十二 私は彼女を心に刻み付ける
私は元々視力が良かった。両目とも裸眼で遠くも近くも見通せたから、その変化にいち早く気付けたのは偶然ではない。
十月も下旬を迎え、秋の色が深まってきた頃のこと。
私の視界がぼやけていた。昨日までとは、明らかに見える景色が違っている。すぐそこにある時計の数字が判別できない。そこに何があるかはわかるのに、それ以上の詳しい情報が読み取れないのだ。
彼女の顔すら滲んで見える。何よりもそれが一番の問題だった。
症状を伝えると、すぐに人を呼んでくれた。病状の変化は互いに報告し合い、重大な場合は医師や看護婦へ連絡をすることに決めていた故の迅速な対応だった。
検査の結果はその日の夜に出た。病による視神経の死滅──それが答えだった。そう長くないうちに、私の視力は失われるらしい。
私は真っ先に、彼女の姿を焼き付けたいと願った。これから先、光を失った私の中で輝くであろう彼女の姿を。
「そっか……目が、見えなくなっちゃうのか……」
私の症状を知った彼女は、我が事のように悲しんでくれた。並んで座るベッドの隣で、気落ちしたような表情で俯いている。
『みえなくなるまえに いっぱいみておきたい』
そんな私の願いも、彼女は快く受け入れてくれた。彼女をじっくりと観察しても咎められることはない。
困った顔、照れた顔、微笑んだ顔。彼女がどんな時にどんな顔をするのか、これまで以上に注意して観察した。隣に座る彼女の姿。今はまだ近付けば正しく視認できるけど、それがいつまで続くかもわからない。
「顔だけじゃなくて……こっちも覚えていてほしいな」
彼女は左手の甲を私に掲げた。そこにあるのは、彼女を象徴する傷痕。
そうだ、私は彼女のすべてを記憶しないといけない。長い髪も、色鮮やかな表情も、刻まれた傷も、秘められた場所さえも。
まずは差し出された手に触れる。私が初めて見た彼女の過去──彼女が初めて自分に刻んだ傷を目指す。
親指と人差し指の中間地点、柔らかい部分に浮かぶ傷痕に触れた。そこをなぞり、つつき、覆い隠す。もっと近くで見ようと顔を寄せると、途端に衝動が抑えられなくなった。もっと彼女を私に焼き付けたい。
指を離すと同時に舌を当て、素早く舐め上げた。
「えっ? な、なに……」
驚くのも無理はない。私も最初はこんなことするつもりはなかった。だけど、彼女を記憶に刻み付けるために、様々な情報が欲しくなったのだ。それこそ五感すべてを使って。
私の味覚が失われているなんて、そんなわかりきったことはどうでもいい。それでも私は彼女の味を知りたかった。得られる味が錯覚でも構わない。味も感触も痛みも、すべての刺激は同じ電気信号に過ぎないのだから。
彼女の傷痕は、舌を痺れさせるような鈍い味に感じられた。もっと味わいたくて舐め続けたが、徐々に味が薄くなってしまう。顔を離すと、私の唾液で傷痕が輝いているのがよく見えた。
更なる彼女の味を求めて、次は指先へと狙いを定めた。関節の切り傷を舌で辿りながら、人差し指を口に含む。指の腹と爪。柔らかさと硬さの二重奏。
私はただ夢中で舐め続けた。彼女の視線さえも、もはや思考から外れている。自分の口内で奏でられる、官能的で粘着質な音すらも気にならない。なんだか、だんだんと甘い味が感じられるような気がしてきた。
指から口を離すと、自分でも驚くほど息が上がっていた。口での呼吸を止められない。彼女の指と私の唇を繋ぐ透明な糸が、音もなくちぎれて消える。
その軌跡を目に焼き付けながら、彼女の手首に指を滑らせた。そのまま腕をなぞっていく。二の腕から肩に到達したところで、彼女が目を閉じた。首を通って耳へと進もうとした時には彼女の体から力が抜け、私の方へ倒れ込んできた。
部屋を満たす熱っぽい呼吸音を出しているのは私か、それとも彼女か。あるいは両方かもしれない。
恋人同士の間で体を触れ合わせるということが、一体何を意味するのか。そんなことは私もわかっている。彼女が着ていた薄手の服は、とても脱がしやすい。
部屋の明かりに晒された肌は美しく、こうして触れるのが恐れ多いほどだった。
けれど、湧き起る欲望には勝てない。どこかぼんやりとした思考の中、私の指は彼女の肌と傷痕を這い回る。腹部から腰、太腿へ。
やはりくすぐったいのか、その体が微かに震えている。彼女の反応がとても嬉しい。もっと私を感じてほしくなる。私の中に彼女を焼き付けるのと同じように、彼女にも私という存在を刻み付けたい。
ふと見れば、彼女がとても切なそうな顔をしていた。この表情も覚えなければ。
そして──もう一つ、見るべき顔がある。そのために私は顔を近付けた。
誰よりも近くで見る、口付けをしている時の顔。これが一番深く心に刻まれることになるだろう。
そんな日々を繰り返し、私は声だけで彼女がどんな表情をしているのか、簡単に想像できるようになった。時間さえあればそんなことをしていたこともあり、その精度は極めて高い。
それは聴覚が研ぎ澄まされた結果だと言われるかもしれないが、ある意味では間違いではないのだろう。人間は一つの感覚が失われると、別の器官がそれを補おうとする──というのはよく知られていることだ。
目を閉じて世界を暗転させれば、すぐに彼女の姿を思い描ける。日ごとに失われていく視界とは逆に、はっきりと彼女の顔、手、足、すべてを鮮明に想像できた。
もちろん、傷痕の数と場所も把握している。それらすべてを含めて彼女という存在なのだから。
こうして彼女は、私の世界そのものになったのだ。
私が視力を完全に失ったのは、最初の異変を感じてから一週間後のことだった。
徐々に消えていく世界の中で、私は昨日と今日の景色を、頭の中で重ね合わせる日々を過ごしていた。昨日と比べて今日の景色はどれだけ歪んでいるのか。明日も同じだけ変わってしまうのか。まだ数日はこの目で外を見られるだろうか──こんな問答を頭の中で毎日繰り広げていた。
数日前から、視力は周囲の明るさ程度しか分からないほどになっている。目を閉じて電灯を見上げて感じる白さが明るさで、そのまま手を近くにかざして感じる黒さが暗さ。例えるなら、そんな風になる。
一度そうなった視界は、それ以上悪くならなかった。そのため、これが限界なのだと気付いた。瞬きをすると、瞼が重なる奇妙な触感だけが残る。
「これは見える?」
彼女が目の前で手を振っている──らしい。言われてみれば何かが動いているような気がしなくもない程度だ。
一面に広がる白一色の世界。部屋の白さとはまた違う、白濁が散りばめられたような色。もしそれに触ることができるのならば、きっと嫌な感触と共に手が吸い込まれてしまうはずだ。
光を失うという言葉の語感から黒い世界を想像していたのだが、予想は外れたようだ。それとも、部屋の白さが瞼に張り付いているだけなのだろうか。それが頭の中で嫌な印象と混ざり合い、こんな趣味の悪い色となったのか。
目は最初から開けている。定期的に瞬きもするのだが、だからといって視力が戻るわけでもない。ただ世界が一瞬黒く染まるだけ。
もしかしたら、私の目は焦点が合っていないのかもしれない。虚ろな瞳、何も映さない網膜、濁った水晶体。
「そばにいるの、わかる? 今すっごく顔を近付けてるんだけど」
息が顔にかかっているから、それくらいはわかる。声の調子から、澄ましたような顔をしているのだろうと想像できた。
肯定のために顎を引くと、額が彼女にぶつかった。
「いたっ……ごめん、近すぎた。痛くなかった?」
今度は苦笑。なんだかおかしくなって、私も一緒になって笑ってしまう。
見えなくても私にはわかる。声を聞けば、どんな姿でも想像できるから。




