一 彼女は窓ガラスを叩き割る
硬質な足音が聞こえる。廊下を叩く靴の音だ。規則的なのはその音色だけじゃない。聞こえてくる時間まで毎日同じなのだ。
もちろん、それは今日も変わらない。ほら、三、二、一。
「こんにちは。具合はどう?」
頭の中で数え終わると同時に、滑らかな音を連れて扉が開かれた。
そして、嫌というほど聞き慣れた女性の声。ベッドを囲うようにカーテンを閉めているので入口は見えないが、いつもの看護婦が入って来たのだろう。
響く足音は、徐々に近付いてくる。
「カーテン開けるよ」
その声と同時に、カーテンが小気味良い音を立てて払われた。私はベッドに横たわったまま目だけを向ける。
予想は正解だった。見飽きた作り笑いを張り付け、看護婦がそこに立っている。聞いた話では、この仕事を始めてまだ年数が浅いらしい。それなのに作り笑いが板に付いているなんて、きっと将来有望だろう。
続けて始まる検温も問診も、すべてがいつも通り。特別なことなど何もない、私を退屈にさせるための作業。そもそも、こんなことをしても症状が改善するわけではない。所詮は記録収集に過ぎない行為だ。そんなことが続けられる日々に希望なんて持てるはずがない。
どうせ、長く生きられないのだから。
検査の後片付けをしながら看護婦が声をかけてくる。
「そういえばね、新しい子が入ってきたのよ」
そうか。ここに来たのならば、その新しい子とやらも残された時間が長くないのだろう。興味を持つ以前の問題だ。ご愁傷様。
「今日の午前中なんだけど、騒がしかったかな? その子が隣の部屋に入ることになって、色々とバタバタしてたから」
あいにく、今日は一時間ほど前までずっと眠っていた。そのせいか、まだ頭の芯までは覚醒できていないようだ。眠気が意識の片隅にこびり付いている。
ちなみに、今しがた行われた検査の時間は、毎日午後一時半からとなっている。不規則な睡眠時間ということは自覚しているが、することがなければ寝るしかないのが現実なのである。ここでの生活に慣れれば、時間なんてものとは関係なく眠れるようになってしまう。
そして、すぐにこう思うようになるだろう。
──眠っている間ならば、苦しまずに死ねるのではないか。
「ちょっと挨拶に行ってみたら? ほら、少しは体を動かさないとなまっちゃうでしょ」
そんなことをするなんて、はっきり言って面倒だ。それに、これでも体は適度に動かしている。ここから食堂まで往復する日もあるのだから。
それにしても──常々思っているのだが、この白衣の天使様はよく喋る。
今日、ここまで私は一度も返事をしていない。物好きにも程がある。一度くらい終始無言で検査をしてもいいのではないだろうか。医療に取り付かれた狂人のように、硬質で冷酷に振る舞ってくれた方が私も割り切れる。
わずらわしくなってきたので、布団を被ってそっぽを向く。もう仕事は終わったのだから出て行けという、全身を使った意思表示だ。
「えっと……それじゃ、また来るからね。何かあったら遠慮せずに呼んでね」
ようやく看護婦は部屋から出ていった。ちゃんとカーテンを閉めてくれたことだけには感謝しておく。
静けさが戻ってくる。薄い布で区切られた、とても狭い私だけの空間。そっと目を閉じて、さらに閉ざされた世界に身を落とす。
外なんて見えなくていい。私はここで、何も考えず静かに死にたいのだから。
再び目を覚ますと、白いはずの天井が赤く染まっていた。鮮血のように真っ赤な夕日が、私の目を焼こうとする。
もう夕方か──そうすると、四時間ほど眠ったことになる。こうした短時間の睡眠が、最近は増えつつあった。深夜に起きてしまうことも多い。微かな物音でも目が覚めてしまうのだ。
空腹感はないが、喉が乾いた。布団から出た体を襲うぼんやりとした寒気に、温まる物が欲しくなる。
壁にかけられたカレンダーが示す日付は、昭和四十四年四月二十七日──死を連想させる数字たち。日中は暖かくなってきたが、日が暮れると気温はそれなりに下がる。
机に置かれた鏡を使い、簡単な身繕いを済ませる。寝癖を手櫛でごまかしながら、薬の副作用でくすんだ褐色の髪を呪った。鏡面に映る目を細めた表情は、冷たい痛みを錯覚させるかのような鋭さで私を睨んでいる。
不意に鏡の奥にある自分自身の顔へ、やり場のない嫌悪が溢れ出した。私は自分の顔が嫌いだ。病に体を侵される前から、それは変わっていない。むしろ増大したと言うべきだ。色褪せた唇は、見ているだけで気持ち悪くなる。
私は鏡から目を逸らし、部屋の扉を開いた。ただそれだけなのに、早くも疲労感が表れる。今日はほとんど眠って過ごしていたのだから当然か。心の中で自嘲するが、顔には出さない。そもそも、どうやって出したらいいかもわからない。
手すりを掴みながら、長い廊下を歩いて食堂を目指す。
食堂。この施設で、唯一私が安らげる場所である。最初に行ったきっかけは単なる思いつきだったのだが、それから気が向いた時には行くようになった。食堂にはこの施設で、私が気に入っている数少ない人物──誰に対しても心からの笑顔を向けてくれるおばさんがいる。
その笑顔は純粋で、医師や看護婦が向けてくる気遣いたっぷりの模造品とは違う。それが今でも食堂に通う一番の理由だ。
同じ階の端という離れた場所にあるので、一本道でも息が上がってしまう。
食堂に入ると、机を拭いているおばさんと目が合った。
「あら、いらっしゃい。疲れた顔しちゃって。いつもの、飲むかい?」
私が頷くと、おばさんは満足そうに微笑んで奥へと引っ込んだ。カウンターの椅子に腰掛けて待つことにする。広い空間に一人だけというのは、何かに押し潰されそうな感覚が付きまとう。やはり、食堂も白に染められているからだろうか。
食堂の中は二十人程度が座れるようになっているが、入居者と従業員のすべてを合わせても席が余ってしまう。この施設は、人の数に対して広すぎるのだ。
だが、もしも入居者が大量に増えたりしたら私は辟易するだろう。騒がしいのは気に入らない。そういえば、隣に来たという新入りは私の余生を壊したりしないだろうか。静かに引きこもってくれたら一番なのだが。
私が思考の渦を巡らせていると、おばさんが戻ってきた。その手には私が望んだ飲み物、こぶ茶がある。正常ならば食欲を刺激されるはずの芳香が漂ってきた。
「はい、どうぞ。いつもの通り、ぬるめに作ったからね」
なんでもお見通しなんだね。そう思うと、少しだけ唇の端が緩む。
私は軽く頭を下げてから、こぶ茶に手を伸ばした。添えられたスプーンで混ぜながら少しずつ飲んでいく。おばさんの基準でぬるくても、私にはまだ少し熱かった。舌を火傷しないように、湯気を吹き飛ばしながら冷ます。
「お腹減ってないかい? つらくても、何か食べないと体に毒だよ」
こぶ茶を飲むのを一旦やめ、ゆっくりと首を横に振る。食事なんて毎日時間通りに出てくる量だけで十分だ。それに、今が寝起きということもある。食べるということを考えたくなる気分ではない。
「そうかい。食べたくなったらいつでもおいで。腕によりをかけて、自信の料理を作ってあげるからさ」
私は感謝を表すため、深く顎を引く。おばさんはそれ以上何も言わず、私がこぶ茶を飲むのを見守ってくれていた。
おばさんといると、やはり心が安らぐ。だから気が向いた時にはここに来て、こぶ茶を飲ませてもらうことにしている。喉を通る液体は熱いだけで味気ない。それでも私は食堂へ足を運ぶ。
味のしない液体を飲む苦労も、ここではいくらか楽に思えるから。それに、おばさんは私が喋れないことをわかった上で話をしてくれる。
私の病は、医師いわく非常に珍しい難病らしい。わかっていることは二つ。治療が不可能だということと、近いうちに必ず死に至るということ。
症状はとてもわかりやすい。脳や神経が徐々に壊れていき、感覚や機能が一つずつ消えていくのだ。そして、できないことが着実に増えていく。その進行速度や法則は人によって異なるらしいが、症例が少ないので確かなことは言えないのが現状だ。
私は今、発声法と味覚を失っている。声を出そうとしても、不気味に掠れた呻きにしかならない。
喋る代わりに筆談という手段もあるが、ほとんど私はそれをしなかった。必要な会話といえば毎日の問診くらいだ。首を縦か横に振るだけで事足りる。ただし、おばさんに対してだけは筆談を交わしたことがある。私がペンを持つのは、そういう相手の時だけ。
このまま症状が進行すれば、最後に待つのは絶対的な死。病が何をどのような順番で奪うのかも明確には決まっていない。進行速度と同じで人それぞれなのだ。
明日の夜に呼吸法を失って死ぬかもしれないし、十秒後に心臓の筋肉が動き方を忘れて死ぬかもしれない。
でも、そうなった方がよっぽど幸せだ。そうしたら、私は死ねるのだから。
手足や臓器が多少動かなくなったくらいならば、管に繋がれて強引に生かされるだろう。そうやって、死について嫌でも考えさせられるこの病。人間らしさを保てるはずもない。私だってそうだ。早く死んで楽になりたいと常に願っている。
そんな心理に溺れて気分がおかしくなりそうな時は、こんなことを考えて気を紛らわせることにしている。
──そもそも、人間は誰もが致死率十割の病を持っているじゃないか。
毎日来る看護婦も、食堂のおばさんも、どこかで呑気に笑っている愚か者も、その全員が人生という治療不可能な難病を抱えている。私は死ぬ時期がその辺の人より少し早くなっただけなのだ。
これは別に悲観などではない。単なる諦めだ。抵抗しても無駄ならば、何もしない方がいい。
私は病に希望すらも奪われてしまったのかもしれない。
食堂からの帰り道、部屋の前で見知らぬ女性を見かけた。肩にかかった長い髪は、私とは無縁の美しさで輝いている。
廊下の窓から外を見ているらしい。視線の先にあるのは中庭の花壇か、それとも夕日か。何を眺めているのかは知らないが、女性はこれ以上ないほどにつまらないものを見るような無表情を浮かべていた。
一般の面会時間は終わったはずだから、おそらくここの住人かその身内だろう。どちらにしても、こんな施設にいるということは救いがない。ここは、私みたいに手をつけられない人間が集められるところなのだから。
向こうもこちらに気付いたのか、女性と一瞬だけ視線が交わった。先ほど見た横顔と変わらない無表情。この世に希望などないことを理解してしまったような、ある種の諦観すら感じさせるような色をまとっている。
私はこんな表情を見たことがある。それも毎日、嫌になるほどに。女性の顔には、鏡に映る私とそっくりな影が滲んでいた。
視線の交差は長く続かず、すぐに女性は窓の外へと向き直ってしまう。
背が高いな、となんとなく簡単な感想を持った。だが、それ以上に興味を持つこともなかった。それよりも早く休みたい。そのまま廊下を進み、自室の扉を開ける。
「ねえ、あなたがそこの住人なの?」
その時、後ろから声が届いた。気だるそうで、甘ったるくて、眠くなりそうな声色だった。
振り向けば、女性が再び私に視線を移していた。さっきまで張り付けていた無表情を取り払って、楽しそうな微笑みを浮かべている。それは作られたようにも、本心からのようにも見えた。
「私の部屋はこっち。今日入ったばっかりなんだけどさ。よろしくね」
女性は私に向けて手を振った。その手は焦げ茶色の地味な手袋に覆われている。それだけではなく、コートのような長い服で全身を覆い隠していた。日が暮れてからは気温が下がるといっても、こんな格好ではさすがに暑いのではないか。素肌が見えるのは首から上、顔の部分だけだ。
私は何も反応を返せず、ただじっと女性を見つめていた。これが看護婦の言っていた新入りなのだろうか。何がそんなに楽しいのか知らないが、女性は笑顔を崩さない。この施設には不釣り合い過ぎる顔だ。
「──ふうん。話には聞いてたけど、これほどだとはねえ」
女性は小さく呟いた。すべてを理解したような顔で頷いている。私はますますわからなくなった。一人で勝手に納得して気持ち悪い。
「あなた、無愛想だね。もっと楽しそうな顔できないの?」
頭にきた。怒りという感情が久方ぶりに覚醒する。
この女性がどんな人間なのかは知らないが、この施設にいる入居者にそんな言葉が吐けるなんて、その神経を疑いたくなる。限られた人生だからこそ前を見ようって? 前には死しかないってのに? 落下しながら激突するまで地面を凝視しろと?
「どうせ死ぬんだからさ、思い残しがないようにしたくない? 私はそう思うんだけど」
やり残したことならいくらだってある。普通の人生という一番大きなやり残し。絶対に叶わない願い。まともな道など、発病した時点で二度と戻れない。
これ以上この女性に耳を貸す必要などない。私は声を無視して部屋に入ろうとする。
「あのさ、私もあなたと同じ病気なんだ」
ぴたり、とその足が止まった。私と同じ病気?
真実かどうかもわからないのに、素直な驚きが浮かぶ。振り向いた先には、さっきと変わらない正体不明の笑顔があった。
「言ったでしょ。あなたのことは聞いてるって。看護婦さんの口は堅かったけど、ちょっと強く押したら話してくれたよ」
その看護婦というのは、私の担当看護婦のことだろうか。いや、問題はそこではない。この女性が私と同じ病気なのかということだ。
珍しい難病のはずなのに、世界は狭い──そんなくだらない感想が真っ先に浮かんで、すぐ消えた。
「だから、あなたが喋れないのも知ってる。少しは変に思わなかった? 返事もないのに、私が気にせず喋ってることがさ」
そんなことにも気付かなかった。そう、ずっと忘れていた。返事もない相手へ一方的に喋ることは普通ではないことを。
「私はね、恐怖と痛みをなくしちゃったんだ」
自分の病状を告白しながら、女性は背後の窓ガラスを横目で眺めていた。まるで、狙いを定めているような──そう思った時には、既に女性は行動を起こしていた。
「だから、こんなこともできるの」
言い終わると同時に響く鋭い衝撃音。女性が窓ガラスに裏拳を叩き込んだのだ。突然のことに、私は思わず目を見開いてしまう。
殴った場所から亀裂が走り、派手な音を立てて窓ガラスが砕けた。細かな破片が周囲に飛び散る。大きな破片は重力に引かれて真下へ向かい、落下の衝撃で粉々になった。ここが一階だから良かったものの、上の階ならば外に落下した破片も盛大な炸裂音を奏でて二次災害を生み出したことだろう。
一連の音が余韻を残しつつ消えると、霧のような静けさが周囲に立ち込めた。それでも、重苦しい耳鳴りが鼓膜に張り付いて離れない。
がしゃり、と窓枠に残っていたガラス片が廊下へ落ちた。
大きめの石を投げ込んでも、こんな割れ方はしないのではないだろうか。あんなに細い体をしているのに、この力がどこから出てくるのか不思議だった。
ぽっかりと空いた穴からの風で揺れる女性の長い髪と、夕暮れを反射して真っ赤に光る破片。時間がそこだけ狂ったかのように、ゆっくりと流れるその光景。高名な芸術作品に訳もなく目を奪われてしまうような──そんな、絶対的な美しさが私を釘付けにしていた。
そこで、私は瞬きを忘れていたことに気付いた。慌てて瞼を何度も開閉する。
「こんなこと、あなたにはできる? 私は怖くもないし、痛くもない。ほら見て。ガラスの破片」
言いながら、女性は刺さった破片を手ごと振って見せつけてきた。手袋を突き破り、血が滲み出ている。
「あなたは私が怖い? それとも死ぬ方が怖い?」
わからない。恐れという感情は乗り越えたはずなのに、私はこの女性に対して何かを感じている。指先の震えが止まらない。自分がどんな顔をしているかわからない。
「返事なし、か。今度はちゃんとお話できるといいね」
満足したような顔で女性は隣の部屋に入っていった。去り際に振った手には破片が刺さったままだ。破片を伝って流れる血が滴り、夕焼けの廊下をさらに赤く染めた。
誰もいない廊下に取り残された私は、ぼんやりと考える。
──あの手袋の中には、どれだけの傷痕があるのだろうか。
廊下が騒がしくなったのは、それからすぐのことだった。あんなに大きな音がすれば、不審がって誰かが見に来るのは当然だ。そこで血痕を見つけ、それが隣の部屋に続いていたから犯人が発覚──事の顛末はそんなところだろう。
このまま何もなく死んでいくかと思っていたが、同じ病を抱えた女性という異分子が入り込んできた。興味、不安、恐怖──目を背けていた様々な感情が顔を出す。面倒事は遠慮したかったはずなのに、私は彼女を無視できずにいる。
読んでいた本を置き、椅子に座り直す。頭に浮かぶのは先ほどの女性。彼女への興味が、私の中で大きく膨れ上がる。いつから病を抱えているのか、何歳なのか、血液型は何か、利き手はどちらなのか──なんでもいい。彼女のことが知りたい。
まず確認しなければならないのは、彼女が本当に私と同じ病を抱えているのかということだ。もし嘘ならば、私の心を騒がす波も静まるはずだ。
不意に扉を叩く音が響き、私の意識を現実に引き戻す。
「いるかな? 入るわよ」
看護婦が巡回にやってきたのだ。隣の部屋に来たついでだろうか。とりあえず、これで外に出る手間が省けた。
私は机の引き出しからノートとボールペンを取り出し、文字を書き始める。あまり気乗りはしないが仕方ない。喋れない私が詳細な意思疎通をする手段として、これが一番手っ取り早くて簡単だ。
ちなみに、手話は最初から覚える気がなかった。手が動くなら文字を書けば良い。それが私の考えだったから。
『ちょっと話があるから終わったら残って』
ノートに書きなぐった文字を看護婦に見せた。
「あら、珍しい。何かしらね」
やけに嬉しそうな表情で、看護婦は部屋の手入れを進めた。私はその間、この看護婦が果たして口を割るような人間だろうか考え続けていた。新人ならば付け入る隙もあるかもしれないのだが。
「──はい、終わったわよ。それで、話っていうのは何かな?」
その言葉が終わる前に、私はノートにペンを走らせていた。
『隣に入った人について教えて』
書きかけの文字を見ただけで看護婦がひるんだのがわかる。窓ガラスを割ったことも知っているはずだから無理もない。慌ただしく視線を泳がせて、必死に言葉を探している様子が窺える。
「ちょっと難しい病気でね……でもこの施設に来たってことは、わかるわよね?」
やはり答えをはぐらかしたか。質問に質問で返すなんて論外だ。長引かせても面倒なことになりかねない。早めに核心を突くとしよう。
『さっき隣の人と会った 私と同じ病気だって言ってた』
「えっ。あの子、そんなことを……」
目に見えてうろたえている。それに彼女を「あの子」と呼んだ。ある程度の面識はあるのだろう。もう一押しか。
『私が喋れないことも知ってた 看護婦に聞いたって言ってた 話したのは誰?』
しばしの沈黙。ノートを見せたまま、私はうろたえている看護婦を真っ直ぐ見据える。看護婦の視線は相変わらず落ち着きがない。
やがて、折れたのは向こうだった。観念したように息をつく。
「ごめんね。断れない雰囲気だったから、つい……」
やはりそうか。口が軽いのは職業的にどうなのだろう。やはり、この施設にはふさわしくない性格だ。こんなところでなくとも、進むべき道はいくらでもあるはずなのに。
『別に怒ってるわけじゃない あの人について教えて』
「うん。あの子もあなたと同じ病気なの。先生の診断では、恐怖と痛覚を失っているらしいわ」
なるほど。つまり、彼女の言っていたことは本当だったのか。やはり世界は狭い。
『さっきガラス割ってた』
「そうなのよ。気持ちが不安定になるのもわかるけど、だからといって無理に縛り付けたりするのはここのやり方じゃないし」
一応お薬出しておいたんだけどね──と看護婦が言っている間に次の言葉を書く。
『人間らしさを大切に?』
「そう。それがここのルールだから」
私はノートを閉じ、頭を下げて感謝の気持ちを表した。看護婦は「ど、どうしたの。そんな」と手を振って慌てている。私らしくなかっただろうか。
だけど、全然大げさではない。隣の部屋に来た彼女の情報が得られたのだ。本当に私と同じ病だとわかった。それだけで十分すぎる収穫だ。
看護婦が部屋から出て行くと、私はすぐに布団へと潜り込んだ。こうしていた時間が長いせいか、何かを考えるには、寝転がっている方がやりやすい。
考えることはただ一つ。彼女をこれからどうするか。それだけだ。