電車に乗った時に一瞥してくる視線。
時折こちらを見る視線。
その裏には、僕に対する好奇が潜んでるに決まっていた!
その後大学についても、僕はそういう視線に射抜かれているに決まっていた!
そして昼休み。僕は学生ホールに向かう。人目につきたくはないが、一人でいるのも嫌なので。
「よう、山田」
ホールの椅子に座りながら、友人は僕に手を振ってきた。
「あ、ああ」
「ん、お前それ、どうした?」
案の定飛んで来る、ウサ耳への疑問。ああ、止めてくれよ本当……。
「ん、ああ……ちょっとね」
下手にもほどがあるごまかし。
それでも友人は、
「似合わねえな、それ」
の一言で興味をなくしたようだった。
そんな生活を初めて一週間。相変わらず、ウサ耳を付けて人前を歩く日々が続く。夜空の月を見るたびに、あのウサギを憎たらしく思った。
そんなある日のサークルの時間。特に活動することもなく、部室で駄弁っていた。
僕は一人黙ってぼうっとしている。
ここにいて楽しい訳じゃない。ただ、露骨に孤立するのが嫌なだけ。
僕は、昔から自分を出すのが苦手だった。自分なんかがでしゃばると、軽蔑されるに決まっていて。
だから僕は今まで、目立たないようにを暮らしてきた。
「なあ山田、今日のそれどうしたの?」
にも関わらず、この仕打ち。
気分の悪くなった僕は、トイレに行く名目で席を立った。トイレの洗面所で眼を閉じながら顔を洗い、荒れた息を整えた僕。
「僕が、何をしたって言うんだよ……!」
気分が落ち着けば落ち着くほど、言いようのない怒りが僕の胸に満ちる。
僕はとうとう衝動に耐えられなくなって、拳を振りかぶって鏡を――
「おう、何やってんだ」
割る直前で人が入ってきた。同じ写真部の、田中だった。
ビックリした僕は慌てて、
「な、なにも!」
と顔を真っ赤にしながら否定した。
そんな僕を田中は特に興味もなさそうに、
「いや、別に良いけどさ」
そう言って僕を横切って、彼は鼻歌交じりに用を足し始めた。その時、ふと田中がこちらを見て、じいっと一瞥しているように思った。
「……はっきり言ったらどうなんだよ?」
僕はとうとう堪えられなくなって、田中に荒げた声をかけた。
「なにを?」
「どうせお前だっておかしいんだろ、この僕が着けてるウサ耳が!」
「は? なに言ってんのお前?」
それはこっちの台詞だ。
「いや、だから、今僕が……!」
「カチューシャだろ?」
「いや、だってこれ、ウサギの耳が……」
「はっ? お前頭大丈夫?」
僕は、信じられない思いで鏡を見る。
そこには、ごく普通のカチューシャを着けた僕がいた。
「そんな、なんで? だって、例えばさっき写真部の皆もこれの……!」
「まあ、お前とカチューシャっつーのもちょっと変だしな。つけ方違ってるし」
「え?」
「いや、カチューシャをそのまま頭にはめるなよ。帽子じゃねんだから。ほれ……」
田中は、当たり前の方法でカチューシャを僕の頭につけた。
つまりこのウサ耳は――最初から僕以外の人間には見えていなかったのだ。
言われて見れば、色々と変だった。
そもそも、皆が僕を見る視線なんて、気持ち次第でどうとでも解釈出来る。
大体、幾らなんでも、誰もこのことをはっきり突っ込まないなんてありえない。講義やバイト中、一度も外せと言われないなんて。
僕はがっくりと肩を落とした。
「……でも、やっぱ変だよね。僕がこんなの着けるなんて」
「まっ、別に良いんじゃね?」
そう言って、田中は苦笑いを浮かべた。
「お前が頭に何をつけてようが生やしてようが、そんなにお前なんて見ねえって」
「成功のようです」
月の国の会議室。モニターで一部始終を見ていた使者のウサギが言う。
「うむ。どうやら被験者は、我々の耳を人類が見ても迫害を行わないと判断したようだ」
「ええ。今こうして耳が見えるようになった以上は、もう大丈夫でしょう」
「そうだな」
「何故ならあれは、被験者が大丈夫だと判断した場合のみ、周囲に耳が見えるようになるのですから」
「あ、あの、一つ良いですか?」
その時、気の弱そうな一羽のウサギが挙手をした。そして、使者の顔色を伺うようにしながら、彼は申し訳なさそうにこう言った。
「思うんですけど……その、我々が耳を生やしているのと、人間が我々の耳を象った物を被るというのは、勝手が違うかと……」
一人トイレに残り、馬鹿馬鹿しくなった僕は大声で笑う。
なんだ、そういうことじゃないか。僕のことなんて、誰も見てやしなかったじゃないか。だって、そもそも僕は今まで何もしてこなかったんだから!
それなのに今まで僕は、~に決まっているとか思い込んで。そんなことだから、僕は今まで独りだったんじゃないか!
そうだ。仮に僕の頭にウサ耳が付いてたからってなんだ。それで僕と言う人間は決まらないんだ!
もう一度鏡を見てみると、そこには、最初に僕が見たウサ耳が僕の頭に生えていた。
どういうことかとしばらく考えて、僕は一つの答えに至った。
要するにこれは、僕がこの耳が見えても構わないと思った場合にのみ、僕以外の眼にも映るようになるんだ。しかし、今の僕にウサ耳なんて関係ないに決まってる!
――よし、部室に戻るぞ! 生まれ変わった僕として!
こうして僕は部室に戻り。
「山田君、どうしたの……?」
僕の頭上を指差してポカンとするサークル員一同が出迎えた。
うん、知ってた。現実がそんなに甘くはないってことくらい。
一度はっきりと現れてしまったウサ耳は消えることなく、奇異な視線に晒され続けた僕は、皆からヘタレウサ耳と呼ばれるようになりましたとさ。