29:跪いて
「あの……」
「なんだい?」
おずおずと、ミディアは挙手をする。刑事と父と……因縁浅からぬ女性ドロレス。彼女の風格に、ミディアは押し負けていた。それでも知りたいことがある。呼吸一つで息を整え、ミディアは顔を上げて聞く。
「ドリーさんも、ホムンクルスや石の錬成ができる錬金術師なんですよね? それなら……」
「生意気なガキだよ」
「ひっ……!」
「本当に、あいつは。元々出来たガキだった。あいつの時代では情報が、知識が失われていただけでね。すぐに私を越えていった」
自分ではない、それが父のことだと気が付いてほっと胸を撫で下ろす。煙草をふかすドロレスの姿がボニーに重なって、ミディアは複雑な気持ちになった。威圧感、怖さが消えて安心するような。彼がもういない。自分のせいで、消えてしまった罪悪感、喪失感。
罪を己の物として、正しく理解できたのは初めてだ。自分が悪いと頭の中で言い聞かせても、結局自分に酔っていた。そうすることで、愛しい人に健気に映るでしょう? 少しでも自分を好きになれると思った。
(私は――……別の誰かになりたくて。何度も人の姿を、名前を奪って生きて来た)
私なんかいなくなってしまえば良い。誰へのものかも解らぬ罪悪感。記憶を失っていても、居心地の悪さは覚えていた。
私の所為、私の所為。誰かを責めるより自分を責めた方が良い。死体に鞭打つような真似、優しい人はしないから。優しさに甘えながら、その優しさを軽んじた。結局私という人間の中身を知らないから、彼らは私に優しく接した。私が内に抱えている醜さを、誰かに知って欲しかった。知って、それでも――……私は。誰かに“私”を愛して欲しかった。
「何とか……なりませんか?」
刑事は私の中身を知って、それでも「生きていて良い」と言ってくれた人。私の所為でその彼が、石のままだなんて受け容れられない。
「錬金炉とホムンクルスを組み合わせるなんざ、あいつにしか出来ない。そこで生まれた石に、魂を宿らせるなんて芸当も――……あいつにしか出来ないよ。それに、前提として……材料だ。簡単には揃わない」
「あの人にしか出来ないなら、ファウストになら出来るなら……私はあの人を追いかけたい。追いかけます、今すぐにでも」
「手ぶらで行くのかい? 如何にあいつでもそれは無理ってもんだ。連中が、道化を終わらせるってんなら尚のこと、新しい素材が手に入らなくなる。そうさ、……錬金術は魔法じゃない。不完全な物を完全へと変える、何もなければ何も始まらない。始まりには必ず“材料”が要る」
その位“私”も知っている。達人というこの人だって、私を外見で軽んじる。小娘に見えようと、“私”は――……貴女より古い時代の“化け物”なのに。
「そんなに睨まないでおくれ。私は何も、遺体確認のために来た訳じゃない。奴から幾つか頼まれ事をしていてね、こいつを運びに来たんだよ」
ドロレスが示す隣室。彼女が取った宿は奧にもう一部屋あった。荷物置き場のように狭い部屋だがそこには棺が一つ置かれていた。それを目にした時、私は全てを知ったのだ。
「ソルディ……ちゃ、ん」
「その様子だと“思い出した”かい? 少しは頭がしっかりして来たようだ。そうだ。ボニーには、使い魔の肉体を材料に使われている。バラバラになった何人かの組み合わせで錬成されたが、今回は幸運にも……無傷の亡骸がある」
(この人は、“私”に選べというの!?)
親友か、恩人か。一人しか蘇らせられない。どちらも私の所為でいなくなってしまったのに。どちらを選んでも罪深い。何の心に従うか。
「錬金術は魔法じゃない。大事なものが何もかも、取り戻せると思っちゃいけない」
蓋を開けるまでもなく、棺の中身は使い魔の身体。入っているのは、ソルディ=ミュラー。
罪悪感の軽い方を選ぶなら、選ぶのはソルディだ。“あの人は優しい人だもの。レッド刑事なら、貴方を選ばなくても私を恨まない”……その通りだと心の底から信じられる。あれだけ私の幸せを願ってくれた彼ならば、私の選択を咎めることはない。
今の感情に流されるなら、選びたいのはボニー=レッド。彼ほど“私”の中身を理解し、大切に想ってくれた人はいない。何度も救われ何一つ……彼には恩を返せていない。
(でも私は、きっと耐えられない)
ソルディの身体で蘇ったレッド刑事に、これまでのように接することが出来るだろうか? 犠牲にした人の姿で微笑む彼に、私は笑い返せるか?
一方でソルディも。先程出会った時のよう……恨み言ばかり聞かせられるなら、刑事を犠牲にしてまでソルディを呼び戻す必要性を感じない。贖罪を思う中でさえ、結局何時までも私は自分のことしか考えていない。どちらであれば自分が苦しめられずに済むかを優先している。
「長く生きた、が偉いんじゃない。何処まで理解したかが凄いんだ。だからね、やっぱりあんたは……まだまだ、小娘だよお嬢ちゃん」
「そう、ですね…………返す言葉も、ありません」
「それか、長く生きる内に忘れるものなのかもね。本当の小娘の方が、真実に近づけたりするものさ。とりわけ、愛なんてものは」
ドロレスは窓の外……遠くを見据えながら煙草を吹かす。彼女が語る“小娘”は、私ではないのだろう。私はこんな時さえ“彼女”に敵わない。不意に流れ出す涙は、私の全て。私と彼女の関係を、形表す全て。
「愛の名の下に、全てが許されはしない。しかし愛があることで、人は背負う覚悟を決められる。罪も責任も……報いもね」
慰めの言葉にしては突き放して行く言葉。ドロレスは、さながらそれを過去の自分に語っているようだ。人を愛したことがある、人に愛されたことがある。そんな人の言葉は強い。愛しても愛されなかった人間は、決して同じようにはなれない。
「なぁ、お嬢ちゃん。あんたが振り向きさえすれば、愛なんて幾らでも転がっていただろう? あんたはドードー鳥なのに、空の星に恋をした。飛べるはずもないのにそうやって空ばかりを見ていたから、あんたも周りも消えてなくなる」
「そうかも……しれません」
私は、手には入らないものを愛する。取り戻したら、取り戻せなかった人を思う。より大事な人を選んだつもりでも、そうではなかったと思い知るのが怖い。
私は、あの人以外に向ける心に自信が無い。
「……そんなにあれはいい男かい? 今のあんたなら思い出せるだろう? そんなになるまでどうしてあいつを追いかけた?」
ドロレスの鋭い目。覗き込まれている内に、見えてきたのは自分の姿。彼女の瞳に映る私は、私の知らない顔をしていた。……いいえ、私が“よく知る”私がそこにいた。
*
一年の大半が空いた城がある。雇われた僅かの使用人が主の帰りを待って維持するだけの城が。盗みに入るなら狙い目の場所だと聞いていた。他人事のように聞いていた、噂話に縋る日が来るなんて。
(お父さん、お母さん――……ごめんなさい)
私はまだ、会いに行けない。どれだけ祈っても、空からパンは降って来ない。汚れなく死んでいくよりも、罪を犯して生き延びる。
手がボロボロになっても構うものか。高い塀をよじ登り、転がり込んだ庭の中。食料庫を探し出した時、空腹に堪え兼ねて……私は逃げることも忘れてその場で食い散らかした。
「鼠が出るとは聞いていたけど、随分と大きな――……可愛い鼠ね」
「!?」
真夜中に、高い声で子供が笑う。とても眩しい。彼女はカンテラを床へ置き……私の方へと近付いた。
「お前、うちは何処?」
ここには子供なんていないはずなのに。欺された? それとも人目を忍んで城へ戻っていたのか? 僅かの使用人が食べるにしては、確かに食糧は多い。
「う、あ……あ」
「大人達に見つかったら大変よ。続きは私の部屋で食べなさい」
「あ、あああ……」
「私もね? お腹が空いていたの。テーブルマナーに五月蠅いんだもの、ちっとも食べた気がしないの。私一人ならどう言い訳したものか困っていたのだけれど、助かったわ」
溝鼠はお姫様に拾われて、美味しいご飯と綺麗な服を与えられ。泥を洗い流した鼠の姿に、二人はとても驚きました。
「家がない? それじゃあここにいなさいよ。貴女がいてくれたら、お稽古を半分サボれるわ!」
めでたし、めでたし――……?
*
「近頃の陛下は……なんだかとても恐ろしいわ。他国への牽制の意味もあるんだろうけど」
「愛らしかったベルカンヌ様は何処へ行ってしまったのぉおお!?」
「お前達、滅多なことをお言いでないよ! 私達だって、機嫌を損ねたらどうなるか! ちょっと前に、消えたメイドがいただろう?」
「ジェスティアのこと? そうよ、御側付きだったあの子も突然……やっぱり陛下が?」
使用人達も恐れ戦く。戦は終わっても、死は身近。誰の側に付けば生き延びられるか、誰もが保身を考える。城内でさえ、こんな様子。城の外、国の外はどうなっていることか。女王は治世の地盤固めに奔走していた。
(馬鹿みたい)
心に碇を降ろしていない、忠義がないから波に攫われ揺れ動く。
(ベルカンヌ様は、あの頃から……一つも変わっていないのに)
唯。優しくて、無邪気なお姫様のままでは、ロンダルシアを守れない。全ては愛する民のため。
戦が終わっても、平穏は訪れない。大国には内外に敵がいる。女が王位に就いたことを未だに認めない者も大勢。ロンダルシアは火薬庫だ。女王はその火種を一つずつ消していく。そのために、無慈悲の仮面を纏わなければならなかった。
「陛下、どうかご慈悲を!! わ、わわ私は何も、何も知らされていなかったのです!」
報酬は金か食料か、家族を人質に取ったのか? 貧しく幼い子供を密偵に仕立て上げ、貴族が城へと送り込む。後ろ盾ごと始末したいが、悪党は見つかるような証拠は残さない。難癖を付け処刑することも出来るが、女王の悪評が増すばかり。女の王は無能だと、世論を動かしたい者が居る。
利用されただけの哀れな子供だと見逃せば、女王は甘いと軽んじられて厄介事は増えていく。
「……お前、生まれは? お前を送り込んだ、侯爵家の子ではないな?」
「は、はい……私は、川向こうで声を掛けられて」
「そうか。貧民窟の出か。ならば――……貴族ではないな。これを縛り首にせよ」
「ひっ!! や、やめろっ! ぼぼぼぼ僕はは悪くないっ! 殺すなら、僕を雇ったあいつだろ!?」
「二度とこのようなことがないように、見せしめは派手にやれ。良いか? 我が国に牙を剥く者に例外はない。その童のように、罰せられると思え。例え貴族であろうとも、貧民と同じように縊り殺してやる」
手綱を締める目的か。国のため、女王は非情となった。まだ幼く小さな子供。心では見逃したい罪人も、無残に殺す。彼女が涙を見せるのは、自室へ戻った時にだけ。側仕えの使用人でもなければ、女王の涙を知ることはない。それを口外しようものならどうなるものか。冷徹な女王の偶像を、壊されては堪らない。女王が側に置くのは幼少から仕えた、信頼の置ける者達。私もその内の一人。
(貧民窟、ね……)
他人事には思えない。私も、きっと陛下も。
陛下は私の恩人。顔が似ていたから私は城に召し抱えられ、食うに困らず生きて来られた。あの日、流行病から逃れるため――……地方の城に移された王女と出会わなければ、遅かれ早かれ今の子供のように……私は吊られていたことだろう。
(私の幸運は、この顔に生まれたこと。ベルカンヌ様と出会えたこと)
私はきっと、彼女のために生を受けたのだ。彼女の栄光は、私にとっての誇り。
「ベルカンヌ様、お茶をお持ちしました」
「ありがとう。リュディアのお茶は落ち着くわ」
主の部屋を訪ねると……彼女は涙も拭わずに、私に微笑み出迎える。
「不思議ね。貴女にも道化の才があるのかしら?」
「ええ!? それって私が無能だって事ですか?」
「貴女といると、肩の荷が下りると言っているのよ」
「ありがとうございます、光栄です! それでベルカンヌ様、良かったのですか? お茶はいつもは――……」
ロンダルシアの至宝と謳われた王女ベルカンヌ。女王として即位した彼女は、冷徹で残忍な顔を覗かせた。けれど日に一度――……伴侶との茶会を何より楽しみにしている、そんな可憐な女性。
「ああ、それね。リュディア、代わりに貴女が行ってくれない?」
「わ、私がですか!?」
「そうよ、こんな情けない顔。彼には見せられないわ」
女王が仕事に追われ疲れ切っている理由。それは偏に“道化”などを伴侶に選んだためだ。素性も知れないいかれた男。使いものにならない道化を、国政に関わらせることを貴族達は認めない。本来彼女と結ばれた男が王になるはずだったが、他国の介入を防ぐべくベルカンヌが女王として即位する――……そのための布石が道化カイネス。彼が無能であることが、女王の治政に必要だった。
「愛する人の前ではいつも、美しくありたい……ですか? うわぁ、熱烈ですね陛下!」
「違うわ。こんな顔を見せて……あの人の所為で私が苦労しているなんて、思われたくないのよ。私は幸せなのだから」
囃し立てればそれ以上の惚気が返る。道化のことを口にして、女王の顔には笑みが戻った。涙はもうそこに見えない。道化カイネスが、女王の心を支えているのは本当だ。彼がいるから、彼女は王の仮面……重圧に耐えられている。
「で、ですが私が陛下の代わりにお茶だなんて……カイネス様はどう思われるでしょう?」
「あの人は愚者だけど馬鹿ではないわ。貴女が気に病む必要はないの。あのお茶会では上等な菓子が出るけれど?」
「お、美味しいお菓子……?」
「貴女にも苦労を掛けている。息抜きが必要なのは貴女の方ではなくて?」
顔を見せたくないのも本当、けれど私への労いも本当。女王と同じ顔の私は自由が制限されている。政敵に捕まれば、利用される恐れもあった。
女王の口に入るような上等な品、代理で食べて良いなんて。ああ、こんなことは昔から度々あった。私が一生口に出来ない高級料理を、ベルカンヌ様は簡単に……私に与えてくださった。私が城へやって来た日を新たな誕生日と決めて、食事には影の私を向かわせた。
(でも私……あの人のこと、好きじゃない。あんな道化とお茶なんて、折角のお菓子が不味くなる)
陛下の信頼を得ている私が陛下の拠り所である道化と不仲では、有事の際に連携も取れない。少しは打ち解けて欲しい、それが彼女の狙いだろうか。
主の要望ならば無下には出来ない。私は渋々影として、道化の部屋まで赴いた。
「あ、あの……」
「今日は少し遅かったね“ベルカンヌ”、さぁ! 此方へどうぞ」
優しい笑顔、優しい声。私を見て、私を見ない。私を見つめ、視線は私を突き破る。彼の瞳の中には空虚があった。この男は狂人だ。だって、こんなに近くにいて私に気付かない。
なのに何故、貴方の声は愛に満ちている。本来私に向けられるべきではない、優しい声。貴方は楽器。求めに応じて美しい音色を響かせるのに、貴方は何も見ていない。
「陛下……カイネス様は本当に、陛下を想っていらっしゃるのでしょうか?」
茶会から帰るなり不機嫌な私を見て、陛下は大層驚かれた。
「何、突然……? カイネスに何か言われたの?」
お菓子は美味しかった。もてなす男も愉快だった。けれども私にはそれが何より不愉快だった。
「カイネス様は私の正体について、何も言って下さらなかった。私が名乗る前に、事情をお伝えする前に……私を陛下の御名でお呼びになったのです。本当に陛下を想っていらっしゃるなら、気付いて当然です!! 何なのですかあの男は!!」
姿形は似ていても、私は完璧な影ではない。記憶の齟齬、立ち振る舞いや知識。必ず襤褸が出る、長時間の影武者にはなれない。茶会の作法を知ってはいても、いつも二人がどのように過ごすかなんて解らない。その時点で私は、偽物だと気付かれても良いはずなのだ。
「まぁ、あれは道化だものね。そうやって貴女をからかっているのよ」
「そうでしょうか!? 私、あの方を信じられません!! 陛下が日々どれだけ苦労されていらっしゃるか、あの方は本当に理解しているのですか!?」
「……それなら明日も貴女がお茶を飲んでらっしゃい。彼の良さを解って貰えるまでそうすると良い。訂正して貰うわよ。カイネスは最高だって」
私の方が昔から、ベルカンヌ様に仕えていた。カイネスという男……最初から気に入らなかった。陛下を敬愛していた私は、道化を快く思っていなかった。憎んでいたと言っても過言ではない。
(私、何をしているんだろう)
何度、道化と同席したか。数え切れない。陛下の、大切な時間を奪っている。さっさと認めてしまえば良い負けを。仕える方の幸せのため、私が負けを認めれば良い。
しかし主に恨まれてでも、忠誠を守りたい。この男の所為でベルカンヌ様が苦しんでいる。王を任せられるようなまともな男……他の人と結婚していれば、ベルカンヌ様も何不自由なく幸せになれたのに。
(こんな男、陛下には相応しくない……他国の出とかいう流れ者。どこぞの密偵ではないの? 絶対に尻尾を掴んでやる)
一年……二年。そんな風に時が流れた。私が意地を張っている内に、女王は自室にさえ戻れない日が続く。
(何か大きな陰謀でも? 他国に妙な動きが? 陛下はご多忙で……唯一の、息抜きさえもう取られない)
あれは予兆であったのだろう。これから会えなくなるかもしれない。少しでも、道化の心が安まるように……影の私を置いたのは。
「良い香り……」
「……そうだね」
通い詰める内、私は彼の変化に気が付いた。嗚呼、この人は……私が“女王”でないことを知っている。笑っているのにその目はとても寂しそう。それが貴方の素顔? 最初から貴方はそんな風に笑っていた? 気が付いたのは、彼ではない。私が変わったから。彼が最高に素敵だと……思う様になったから。
(私がいるのに、窓を見ている……そこにあの人が、通らないかと思っているんだ。苦しい、……何なの、これ)
陛下のため。監視していた男に心を占領されていく。貴方は今日は窓の外、羽ばたく鳥をじっと見つめている。
何時しか私の愛と憎しみは、そっくりそのまま入れ替わる。憎いと思った強さだけ、私は彼に惹かれてしまい……誇りに思った強さだけ、私は女王が妬ましい。
生まれた場所が違う、愛した人が違う。それがどうして彼女であって、私ではいけなかったのか。今傍に居るのは私なのに、貴方はやっぱり私を見ない。
(カイネス、貴方は……)
貴方は今や籠の鳥。本来この狂人は、狂人故に何処を徘徊しようと許された。けれど城内も不穏になり、如何に高貴な道化であれど、貴族達には目の上の瘤。自由に出歩かせれば、排除される恐れがあった。
貴方が欲しいのは空ではなくて、愛する人の傍に居られる幸せ。仲睦まじい番いを目にし、不甲斐なく感じたか。彼が怒りをぶつけたいのは、きっと自分自身に。
忙殺されて暇さえなくなった女王。彼女を傍で支えることも許されず、人を笑わせることしか許されない。
「……カイネス?」
「ああ、“ベルカ”。そんな曇ったお顔をしてどうしたんだい? 貴女の道化が一つ愉快な歌でも一曲……!」
振り向く貴方はいつもの顔で。泣きたいのに、叫び出したいほど辛いのに、貴方は笑顔の仮面を貼り付ける。
彼は私に伝言を頼みたいのか……貴方の道化はこんなに元気ですよと。国のこと以外に心配事を増やさせたくない。寂しいなんて言葉、決して伝えてくれるなと。彼は私を“ベルカンヌ”の名で呼んだ。
(信じられない……)
最愛の人にずっと会えていないのに。そこにそっくりな女が送り込まれているのに。お前は高貴な狂人なのだから、私に何をしたって咎められずに済むのにどうして……指一本触れてくれないの? 何の欲もない無垢なまま、唯あの人を愛していると? 本気で貴方はそう言っているの?
女王と同じ顔。彼女と同じ美貌。それが私の全て。私の価値に、見向きもしない。同じ顔なのよ? 大好きな人にもう長いこと会えていないのよ? 偽物でも良いと思わない? 身分の低い女が目の前にいる。いかれた道化のすることだ。貴方を罰する者はいない。なのにどうして? 貴方は私に何もしないの?
「ねぇ、カイネス……私達、そろそろ考えるべきじゃない?」
「考える?」
「私達の間に男の子でも生まれたら、無駄な争いもなくなるわ。次は王が即位するのだと、諸侯も大人しくなるはずよ」
「……“リュディア”。それを決めるのは君ではなく、“陛下”だ。全ては陛下の判断だ。まだ、その時じゃない。君は陛下のお心を疑うのか?」
私が二人の“禁忌”に触れたとき、カイネスはこの場所で……初めて私の名を口にした。
一瞬で彼の笑顔はかき消えて、声には優しさなど微塵も残らない。仮面の下だ。彼が素顔を覗かせた。
「君と茶を飲むのはこれで最後だ。出て行ってくれ」
氷のように冷たい視線、冷たい言葉。私が震え上がったのは、決して恐怖などではない。
(嗚呼、この男は……狂ってなどいなかった!!)
まともに考えられる頭を持っている。それなのに何故? 彼は道化を演じているのか。知れば知るほど深みにはまる。彼の全てを暴きたい。彼の全てを知りたい。貪欲に求める心、私は彼への想いを自覚した。
女王からの施しではなく、彼女の宝を奪いたいという虚栄心? 違う、私が彼を愛してしまったそれだけよ。
感情が揺さぶられ、私は歓喜し涙していた。道化の素顔を暴いてやったという喜びと、彼に嫌われてしまったという絶望。
「浮かない顔をしているね」
一人……扉の外で泣く私。気遣う声を掛けてくれたのは。
「クワラント、様?」
「時間はあるかい? ……場所を移そう。そこの中庭でも歩こうか?」
「は、はい」
戦での功績を讃えられ、ロンダルシアの爵位と領地を与えられた英雄だ。しかし先の大戦で顔に大怪我を負い、常に素顔を鉄の仮面で隠した怪しげな男。
外見の異様さに反し、英雄殿の悪い噂は聞こえて来ない。流れる噂は……生まれも高貴で元は何処かの王子様だとか、怪我を負う前は美しい人だったとか。人望も厚く、戦術にも優れた人格者――……補佐役として城内にも一室が貸し与えられている。カイネスとは違う意味で、奇妙な人だった。
(でもクワラント様は確か――……カイネスの後見人。元の所有者だって話だわ)
元々王女に求婚したのは彼の方。使いの道化と王女が恋に落ちたため、彼は全てを失って――……戦うことで僅かばかりを取り戻した哀れな男。女王と不仲とは聞かないが、何かしら思うところはあるだろう。
(まさか、クワラント様は私と陛下を間違って声を掛けて下さったのでは!?)
身の危険を感じ、私は必死に弁解をした。
「あの、閣下。私……“影”です」
「ふふふ、知っているよ。言葉を重ねれば解るさ。陛下がそんな弱々しい声を出すものか」
「あ、あはは。陛下のこと、よく解っていらっしゃるのですね」
「君ほどじゃない。陛下とは長い付き合いなのだろう? 寂しい思いをさせて済まないね……私の道化の所為で、皆を苦しめてばかりだ」
「そ、そんなことはありませんよ! か、カイネス……様は最高です! 最高の、道化です」
私は何を言っているのだろう。伝える相手が違う。伝えるべきはベルカンヌ様に。嗚呼それも、どうして私は泣いている?
深くは追求しないまま、彼は一言呟いた。
「あれのことが気になるのかい?」
「……より役立つ影になるため、陛下のお心を理解したい。当然のことです」
「嘘が上手いね、リュディア?」
「嘘……ですか?」
「ああ。観客のいない場所でまで、演じるのは道化ではなく狂人だ」
英雄殿には、一人で泣いている場面を見られた。あの涙が演技なはずがなかろうと、私の言葉は一蹴される。
「お嬢さん。君は愛しているのだろう、あれを」
「…………」
「次に君に会うときは、君に似合う仮面を用意させよう。そんな顔ではいつまでも、陛下を欺けない」
「ええと…………クワラント様の、仮面は趣味なのですか?」
「そうだったなら良いのだけれど。これに名付けるならば、屈辱さ」
「屈、辱……?」
「そうとも。顔を焼くか、仮面を付けるか。報賞の条件がそれだ。何も得られぬまま去るか、屈辱と栄光を得るか……英雄なんて惨めなものさ」
東屋の椅子に腰を下ろした仮面の男。隣へと許しを受けて、私も従い腰を下ろした。それから彼は自らの髪をかき上げて……仮面に付いた錠を見せた。彼の仮面は拘束具。自らの意思で外すことが出来ない“屈辱”だ。
「酷い……誰がこんなことを!?」
「考えるまでもないだろう。君は女王付きの使用人だったね。カイネスの秘密を教える代わりに、鍵を盗んできて欲しい」
「あの、どうして……クワラント様がそんな目に?」
「僕にとってのカイネスは、陛下にとっての君に等しい。僕さえいなければ……カイネスは僕の名で、由緒正しい身分の者として。何者にも誹られず、ロンダルシアの王になっていた」
英雄の素顔を隠した仮面。その意味を理解する。
道化と女王の恩情で、英雄は生き延びた。道化が彼の名と地位を奪っていたならば――……罪なき英雄を闇に葬れば。彼一人の犠牲で皆が幸せになれていた?
(酷い……)
哀れな男の告白に、私の胸には憐憫と……愚かな野心が植え付けられた。
(でも、考えたこともなかった……)
どくんどくんと心臓が鳴る。陛下に相応しいのはクワラント様。本来結ばれるべきはこの二人。身分相応、カイネスが添い遂げるべきは……ベルカンヌ様ではなかった。
全てがあるべき所に収まれば、彼は私の物になる?
(そうよ、これはベルカンヌ様のため! あんな男、貴女には相応しくない!! 思い上がりも甚だしいわ。カイネスは……私くらいで丁度良い!!)
忠義の仮面で自分を欺す。正義の言葉で迷いを殺す。罪を犯した自覚もないまま、私は女王の居室を探り――……目当ての鍵を手に入れる。
彼女の身の回りの世話をしていた私には……探す場所など絞られる。安い仕事だ。疲れ切った女王は眠ったまま目覚めない。
(ベルカンヌ様は目覚めない。私にその気があるのなら――……)
掃除のための鍵を持ち、信頼された腹心が……貴女を裏切ってしまった。私は貴女を害するくらい、こうして近くに寄れるのに。私は貴女を、裏切った。
彼女が目覚める前に、鍵を元の場所へ戻そう。私がそう決めた時、扉の方から音がした。カチャと鍵の回る音。私以外の誰が陛下の鍵を? 慌てて物陰に隠れる。
(……“ジェスティア”?)
最近見かけていなかった使用人。私と同じ、女王付きのメイドである彼女。仲が良いとは思っていたが、彼女は私ほど長く働いていない。なのに、鍵を渡されるほど彼女は信頼されていたのか。
メイドへの嫉妬を覚え、私は安堵する。私にはまだ、陛下への気持ちがこんなにも胸に残っている。あれは一時の気の迷い……鍵は元の場所へ返そう。
「“ベル”」
「!?」
使用人は“カイネス”の声で、彼女の名を呼んだ。嗚呼、なんて切ない声なの。女王の名は、嗚咽混じりに繰り返される。
彼が本人に会った時よりも、衰弱した様子の女王。“私”の心ない言葉に堪え兼ねて、彼女に一目会いたくなった。変装して抜け出した先、彼が目にしたのは――……自分を優しく慰めてくれる人ではなくて、泥のように眠った彼女の姿。
「ごめん、ごめん……“ベル”、僕が……」
見てはならない、いけないものを見ている。けれど目が離せない。
彼はあの方を呼び続けながら、唯ひたすらに口づけだけを繰り返す。文字通りの抱擁は、それ以上の意味を持たない。愛を語らうため、他のやり方を知らないような? 違う……知っているのに何も出来ない。だから彼は、あんな風に泣いている。
夜明け前……彼は部屋を出て行って、ようやく私の時間も動き出す。鍵を戻さなければ……そう思っているのに、手だけはまだ凍り付いたまま。
私は、カイネスの秘密を一つ知ってしまった。この鍵をクワラント様に渡したら。彼の全てが明らかになる。そう思うと私の手は重くなっていく。
(知りたい……貴方を知りたい)
私と同じで私と違う、貴方を知りたい。私なら貴方をあんな風に泣かせない、ベルカンヌ様だって苦しまずに生きられる。彼らを取り巻く現状が全て、間違った……良くないものに思えてならない。
私が迷いを断ち切れぬまま朝日は昇り、女王が目覚めた。用意した茶葉の香りのためか。そうだ、彼との茶会で使われるのと同じ物を用意した。
「良い香り……貴女が起こしに来てくれるなんて久々ね。ありがとう、リュディア。……あの人は、元気にしている?」
「ええ! それはもう!!」
「そう……良かったわ。今のゴタゴタが片付いたら、貴女も入れて……みんなでお茶でもしたいわね」
「光栄です、陛下」
私は彼と同じ生き物。ほらこんなにも、上手く嘘が吐けるでしょう?
「約束通り、鍵をお持ちしました――……クワラント様」
「感謝するよ、リュディア。君に褒美を授けよう」
私は鍵を返さずに、あの男との約束を優先した。
仮面の下から現れる、英雄殿の顔は。道化とよく似た端正な顔。
「王の伴侶となるか、道化となるか……好きな方を選ぶと良い」
*
「う、嘘。こんなの嘘です……私は! 私は彼が死ぬまで、この想いに気付いたりしなかった! 彼が死ぬまで私は陛下を裏切ったりしなかった!!」
夢に見た記憶と違う光景に、“私”は激しく取り乱した。錬金術師は、私を労らず事実だけを伝えてくる。
「そう、思いたかっただけだろう? 記憶は美化、改変される。耐えられない事実には脚色が入るんだ」
「どうしてこれが、真実だって解るんですか?」
私の魂が覚えていること、嘘と本当の中から真実だけを掬い上げるなんて真似、錬金術で成し遂げられるとは思えない。
「なんてことはない。石の力を使ったのさ。こいつは不完全な物を完全へと変える」
ドロレスが手にしていたのは、ボニー=レッド……彼が残した赤い石。賢者の石を用いて、私の記憶を完全なる物に復元したと言う。
「知らないままでは満足な判断を下せない。後悔するなら全てを知って後悔するんだ。それが“知ろう”とした者達に必要な事だ。それともここで、やめるかい? どちらか選ぶ覚悟は決まったかい?」
「…………続けて、ください」
彼女の言葉を否定出来ない。自身を深く知らなければ、どんな選択も必ず後悔に変わる。
赤い石の輝きを、見つめる内――……再び私の意識は沈んでいった。
*
英雄殿は優秀な男。そう、殺すには惜しい。野心さえ取り除ければ使える駒。
そして。“道化”にとっては大事な主。道化を悲しませないため、女王はクワラントを殺さず重用するに至った。顔さえ出さずにいてくれるならと。
(ベルカンヌ様は、仮面が外れることを知らない)
クワラント様は職人に命じ、偽の鍵を作らせた。其方は私が元の場所に戻している。仮面さえ外れてしまえば、悪巧みなんて幾らでも立てられる。
英雄の活躍で、落ち着きを見せるロンダルシア。女王の悪評と、彼の求心力。それでも両者の仲が良好ならば、何の問題も無い。
「私にとってカイネスは、家族も同然。感謝していますよ陛下。私ではあれをそんな風に笑わせられたことはありませんでした」
道化の主もまた道化。心にもない言葉で女王を欺いた。彼を完全に信頼しなくとも、腹心の部下……“リュディア”を残している。
「どうぞゆっくり羽を伸ばして来て下さい。陛下はこれまで頑張り過ぎたのですから! 少しくらい羽目を外しても、罰なんて当たりません。留守の間はしっかりと! 一月程度、影の私が務めさせていただきます」
「ふふふ、ありがとうリュディア」
私の首にぎゅっと抱きつく彼女の腕からは、私への溢れんばかりの親愛を感じた。私なんかに素顔を見せた貴女が悪い。私の中身に気付けなかった貴女が悪い。今でも良い、気が付いてくれたなら。このまま私の首をへし折ってくれたなら。
keineswegsのアナグラムを翻訳にたたき込みました。今回はドイツ語で。
Wegs Knie Es
Weg Knies Es
Sieges Knewはまた何かの折りに使いたい。
書きかけの分半分に区切ったので、近いうちにまた更新します。




