36:無傷のアイリス
何ヶ月も書いては消し、を繰り返した回。
視点を冬の悪魔側に変えたら新しいものが見えてきて、続きも早めに書けそうです。
今年こそこの作品を完結させます! お待たせして申し訳ありません。
曲の方で色々今後の展開を想像しながらお待ちください……
サブタイトルは錬金術用語の「キトリニタス」(citrinitas)黄化(黄金)のアナグラムで
Intact Iris(無傷のアイリス)になりました。
彼女への恋は僕に多くのものを教え、僕を不完全なものへと変えてしまった。
神として欠け、人間のように感情に支配され狼狽える。僕は自分が、こんなにも利己的な生き物だとは思わなかった。
だけどこうも思う。やはり僕は人間にはなれなかった。人間を正しく理解も出来ない、人間以下の出来損ない。
普通の人ならば落ち込むような場面でも、幸せを感じているのはおかしいか?
愛した人が僕を忘れて、別の誰かを愛して行く。そうして幸せになることを、嬉しいと感じるのは変なことかな。
あの子はきっと、人生に後悔をしなかった。その後の選択も、恐らくは。
冬の悪魔が消えた世界で、彼女は人として幸せになった。僕への未練も断ち切った。
毎年生まれ変わる冬は、誰もが僕とは別人で。そんな僕らを彼女は看取る内、彼女の心も変わっていった。自然への愛は、慈しむ心は――……恋とはもはや呼べない。
人間の伴侶を迎え、子を育て――……老いて死ぬ。神に愛された娘も、唯の人間として。彼女は生涯を閉じた。満足して、天に昇ったことだろう。
短い時を生きる人間も。永遠を生きる僕らでさえ、永遠を愛せない。
時を止める魔法だなんて、馬鹿げているよ。心を留める魔法なんて、世界の何処にも存在しない。それ以上の崩壊を止めることは出来たとしても、一度生じた事象を覆すことは僕には出来ない。
彼女の幸福を喜びながら、こんな力を手に入れる。矛盾した存在。嗚呼、これが悪魔だ。悪魔になってしまったのだ。正真正銘、冬の悪魔は化け物に。
*
氷のような青色の。透き通る目は、別の世界を見つめる目。
ここに居ながら眺めるは、遠い世界の出来事だ。
死後に目覚めた場所は、しんしんと雪の降り積もる――……生前過ごした場所と変わらぬような土地だった。起き上がる気力も無いまま、元の世界を眺めていた。
彼女が死んだ後はもう、あの世界を見守ることもやめてしまって。いつものように目を閉じる。
長い永いまどろみの中、時折誰かの声が聞こえたが、それもすぐに消え失せる。地層のように厚みを増して、増え続ける魔力。意識は混濁し、自分と新たな自分達の境界をも見失い、唯の力へと変わる。そうしてそのまま永遠の眠りにつく者が殆どだ。
他の領主達のように、僕らは己自身で争わない。最も強い未練を抱いた“彼女”が罪の悪魔の主人格として収まったのも自然な成り行き。
けれど不思議なことに、僕の意識は完全に消滅することは無かった。ふとした拍子に浮上して、彼女の夢を見せられる。彼女の青い瞳は遠い過去と今の時間を僕に共有してくれた。本当ならお前が主人格なのだ、全てを知っていろと言われている風で面倒だったが拒めない。見る気がなくても見せられる。
寂しい、悲しい、辛い、消えたい。いなくなってしまいたいのに、消えることが許されない。
(今更僕に何をしろって言うのやら――……)
死神として、生前大勢殺した罰か? 全く、因果な名前を寄越された。死神としての仕事を全うしただけで、誰に誹られる謂われもない。僕が犯した罪なんて――……
「“ヒエムス”!」
赤い瞳の少女。真っ直ぐな強い憎しみをぶつけてくる、炎のように眩しい目。その目を見つめて、思い出す。あった。一つ、僕が犯した罪があった。
殺した相手に、永遠に追われ続ける。この感覚を、何に喩えたら良いか。孤独を忘れさせる騒がしさ。五月蠅くて、喧しくて……あの子を思い出させる心地良い痛み。よりにもよって、それが君とはアエスタス。
*
「その力っ……! どうして!? どうして、カタストロフ様を!!」
泣きながら氷魔法を操るエングリマ。
「どう、して……? どうして……邪魔をするの? 契約者のことなんか、餌としか思っていない癖に!」
「……お前には解らねぇよ」
避けもせず、防ぎもせず全てを受けながら、罰の悪魔は無傷で立っている。
別の時間からやって来た、完全体が二体。同時に凍らせるには僅かなタイムラグがある。一体の時を止めて殺しても、もう一体が巻き戻す。
(悔しい、悔しい……悔しい、くやしいっ!!!!)
あの子の声が僕の内に良く響く。まったく、誰に似たのやら。
自分にはない激しい感情。ない物を得た彼女が羨ましい。激しく揺れ動く心……まるで人間のようじゃないか。
我が子のように思う娘を、冬の悪魔は見捨てることが出来なかった。彼女の願いを、その恋を……ここで終わらせるのは本意では無い。
「泣くなエングリマ。てめぇも魔王なら、最後くらい笑って見せろ」
泣きじゃくる片割れに、ティモリアはばつが悪そうに腹をくくれと溜め息を吐く。
その刹那、此方の首を掴んだ腕が緩んだ。宿敵との最後が、これでは夢見が悪い。このまま首を落とす気分になれないと、呆れた君が悪いと思う。
「なっ……!?」
「えっ……?」
コンマ一秒の狂いもなく。二体の時を同時に止める。同時に殺す。
誰か助けてと思いはしたが、自分の意図しない出来事に……エングリマは喜びよりも驚きが勝っていた。
「クソッ……野郎がっ!!」
膨大な魔力を使って時を破った瀕死のティモリアは、全てがエングリマの仕業と考え彼女の首を絞め落とす。絞首台の下で、罪の悪魔は一度死んでしまった。
しかし彼女が流した涙から、無数の植物が生い茂り、生まれたマンドラゴラ達は――……罪の悪魔の口内へ次から次へと飛び込んで行く。
「……これは不味い」
其れ迄静観していた男。焦りが滲んだ声色で、錬金術師ファウストは二人のティモリアに施術を行った。
彼は瀕死の悪魔を結合させ、命こそは救ったが……もう罰の悪魔は戦える身体ではない。
対する此方はマンドラゴラの力によって、命を救われた。魔力も十分に回復している。
そして、死の眠りについた主人格に代わり……僕が表に出ることになった。
「…………なんて、言えばいいんだろう?」
迷いをそのまま口にしたのは、長い間思うことと話す事の区別が付かない場所に居たから。自由に動かせる肉体を得たのは何億年ぶりかも解らない。
「君には二度と会いたくなかったし、君とこうして再び話せる日を……待っていたような気もする」
「ヒエ……ム、ス」
子ども悪魔の形から、次第に変わっていく姿。お互い大昔のことなのに、君は僕のことだけはしっかり覚えているんだね。生前は言葉を交わしたことも僅かだった仲だろうに。
「僕が君と戦う理由は二つある。でも君が去るのなら、君を二度は殺さない」
「奇遇……だな。俺も、二つ」
契約者のため、自らの願いの為。互いに理由も変わらない。ティモリアは後者のために生きている。目的のために手段は選ばず、死後は割り切って生きてきた彼だ。ここは撤退を選ぶはず。
「…………――だったが……てめぇの面を見て、三つに増えた!」
吠えるため身体を無理矢理起こし、すぐにその場に倒れる悪魔。増えたの言葉をなぞるよう、空間に歪みが生じる。
赤い瞳を潤ませた、少女姿の罰の悪魔。この子は何処の時代から飛んできたのか。助っ人としては心許ないが、見慣れているのは此方の姿。何処までも追いかけてくる、赤い瞳のこの少女。逃げられないのは僕も同じか。
冬の悪魔はひとまず笑うことにした。
(僕は、誰なんだろうね)
*
冬の悪魔――……奴は感情まで凍ってしまったような、死人の如き目をした男。
笑うことも泣くことも。こいつに怒りなんて感情が芽生えることはないのだろう。
死を司るには丁度良い。本来そうあるべきなのだ。おかしいのはきっと、自分の方だ。死神として俺はあいつに劣っていた。あいつは最後まで冷徹だった。自らの生にさえ無頓着で、自分のことをも駒とした。
悔しいが、自らの存在に執着した俺に勝てる相手ではなかった。
「ねぇティモリア。僕らは本当に、どうしても……殺し合わなきゃいけないの?」
死後……大部分の記憶も失い、別人と化した冬の悪魔。
殺すチャンスは恐らくあった。何度でも。後ろ盾の所為だけではない。出来なかったのは、心の何処かでこいつを恐れていたからだ。
「お前の眷属の生命と安全を恒久的に保障する。そう言ったらお前は自害するか? しねぇだろ」
人捜しと憐憫のため契約をするエングリマ。罪の悪魔は常日頃から、思い人を探していた。己の存在に固執しているのは、今やこいつの方だった。
「……君は、大事なものが何一つないの? どうしてそんな、奪うこととか傷付けることばかり選んでしまうの?」
「てめぇが俺にそれを言うのか“ヒエムス”?」
胸ぐらを掴み上げ、古き名前で奴を呼ぶ。かつての俺には、大事なものがあった。それが何かさえ思い出せないが、こいつの所為でそれを失ったことだけは覚えている。
「…………また、その名前で僕を呼ぶんだね。“私”と何処かで会ったことが、あるんですか?」
「死神に恨みを持つ者の一人や二人、いて当然だろうが。俺の名前を言ってみろ、エングリマ」
「……“罰の悪魔”」
「ああ、そうさ。覚悟しておけ」
俺はお前にいつか必ず、罰を与える。お前を殺すためだけに、俺は生まれてきたのだから。
*
夏神アエスタス。懐かしく、忌々しく――……しかしながら、良く馴染む。それこそが己の魂の名であると自分が一番知っている。
ならば必然だろうか。最後に立ちはだかる壁が、この男であることは。
ティモリアは変わり果てた、懐かしい片割れの姿を見上げた。
第四領主エングリマは魂を食べない、天使のような悪魔である。得た魂は眷属として、己の領地に迎えるだけ。
人間と人外の恋が好き。見守るのが好き。そんな恋愛脳のクソ悪魔。
契約は、悲劇の恋人達を幸せにするための手段に過ぎない。スタート時では負けていようと、此方が努力をすれば未来では必ず勝てる相手。聖域たる領地はまともな悪魔は踏み込めないクソ立地条件かつ、最強の悪魔というクソ後ろ盾の存在が奴の強さの全て……だったのに。
(まずい……)
その男と対峙した時、己の顔が、背筋が凍り付くのを感じた。本で読んだのと同じ。因果だ。
ファウストの前世、ファイデという少年を殺害したナイフがファウストにとっても凶器となるように。自身の前世である夏の悪魔を殺した男が。死神“冬の悪魔”が其処に居る。
前世に縛られた『高飛車なピエロ』という本の中では、罰の悪魔は冬の悪魔に勝つことは出来ない。
妙案が出るまで時間を稼ぐ。話を引き延ばすしかないだろう。恐れを表には出さず、普段通りの態度で冬の悪魔に問いかける。
「……相変わらず湿気た面だな。死んだ割に元気そうじゃないかヒエムス。お前は俺と違って、満足して死んだんだろう? どの面下げて此処へ来やがった!」
「そうだね。僕は満足した。二度と目覚めることはないと思っていたんだけど……同じ魂ならこういうこともあるだろう」
(忘れたわけじゃ……なかったのか?)
見上げた先には変わらない、憂鬱を映すばかりの冷たい目。それが一瞬、揺れた。
心優しき冬神は、老衰以外の死を与えなかった。しかし、唯一の例外が……夏の悪魔。
冬の悪魔は己の願いを叶えるため、我欲のために同僚を手にかけた。
地獄に落ちて得た名前が……罪の悪魔。
記憶喪失で別人になったのではなく、冬の悪魔とエングリマは別人だった?
(だが……、錬金術師は何と言いやがった?)
“彼は大勢殺してくれたのですがね、残ってしまったのですよ。相手方に……一人分だけ、魂が”
そうだ。おかしな話だ。魂を喰らう悪魔は、魔力その物である無数の魂の集合体。その中で最も強い者の人格が表に出る。
魂を食べないエングリマに何故、幾つもの人格が存在した? ファウストは何を見た?
未来の俺は何を倒した?
(それに、この男が出て来るってことは――……)
魂は一つ。一つも滅ぼせてはいない。魔力を消耗させ、魂の内にある人格達を。記憶を吹き飛ばしただけなのではないか? 或いは。
(そうだ。この錬金術師は他人の魂が見えている。読み間違えはない)
冬の悪魔の魂が、あれから毎年次代の悪魔へと再利用して使われ続ける内……己の魂を分割、或いは肥大させて行き……他の領主悪魔同様の存在になり果てた?
魂を必要としない理由も解る。エングリマは魂を必要としなかった。 今もまだあの世界が存在するなら。短命になった冬神が、毎年死んで、新たな魂がこいつの中に蓄積される。一年というの俺達には一瞬に過ぎ去るサイクルで、自分自身の魂分の魔力が蓄積されると言うならば?
とんでもねぇ話だが、何故夏神である自分には同じ現象が起こらない? 不満はあるが、現状に対し喚いてみても変わらない。
「物騒な武器をまだ降ろさないのかヒエムス? 随分なご挨拶じゃないか。お前は今回の一件に絡む理由がない」
「もう一度言おうか? 君は三つらしいけど、僕が戦う理由は二つある」
「……二つの理由? 俺等が三つ?? 契約者がお前にとってよっぽど大事な相手みてぇだな」
他の俺と話した会話か? 詳しく話させれば長引かせられそう。
「狙われないように手は打ってある。僕を倒さない限り彼に手出しは出来ないよ」
「過保護過ぎだろ。過干渉な親は嫌われるぜ?」
「……あの子の言うことも一理ある。生まれ変わりは子どものようなものだとね」
「エングリマがお前の子ね。笑わせやがる!」
悪魔らしい仕事の一つもしないお前が。他人と交わらず子を成すなんてお前は神か。いつまで神様気取りだ。一瞬、怒りで身体が動いてしまう。
まだ勝機も見えないのに、あいつに向かって手を構え……発動させた魔法がすぐさま停止。術その物の時を止められて、一つの攻撃も当たりはしない。
「チッ……」
「理解して貰えた? 僕は基本的に戦いを好まない。君たちがここから去るなら追わないよ」
「追って来られないの間違いだろ」
「…………逃がさないことは出来るよ? その上で、君たちはどうするつもり?」
悍ましいまでの魔力。第四領主の力と肉体を手にしたヒエムスは、以前とは比べものにならない。時を渡れない代わりに、最も強い時代に留まることで……不変の強さを手に入れた。奴の身体に流れる時が凍っているのならば、こいつを殺せるかどうかすら怪しい。
絞首台へは迂闊に近づけない。消耗したとは言え……今の俺より遥かに強い、未来の俺を倒した相手。どんな小細工も力でぶち壊せる第二領主、カタストロフの力を継いだ未来の俺さえ敵わないなら打つ手はもうない。冬の悪魔の言葉通り、契約者を捨て逃げる方が賢いやり方ではないか?
(未来の俺達が、命を懸ける価値がこの野郎にあるのか? 生きた人間の力が必要とされるなんて、第七魔力じゃあるまいし)
此方に出来るのは“イストリアの力を使って本の世界の時を飛ぶ”か、異形の眷属を呼び出すか。過去へと飛べる未来の俺も奴の前では為す術もない。
(……いや、待てよ)
時を操る力。これから俺が手に入れるそれ。答えはもっと単純な話なのか?
この錬金術師は時折本を装備し術を使ったが、俺達はグリモワールなど必要としない。ファウストが残し、娘の手に渡り……仕立屋から盗み出された本。水上都市バルカロラに持ち込まれたその本。ルベカにファウストが渡した本。
ああ、そうだ。この物語には頻繁に“本”が出過ぎている。その全てが未来の俺の契約者……ファウストに関係している。
浮かんだ仮説を確かめるべく、ティモリアは己自身に問いかける。
「お前……イストリアも、殺したのか……?」
「……魔王は一人居れば、十分だろう?」
「そうか。抜け目ねぇな、あいつは」
確かに未来は変わる。イストリアが今、俺に与したことで。
「ファウスト、俺もこいつと《結合》出来るか? 出来るよな。不完全なものを完全にする。それがお前の錬金術なんだろう?」
どうせやったのはお前なんだろ? 見上げてみれば、男は正解と言わんばかりに苦笑した。
「良いのですか? 力や未来の記憶……貴方は多くのものを手にするでしょうが、貴方という器に注げる水には限度があります。今ある記憶や貴方の過去を、失ってしまうかもしらない」
夏の悪魔としての自分を失わなければ、……殺さなければ、ヒエムスには勝てない。俺は今、夏神アエスタスであったことを捨てる。罰の悪魔ティモリアとして。或いはファウスト。お前に名付けられた悪魔メフィストフェレスとして再誕し、因果を断ち切らなければならない。
(未来の俺が、こいつの傍に居たのは――……たぶん、契約のためだけじゃない)
長い間一人の人間に縛られるなんて効率最悪だ。出し抜く術はあったと思う。でも、しなかった。強さも地位も身体も……求めていた全てを手に入れた後の俺が欲しがったのがこの男。第一領主になる以上の何かを、こいつの中に見出した。信じられるのは、賭けるべきはその一点。
愛した人を甦らせる、失った魂を追いかける旅。不完全なものを完全へと変える術。共感した? それともその秘術に興味を持った? この男ならば俺の真の願いを叶えられると信じたのか? 万が一、それが叶わなかったとしても――……
「二度も同じ事を言わせるな。そいつらもそれを選んだんだ。……それに。俺が欠けたら、お前が傍で支えて補え。お前は俺の物になるんだ。違うか、ファウスト?」
男を見上げ、ティモリアは言う。
悪魔のハッキリとした言葉に、錬金術師は錯覚したに違いない。これは、自分と共に過ごした方の悪魔ではないかと。しかし頭の羽を見て、彼は僅かに両眼を見開いて……静かにゆっくり頷いた。
「御意。では――……しばしのお別れです、お可愛らしい第五公」
錬金術師は本を片手に開いた後、罰の悪魔達に手を翳す。
直後、此方の怪しい動きを感知して、冬の悪魔が宙を飛ぶ。自分以外の時間を凍らせ、距離を詰め……氷の鎌を振り下ろす。死神が狙ったのは、術者であるファウストだ。
(ファウストっ!!)
まだ、俺自身とお前の間には……何一つ思い出はない。それでも流れ込んで来る。分解されて組み合わされて、混濁する記憶の渦。一言では言い表せない複雑な感情が、目の前の男に対して湧き上がる。
時が流れていたならば、ティモリアの目からは涙が流れていただろう。目を伏せる時さえ凍らせられて、男が惨殺される一部始終を悪魔は目撃することになる。
「アエスタス。その、角は……」
全てが終わった後、先に言葉を発したのは冬の悪魔。氷魔法が解けた時、ヒエムスは驚愕の表情で此方を見ていた。
攻撃をしたはずなのに、空振りどころか元いた絞首台の上に戻された。不可解だろう。全てを見ていたティモリアも、まだ混乱している程度には不可解だった。
(氷魔法を破った……んじゃない。巻き、戻した……?)
時代を飛ぶのではなく、事象を覆した。殺されたはずが無傷の錬金術師だけ、「こうなると思ってました」とほくそ笑む。過程はどうあれ結果と自分の悪魔を信じているのか。全く肝が据わった男である。
「お帰りなさいませ、お美しい第五公」
跪かれ、此方を見上げる奴の瞳に。映るのは――……本当に自分なのか? 長く伸びた髪に生えているのは猫の両耳……それから角だ。黒いかつての角ではない。黄金色に輝いた、長い二本の角。緩くカーブしたその角は、さながら豊穣の角のようではないか。
「いえ――……我が主」




