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二 私は彼女と接触する

 私が生活しているこの建物は、病院とはまた異なる医療施設である。簡単に言えば一種の隔離施設──専門用語を使うと、ホスピスという施設らしい。

 とある実業家が所有していた別荘を基盤とし、そこに増改築を施して完成したのが、この外見だけは美しい終末の家だ。内装も外装も白を基調としており、透き通るような清潔感を演出しているらしい。私にとっては不快この上ないのだが。


 広い敷地を惜しみなく使った大きな屋敷。縦よりも横に広い構造をしており、上は二階までしかない。一階部分が私たち入居者の生活部分で、基本的に一人一部屋が与えられている。私が知る限りでは、今の入居者は十人にも満たなかったはずだ。

 施設内には食堂や売店、図書室などの生活に必要な設備が一通り揃っている。それ以外にも治療室や手術室などが一応はあるのだが、それらは気休め程度にしか使われていない。


 症状を治療するのではなく、病による苦しみや痛みを取り除く。それがこの施設──ホスピスというものが掲げる理念らしい。それは欧米で基礎が作られた新しい医療の形で、この国でもそれが成立するのかどうかを模索しているらしい。

 そこに目を付けたのが、この施設の所有者である実業家だった。名のある経営者である彼の申し出に、官僚や医療関係者が乗ったのだ。


 つまり、ここはホスピスが今後この国に根付くかどうかを判断する試金石として扱われているのだ。わかりやすく言えば実験場。今の段階では正式な認定もされず、こんな辺境の地でひっそりと運営されている。

 なぜ私がそんなことを知っているのか。その答えは食堂のおばさんが握っている。職業上、色々な世間話を耳にする機会があるようで、おばさんの知識量は豊富だった。私はそれにあやかっただけにすぎない。


 二階には医師や看護婦たちの事務所や物置などがあるのだが、それよりも重要な一角がある。危篤状態になると放り込まれる処置部屋──入居者の行き着く先がそこにあるのだ。

 普段一階で生活している人々からすれば、二階はある種の特別な領域に感じられる。そんな日常と離れた場所へ、自ら率先して赴くことはない。もしも行くとするならば、医師に呼び出された時だ。そして、呼び出されるということは先が長くないことを意味する。

 有無を言わさぬ余命告知により、残された時間を有意義に使えるようにすることも理念の一つだ。いつ死ぬかわからないで怯えるよりも、死期を把握して理解した方が良いということらしいが、少なくとも私はその考えに賛同している。


 ところで、さっきから私は「入居者」や「住人」といった表現をしているが、これも施設の理念である。この施設に来た病人は患者ではなくなるのだ。

 病院という不透明な場所から解き放たれた患者は、ここでは入居者と呼ばれて余生を有意義に過ごすことになる。ただ苦しいだけの無意味な延命はせず、入居者の自由を重んじて、人道に反しない限り、やりたいようにさせる。

 そのために従事者は最高の環境を提供する。あくまで医師や看護婦は協力者であり、決して指導者などではない。主導権は入居者にある。


 それらが、この施設が提唱する終末期医療というものの理論である。

 しかし、考えてみれば当然の話だが、そんな善意の固まりみたいな場所があるはずもない。

 施設が作られた本当の目的──それは、難病の記録収集だ。


 珍しい病を患うと、医師は目の色を変えて問診をしてくる。彼らは必死なのだ。こんな病があり、これが特徴的な症状で、末期症状の兆候はこれで、この薬品を投与することで症状が変化して……。

 私からすれば深刻な問題であっても、医学的な視点からは宝の山に見えるらしい。私はその事実をうんざりするほどに実感している。


 この施設では表立って収集を行っていないが、完全に実施されていないわけではない。医師のやることはどこでも同じ。ただそれが明るみに出るか出ないかの違いだけ。

 施設は入居者に最高の環境とやらを提供し、入居者は施設に病の情報を与える。一見すると公平な関係だが、記録を収集されていることに入居者全員が気付いているわけではない。そこにあるのは、強者に都合良く歪められた均衡だけ。


 それでも、この施設に救いを求める人はいる。私の場合は別の病院から紹介されて自分でも望んだのだが、最後に決めたのは両親だった。

 そして何より、こうした新しい試みには金がかかるものである。学費や養育費といった、私が健康に育っていれば使われたであろう金が惜しみなく注ぎ込まれた。初期費用だけでなく、毎月の入所費も半端な額ではないだろう。

 そうやって新しい処置を受けさせて、こんなにあなたを思いやっているんだよと考えを押し付けてくる。けれど、私は何も言わない。そんな自己満足を指摘しても、顔を真っ赤にして否定されるのは考えるまでもなく明らかだ。


 だから波風は立てない。物分かりの良い娘を演じ、静かに死んでいく。

 近い将来、私が死んだら両親は葬式で声を上げて泣くのだろう。わかっていたことなのに。手がつけられなくて死ぬとわかっていたから、こんなところに私を放り込んだくせに。


 この施設は、治療不可能な病人を集め、偽りの自由を与えて満足させている。その裏では日々の検温や採血などで、緻密な監視を途切れさせない。隠された飴と鞭。

 部屋から出てあてもなく歩けば、必ず何人かの医師や看護婦とすれ違う。その顔に張り付いた笑顔が私は嫌いだ。病状の変化を見逃さないように、作った笑顔の奥で目を光らせているから。

 こんな嘘にまみれた牢獄で、私は死に向かって歩き続けている。






 翌日、私は珍しく早い時間に目が覚めた。

 あれだけ悩んだのに、結局大した考えなど浮かばなかった。たとえ思い付いたとしても、言葉が使えないという制約がやっかいだ。こちらの考えを伝えるには、どうしても時間がかかる。その不自然な間が私は嫌いなのだ。


 とりあえずノートとボールペンを持ち、部屋を出ることにした。何もない退屈な日々の暇潰しにはちょうどいい。隣の部屋なら行く手間もそれほどではない。

 たった数メートルの移動だというのに、廊下で看護婦とすれ違う。向けられる作り笑いに無愛想な会釈を返して、隣室の扉を叩く。


「はーい。どなたー?」


 早速問題が起こった。扉越しでは声を出さなければ返事ができない。他にできることもないので、もう一度扉を叩いてみた。


「だから、誰なのさ。名乗りなさいって」


 そう言われても、喋れないのだから無理な話だ。だが、このまま突っ立っていても仕方ない。昨日の今日だ。少しだけ扉を開いて顔を見せれば、私が誰なのかわかるだろう。

 ゆっくりと扉を開け、部屋を覗く。軽く見た限りでは、私の部屋と作りは似ている。つまり、ベッドや机など備え付けの物以外はほとんど置いていないということだ。

 平たく言えば、殺風景。


「あれー? なんだ、どうしたの?」


 彼女はすぐに気付いたようだった。手招きをしているので、それに従って彼女に近寄る。

 その途中、机に置かれた瓶に目が留まった。何も貼られていない透明な物で、白い錠剤が何個も入っているのが見える。

 これが、昨日ぽつりと看護婦が言っていた薬だろうか。きっと精神安定剤か何かだろう。別に珍しい物ではない。私も何度か服用したことがある。


「ほら、そこ座って」


 椅子を示した手には、やはり手袋がはめられていた。昨日のとは違うようだが、ガラスを割った時に破けたから交換したのだろうか。くすんだ灰色をしたそれは、相変わらず彼女の手には似合っていない。

 そして、やはり服装も昨日と同じようなものだった。真冬の屋外で着るような、見ているだけで暑苦しくなる格好をしている。


「これ、飲んでいいよ。まだ開けてないし」


 渡された缶コーヒーを机に置き、ノートを開く。私はそんな泥水を目当てにここへ来たわけではないのだから。

 ペンを走らせながら様子を窺うと、彼女はやけに明るく微笑んで私を見つめていた。何がそんなに楽しいのだろう。初めて見た時の無表情は、今ではその痕跡すら見当たらない。あれは何かの見間違いだったのだろうか。


『私と同じ病気だって』


 そこまで書いたところで、ノートを覗きこんでいた彼女は喋り出す。


「そうだよ。昨日も言ったけど。あ、もしかして看護婦さんからも聞いた?」


 全部を書き終えるまで待ってくれてもいいじゃないか。そんな憤りを抱えながら、私は頷いて答えてみせた。


「そっか。昨日はごめんね。びっくりしたでしょ。でもさ、私ってこんな性格なんだ。痛みと恐怖をなくすとね、逆に明るくなれるみたい」

『いいよ 別に』


 今度は、書き終える前に自分でペンを止めた。「気にしていないから」という言葉は続けられない。嘘になってしまうから。私がここにいた理由は、彼女のことが気になっているからじゃないか。

 固まってしまった私とは逆に、彼女は安心したように息をつく。


「せっかく来てくれたんだから、もっと色んなこと話そうよ。同じ病気持ってるってのも、何かの縁だろうし。あなたの話を聞いてから、ずっと仲良くしたいなって思ってたんだ」


 仲良く……か。

 自分でも意外だが、私はそれもいいかもしれないと考えていた。


 思えば、昔は私にも友と呼べる存在がいた。暇さえあれば共に行動し、昨日の夜なかなか眠れなかったとか、今日の通学途中に格好良い人を見たとか──そんな世間話をして談笑していたものだ。

 そんな楽しかった時間も、病に全部奪われた。最初は変わらずにいてくれたのに、結局長続きしなかった。近くにいると病気がうつるという根も葉もない噂があったのは知っている。きっと、あの子は私の友であり続けることに疲れてしまったのだろう。


 私は孤立していた。それでも、陰口でも叩かれればまだ良かった。まるでそこに存在しないかのように、誰もが私を無視したのだ。触れてはいけない禁忌だとでも思っていたのだろうか。私に近付くと、よくないことが起こるから……と。

 危ういものには関わろうとしない。何かあっても見て見ぬふり。それは、人間が持つ当たり前の感情。


 初めのうちこそ寂しさがあったが、すぐに何も感じなくなっていた。人間の防衛本能か、それとも病の影響か。どちらでも構わない。その時、既に私は現状を受け入れていたから。

 もう、誰とも心の距離を詰めるつもりはなかった。そのはずだったのに、私はこうして彼女の隣にいる。彼女に自分のことを伝えている。


「──へえ、同い年なんだ。なんか大人びてるから年上かと思っちゃった」


 私にとっても予想外だった。子供のように表情を忙しく変える彼女が、私と同じ年齢だなんて。

 それなのに、体の線は私より格段に美しい。厚着の上からでも、出るところと引っ込むところの差がくっきりと分かる。さらりとした黒髪は長く伸ばされ、枝毛の一本だって見付かりそうにない。


「味覚をなくしちゃったんだっけ。食事はどうしてるの?」


 そして、彼女は遠慮をしない。普通だったらしないような質問をいくつもする。そんな態度に、私は好感を覚えていた。過度に気を遣われるより、何も考えずに話をする方がいい。


『大体は栄養剤を貰って済ませてる』

「ふーん。でもさ、そんなのばっかりじゃなくて、ちゃんと食べないと体に悪いよ」


 味覚のない私に、ちゃんと食べろと説教する。実に彼女らしい。

 彼女は恐れを感じないから、こうしてどこまでも踏み込んでこようとするのだろうか。とても普通の精神ではできないことだ。人間は何をするにも、必ずどこかで損得を考える。だから、どこかで思い切った行動を起こさないように自分を抑制してしまう。


 でも、彼女にはそれが感じられない。それが恐怖をなくした結果なのだろう。それはとても強く、そして悲しいことだ。

 だって、人間らしさが失われているのだから。


「ねえ、これから一緒に散歩でも行かない?」


 もちろん私は頷いた。こっちは無表情だというのに、彼女は顔を輝かせて喜んでいる。以前の私なら、彼女と同じように笑えたのだろうか。


「決まりだね。ほら、行こっ」


 今の私は、笑うことができない。声が出せないので、笑い声が掠れて奇妙な雑音になってしまうのだ。

 それに、私は自分の笑顔が気味悪くて好きになれない。


「ここって広いよね。昨日はびっくりしちゃった」


 その結果、私は常にこの無表情を維持している。隣で私に歩幅を合わせてくれる彼女は、とてもいきいきとしている。

 何も知らない人が私たちを見て、二人とも同じ病を抱えていると教えられても、誰一人として信じないだろう。人は見かけですべてを判断するから。

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