22:彼女の船のループ
(こんなドレスがあるからいけない。もう二度と、あの子の作った服なんか見たくない。全てを忘れてしまいましょう)
何処か田舎に移り住んで、自然に囲まれ新しく生活を始めましょう。私達に子供なんかいなかった。
貴方は泣くなと言うけれど、あの子達を忘れられない限り私は生涯悲しみ続ける。こんなに辛い日々が続くだけならば、私に子供なんかいなかった。二人のことを忘れて貴方と二人、出会った頃からやり直しましょう。
そう思うのに、貴方は仕事を休まない。店を離れるつもりもない。あの子の名を使い、ドレスを作り続ける。 貴方は何を愛しているの? 信じられないわ。ソルディとファイデは貴方の子ですよ。私と貴方の。それなのに何故、貴方は私の痛みを解ってくれないの? どうしてあの子達の死で! 私の傷で貴方は儲けを考えるの? 貴方が愛していたのはあの子ではなくて、あの子の名前なのですか!? 貴方に人の心はない。貴方こそ、魂を悪魔に売った最低の人間だ!!
(もう終わりにしましょう。これが貴方を狂わせるの。こんなドレスがあるからいけない。もう二度と、あの子の作った服なんか見たくない。全てを忘れてしまいましょう)
私があの子の遺作を破いて燃やしていたら、あの人は血相を変え暖炉に水をかけ……それから思い切り私を打った。とてもショックだったと思う。こんなことははじめてだったから。
結婚する前だって、した後だって。貴方は優しい人だった。職人肌で少し頑固なところはあるけれど、私に怒鳴ったり暴力を振るったりするような人ではなかった。
あの子達が死んでから。殺されてから。貴方はおかしくなってしまった。今はもう、どうしてこんな男と一緒に居るのか解らない。
三日三晩泣き明かし、涙も涸れてしまった後。久方ぶりの睡魔がやって来た。こんなに悲しいだけならば。眠りに身を任せ、二度と目が覚めなくても構わない。
けれど夢の中にも逃げ場所はない。結局眠る前と同じ場所に、私はやって来てしまう。ああ、また繰り返し。夫と同じ口論で、夢でも私が泣くのだわ。
「過去に戻りたい? それは間違い。貴女の願いは少々異なる」
聞こえた声は、私でもあの人でもない第三者のもの。優しく囁くその声は、私の深層心理のようにも思える。彼は悪魔だ。私の中に棲まう悪魔だ。
「よく考えて。本当の貴女は何がしたい? 何を願っている?」
私の願い? 簡単なこと私は私の幸せを取り戻したい。あの人と私は平行線。話しても話しても、互いの違いを思い知る。どうしてこんなことになってしまったの? 優しい夫と可愛い子供達がいるだけでいい。仕立屋でなくていい。今より貧しくなっても構わない。 ああ、それってつまり。“貴方”でなくてもいいのね。
「貴女が本当に願っているのは、彼を過去にすることか。確かに彼さえいなければ、貴女は自由だ。全ての肩書きを捨て、ただの貴女に貴女は戻れる。全てを忘れ、違う場所で違う相手と貴女は幸せを取り戻せる」
いつしか悪魔は私の内より抜け出して、あの人には見えていない。思わず見惚れるような美しい男だ。悪魔はそんな顔をしていて、私の痛みに理解を示す。
「可哀想に、ご婦人。貴女は何も悪くない」
せめて夢の中だけでも、私は自由であるべきだ。悪魔の声は私の救い。ここは夢の中なのだから、私は何をしても良い。私には全てが許されていた。
「可哀想に、ご婦人。貴女は何も悪くない」
はっと我に返ったのは、声の違和感を知った時。先程聞いたばかりの言葉が、今度は違う方向……違う声色で響く。
私に見えているのは、白い生地がどんどん別の色に変わる様。あの人は信じられないものを見るような目で、床へと崩れ落ちた。
「貴、方……?」
これは夢のはずなのに、手にはしっかりした感触が残る。刃物を思い切り握りしめ……肉を割いた感触が。さっきと違う。あの人はあんな目で私を見なかった。血の一滴さえ零れなかった。だから苦しまず、優しい顔で私に詫びるように死んでいったのに。それなのに何故、今度のあの人は恐ろしい顔で死んでいるのだろう?
どうして私の手は。こんなに汚れていて、震えていて……指先から冷えていく。そんな私の手を包み、暖めながら彼が言う。
「解っていますとも。貴女に罪がないことを。他の誰が解らなくとも、私だけは解っています。ですが……この国は。墓場の連中は貴女を罪人とするでしょうね」
夢と一つ違うこと。傍に居るのは知らない男。夢で見た男とは姿形も全く違う。男の方はまだ夢の中に居るのか、口調だけ夢の男の台詞と同じ。夢の終わりで聞いた言葉と同じ言葉を彼は言う。そこで男も起きたのか。すぐさま私の手から刃物奪い……私の首筋へ押し当てた。
「へへ、わ、解ってます。解ってますよ旦那。この女を、脅せば良いんですね? 解ってます、解ってますって。俺はこれでも、仕事はちゃんとこなして来たじゃないですか。これまでだって、そうでしょう」
男は目覚めた後も“それ”が見えているようで、彼との会話を続けている。私はもう、何が夢か現実か……解らなくなっていた。
「おい女。お前は人殺しだ。それも旦那を殺した大罪人だ。お前のような者が、これから先……まともな場所で生きていけると思うなよ。お前の無実を知っているのは、現実にはこの俺しかいない」
待って。置いていかないで。
初対面の、怪しい男。人の家に勝手に上がり込んだ不審者相手に……どうして私情けない言葉ばかり思い浮かぶの。私は必死に言葉を吐き出す事を耐え、立ち去る男の背中を見つめる。
私の痛みが解るなんて嘘。解っているなら私の欲しい言葉をくれなきゃおかしい。
どうせこの世界には誰一人、私の悲しみを理解してくれる者はいないのだ。
「だが……俺達の所に来れば、別の名前を用意してやる。未練はないだろう? お前の罪しかもうない、こんな国に」
男が、振り向いた。私の欲しい、言葉と共に。
*
人生は歴史だ。しかし自分自身の記憶に絶対の自信がある者が果たしてどれほど居るだろう?
記憶には何かしらの感情が絡む。感情は記録を記憶に変え、事実を虚実へ引き下げる。
心による“補正”がある以上、人間は真実を保管できない。観測者毎に違った“虚実”がストックされて行く。
美しい思い出はより美化され、負の感情は悲劇を増幅させて映し出す。本人はどれ程辛くとも、世には五万と悲惨な連中がいる。誰がどれ程傷付いて、嘆き悲しもうとも……その痛みを正確に言い表せる指標は存在しない。世界を巡り、時代を遡ってみれば、もっと不幸な奴はいて。胸が張り裂けそうな苦しみも、“取るに足らない悲劇”と軽んじられる。
時には誰かの不幸は娯楽として消費されもするだろう。“仕立屋ミュラー一家”の悲劇もその例によって処理される。
「縋れる相手がいるならば、遺族は神にも悪魔にも縋る。何を手放してでも、何を失ってでも……目的を果たせるのなら。しかし、商売敵が増えては此方もやりにくい。邪魔者は早めに潰すのではなくて、最初から誕生させないのが正解さ」
かつて錬金術師はそんな事を口にした。
「悪魔に縋る前に、ボニー君。君に縋るよう、そういう風に君を作った。男は硫黄、女は水銀。硫黄は魂、水銀は霊。どちらも君の役に立つだろう」
心が。感情が伴わない記録であるため、この記憶は正確だ。
俺は人間では無い。心が無ければ悪魔に付け入られる事が無い。何があろうと与えられた作業をこなす。
けれども人間は、強い衝撃を受けた時……防衛本能が働く。自己正当化もその一種。罪悪感が“奪われた”時、まやかしは真実に成り代わる。
夢魔の出現は、“罪の意識”がトリガー。無意識の内“それ”を失ったなら、既にそれらの人は夢魔の術中にある。
故に、夢で見る“記憶”は必ずしも真実じゃない。主観がある以上、都合の良い思い違いをし、事実とは異なる情報を真実と思い込む。自身を客観視し、物事への俯瞰的視点を持てない限り、“悪夢”からは逃れられない。
*
彼はまだ、自分が生きていると信じていた。突然の不幸を受け入れることが出来ず、夢を見ていた。自らの亡骸が詰め込まれたことも、自身が誰に殺されたのかも忘れて。他人に乗り移り、自分が生きていると思い込んだ。
彼女が恐れ、逃げ出すのも無理はない。逃走の最中、罪が生身の肉体を得て追いかけて来たのだから。
「……彼女は無事だが、貴方はそうじゃない」
ボニー=レッドの言葉を受けて、男は叫び声を上げた。リークス=ミュラーは、我が子を二人失った挙げ句……あろう事か実の妻ラズイークに殺害された。悪霊化しても無理はない。
「彼女は貴方を殺したが、夢魔に付け入られた被害者だ。貴方が真に彼女を想っていたなら、どうか怒りを鎮めて欲しい」
男……リークスは死人である。霊体として逃げる二人を追う内に、他人の身体に取り憑いた。
(……厄介だな)
流石に彼方も手を打っている。これ以上、俺の手駒が増えないように……恨みの矛先を変えに来た。
ミュラー婦人は精神が弱っていた。夢という形で心の隙につけ込まれた被害者であるのだが、現実としては殺人罪。情状酌量の余地はあれど、事情を知らぬ輩から彼女を庇いきれない。国の中枢にも“高飛車ピエロ”事件の遺族はいるのだ。
本来、未然に防ぐべき事故だ。遺族の保護はボーンヤードに任せていたが、“例の物”を盗まれたのが痛手となった。
(くそっ……やられたか)
奪い返した本を、ミュラー夫人の目から確認し……刑事はその大半が紛い物であることを知る。表紙と僅かな中身には本物を使っているが、その殆どは別の用紙で製本し直している。
切り札を分解する奇策。分解しても機能する保証が無ければ行えない。彼方にも悪知恵が働く駒がいるようだ。
夢魔の手下が見つかったのは、既にその“物”が別の人間の手に渡った証である。あんな代物を持っていながら、カイネスと出会い命を落とした仕立屋姉弟は余程不幸な星の下に生まれたのだろう。或いは。
(“ファウストの血”)
ミュラー家の悲劇は、結局の所“ファウスト”に起因する。
本来“この時代”に存在しない者が居る。それは全てを歪めるのだ。奴に関わる人間は不幸になる。
(“奴”だけじゃない。理を外れた者――……ミディア嬢ちゃんも同様に、周りを不幸にする存在。ホムンクルスである俺も)
人を遠ざけ、なるべく関わらないよう息を潜めて生きる。それが存在してはならない者が、多くを守るための生き方。今更ミディア。彼女の半生を責めてもどうにもなるまい。彼女という歪みを生み出したのは、俺なのだ。俺がマルガレーテに関わることを避けた結果、今日の舞台が整った。
人間のように、心があれば。願いのままに生きることが出来たなら。過ぎた過去を悔やみ続ける。だからこそ。これ以上の後悔はしたくない。
ボニー=レッドは、悲しき亡霊と真正面から向き合った。悲劇はこの時代で終わらせなければならないと、固く誓いながら。
「貴方が憎むべきは、彼女では無い。彼女を操った者を恨め。その復讐ならば、代わりに私が請け負おう」
婦人には使役する霊を宿らせている。リークス氏が彼女に危害を加えようとした場合の保険だ。
「う、あ……ぐああああああああああああああああああああ!!!!」
全てを思い出した仕立屋の亡霊は、亡者と化した。取り憑いた男の身体を解放せず、婦人をめがけて襲いかかる。彼女を庇えば標的を此方に変えた。あれは見境なく人を襲う悪霊だ。復讐の協力者となってくれる可能性はあったが、彼は我が子を失ったことを怒っていない。彼の日常が、人生が奪われたことに怒り狂っている。これではカイネスを滅ぼす力にならない。
「そうか……残念だ」
刑事が煙管に触れ息を吸う。溜め息で吐き出された煙は黒へと変わり、走狗の姿を現した。
*
岩陰からフェレスは戦いを見守っていた。見ていることしか出来ない。悪魔の半身でありながら、何も出来ない自分の非力を実感させられる。
刑事が従える黒の煙は、幾つもの影になる。影は羽ばたく黒の蝶。蝶が地へと集まり大きな影へ……そうして影は、赤い瞳の獣になった。
(ブラックドッグ!?)
彼はあの煙管で、幾人もの憎しみをまとめて一つの形に変えた。悪霊となって間もないリークス氏は、とても相手にならない。勝負は一瞬で決まる。哀れな男の喉元に、死の使いたる黒犬が鋭い牙を突き立てる。
霊から血は流れないが、獣は何かを啜っている。此方の疑問に答えるよう、“硫黄だ”と彼は低く呟く。硫黄を啜られて、仕立屋主人の霊は苦しげに呻く。奪われているのは“魂”なのだ。これ以上食われたら、本当にあの人は消えてしまう。
岩場からフェレスが飛び出そうとした刹那、刑事は黒犬に“待て”の合図を出した。
「冥土の土産に、墓場の子守歌に、揺り籠の船賃代わりに。一つ、話をしてやろう仕立て屋のご主人」
薄くなった悪霊に、刑事が語ってみせたのは“真新しい昔話”。彼らにとっては“仇”である男の話。
「ご子息とご令嬢のことは本当に残念でした。……だが、奴にとってはお遊び。しかし遊びが本気なる辺り、あいつは“まとも”になって来ている。悪魔から人間に、“心”は戻りつつある」
夢魔カイネス。彼の狂気は少しずつ、穏やかになって来ていると刑事は言った。
「お坊ちゃんとお嬢さんは“使い魔”として優秀なのでしょう。奴の狂気を抑え込める使い魔はそうそう居ない。余程相性が良いんだろう」
事実の羅列も煽りに聞こえる。皮肉な真実に、霊は再び暴れ出す。すぐに黒犬が噛む力を強め、霊は動かなくなる。後一撃で彼は消滅してしまう。
(レッド刑事は何がしたいの?)
この会話に意味はあるのだろうか? 長年世話になった仕立屋の主人が苦しむ様は、心に来る。けれどここで自分が飛び出して……手心を加えて欲しいと嘆願し、彼は聞き入れてくれるだろうか?
先程の制止は、フェレスにも発せられた言葉であった。その後の言葉も恐らくは。
リークス氏への言葉は、フェレスにも聞かせようとする言葉。ボニー=レッドはフェレスからも何かを“祓う”つもりであるのだ。
「昔は酷いもんだった。“あいつ”は一時期、赤子ばかりを攫ってな。生まれて間もない子供、生まれる直前の子供――……上手くいけば母親と一緒に殺せる。一つの仕事で民を最低二人は殺せるんだ。楽な仕事だろうよ」
「マルガレーテが死ぬまで、あいつは完全に狂っていた。彼女の献身で……奴は正気の一端を。そして二人の使い魔により、まともな心を取り戻したのさ。…………さてあんたはどうだろうな、ミュラーの旦那。あんたは誰の犠牲で心を取り戻す?」
“そしてミディア嬢ちゃん”……と、フェレスは言われたような気がした。私は誰の犠牲があれば、正気の人間に戻れるのだろう。
「遺体に潜り込ませて“視た”情報を知りたいか? あんたの子が何をされたか知りたくないか!? あんたはいつまで“自分”が可哀想なんだ!? それでもてめぇは人の親か!?」
「……っ、やめて刑事さんっ!! もうやめてっ!!」
弱り切った魂が、いたぶられる様をもう見ていられない。飛び出しフェレスは刑事の背中に縋り付く。黒犬がギロリと赤い瞳を此方へ向けたが構うものかと強い力で抱きついた。
「お嬢ちゃんは下がってろ」
「旦那さんだけが悪いんじゃない。この人だって傷付いて、苦しんで――……こうして殺されてしまったのに、どうしてこの人だけを責めるの!?」
「生き残った方が悪い? 操られ手を汚した方も悪いと同じくらい罵れと? ミディア嬢ちゃんは言っているのか?」
「そうじゃありません! でも旦那さんは被害者なんです……これ以上そんな言い方はっ!」
「いい加減、目を覚ましてくれ。お嬢ちゃんは今、“誰”を庇っているんだ?」
生き残った方が悪い? 操られて手を汚した者も同じくらい罵れ? 違う。
死んでしまったから悪く言わないで。酷い目に遭ったのだから責めないで。“彼”は可哀想な人。“彼”が危害を加え続けるのは、仕方が無いことなの。
悪いのはあの女。他を選んだあの女。生き残った私は悪くないわ。手を汚した私も悪くないわ。
(何、これ――……!?)
心がざわめく。湧き上がるは負の感情。ミュラー夫人が憎くて堪らない。彼女に“誰”を重ねている? 嗚呼これは、“女王ベルカンヌ”。あの人を。
(私は、……)
憎しみの理由を自覚した時、記憶と現実の景色が重なった。目に映る景色が“今”、聞こえる場所の物とは違う。聞こえる声は現実、見える世界は過去。
(責めないで、私を責めないで)
刑事が私を呼び止める。声は確かに聞こえているのに、風景はかつてあったことを繰り返させる。過去と今、私が手にした得物に違いはあれど、私は憎い女を殺してやった。“女王”は私が殺してしまった。
赤い、赤いドレスの――……赤い、コートの?
「…………やっと起きたか、ミディア……嬢ちゃん」
(……え?)
得物を握る手は震え。身体にはやり遂げたという達成感と疲労感。女王の顔があるはずの場所には赤いコート。視線を更に上げれば吐血している刑事が見える。
ミュラー夫人を刺すはずが、彼女を庇った刑事を刺してしまった。記憶の映像を、彼が改変してしまった。
私は何て恐ろしいことをしてしまったのか。この男、余計な真似をするな。焦りと怒り。絶望と敵意。どちらが本当に今、私が感じている心なのか。彼はこんな姿になってまで、私に、私の心の境界を取り戻そうとしてくれた。
(私は、私は――……)
ミディアと呼び続けてくれる。罪ばかり重ねてきた私を、真っ新な少女の名で。彼は私がどんな悪人でも、“私”を責めないと言うのだろうか?
罵れば良い。消えろ化け物、亡霊と。貴方が私を退治してしまえば良い。貴方にはそれが出来る。それなのに。この人はどうして。
「刑事さんっ、こんなに血がっ……私の所為で!!」
「生憎、普通の人間じゃない。気にするな」
鋏で刺された脇腹を、軽く押さえながら刑事は歩いて行った。“ミディア”は慌てて後を追いかける。
刑事は黒犬の口をこじ開け、それが食事を済ませていないことを確認していた。
「残りの魂は天に昇ったらしい。手柄だな」
黒犬が食べ損なったリークス氏の僅かな魂。自己弁護から発せられた言葉でも、仕立屋の主人には“見知った少女が自分を庇った”風に見えたと刑事が語る。
「使いにもならん悪霊はこいつの餌にしかならないが、浄化され天に昇った魂はまた巡る。道化の計画の邪魔にはなったな」
刑事の浮かべる笑みから、ミディアは喜びを感じ取る。仕立屋が天に還ったことを、彼は喜んでいるのだと。そこに一役買ったのが少女であると、刑事の瞳が告げていた。
(どうしてだろう。私はこの人の邪魔をしに来たのに)
反対に、道化の邪魔をしてしまった。それなのに何故、私の心は痛まない? 私なんかが誰かを助けられたと教えられ、安らぐ気持ちは何だろう。
「あの、私――……」
ミディアが言葉を言い切る前に黒犬は辺りに弾け、白い煙と蝶に変わる。ミディアが煙に咳き込む様に、刑事は穏やかな視線を送る。
「……例え嘘でも。人を救う嘘はある。君が何者であろうとも、過去の君が何をしていようとも。今の君に、救われる奴はいるんだ」
海岸に朝日が昇る。日の出を合図に霊達は、刑事の煙管に飛び込んだ。すべての騒ぎが嘘のよう……しんとさざ波だけが聞こえる浜辺。霊が抜け倒れたミュラー夫人を目にしても、ミディアはもはや憎しみを覚えなかった。
「私――……生きていても、良いんでしょうか……?」
「……生きているだけで良い。生きてくれたらそれで良い」
泣いてしまったミディアの頭に手を置いて、ぎこちなくボニー=レッドが笑う。笑おうとして笑えない、無意識では笑えているのに。そんな刑事がおかしくて、ミディアも小さく笑う。ようやく笑えた、久々に。暗い夢の中から抜け出すことが出来たのだ。そう思うと少しだけ、胸の痛みが軽くなる。
「…………あの、刑事さん」
「……っ、伏せろっ!!」
感謝の言葉を伝えよう、ミディアが顔を上げた時。刑事の大声が響いた。
彼は触れていたミディアの頭を思い切り、下へ向かって押しつける。顔から砂浜に倒れ込み、体中砂だらけ。
(げほっ、……これは)
口に入った砂を吐き出しながら、ミディアは辺りの様子を窺い見る。自分一人が入れる程度の小さな正方形の空間。壁も天井も床も、砂で覆われていた。
(……紙切れ? “emeth”って書いてあるけど)
刑事が使った魔法だろうか? 壁や床には護符がある。霊を砂に宿らせて――……“ゴーレム化”した? 私は今、土人形の鎧の中に居る?
ミディアは知らない知識を“思い出す”。“フェレス”か“生前”の記憶かは解らなぬままに。
「レッド刑事、何があったんですか? 大丈夫ですか?」
砂壁を軽く叩いて返事を求めるが、刑事の言葉は返らない。
「甘いのよ、貴方はいつも」
代わりに帰って来たのは“女”の声だ。ミディアが仕立屋で、毎日聞いていた人の。
(女将、さん……!?)
今の声。女は刑事に言ったのだろう。しかしミディアは飛び上がる。仕事で失敗をした時でさえ言われなかった、冷たい冷たい声色に……自身が責められたように聞こえてならなかった。
(この外で、何があったの?)
刑事は彼女の中に、使役した霊を入れていたはず。思い通りに動かせた。それなのに何故、彼女が此方に牙を剥く?
ミディアが暴走し、彼女に危害を加えようとしても。ミュラー夫人……ラズイークは唯の人間で、意識を取り戻そうと恐れることしか出来ない。なのに、何故?
「肉体と霊と魂で人は作られる。貴方はこの女の魂をよくは知らなかった。肉体は本人でも、植え付けられた魂が別人であることに気付かなかった! 前例を侍らせて置いて馬鹿ねぇボニー?」
外には響く高笑い。様子が見えなくとも、刑事が劣勢であるのは解る。ミディアは砂壁の中で右往左往。無力なのは自分も同じだ。
刑事は無事なのか? 聞き耳を立て、彼の呼吸を探ろうとする。ミディアの耳が捉えるは、大きな波音。それに隠れて聞こえるは、ガサガサと衣を探る音……ギィギィと木の軋む音。
(櫂の音……舟が戻って来た?)
増える足音と声。“女”を迎えに来たのは、舟で荷物を運んだ男。彼女が人質ではないことを知っていて、事前の計画通りに回収に来た。
(あの男は、あの本は。レッド刑事を釣るための餌だった……?)
私はこれからどうなるのだろう。先程声を出してしまった。向こうの音が聞こえているなら此方の声も届いている。今更息を殺しても何にもならない。それでも無力なミディアには、息を殺す以外の選択肢は存在しない。
(レッド刑事は重傷なのかも。でも、この術がまだ解けていない。彼はまだ、死んでいない)
二人とも死んだと誤認して、“彼ら”が立ち去ってくれることを唯祈る。
増援も居る。ボニー=レッドを一撃で倒す相手に、ミディアが勝てるはずもない。
「お疲れ様でした。首尾の方は?」
「始末は出来たわ。でも、……とんだ無駄足。彼が持っていると思ったのに」
「墓場警察にないなら、錬金術師の方でしょうか?」
「でしょうね。あの方に連絡をおし」
「はっ!」
「石が繊維に化けたなんて聞かないけどね。コートは赤化した。一応親分のところに持って行こうかね」
「畏まりました。運んでおきます」
「助かるよ。ああ、それと。私、弾切れしたんだ。頭も撃っておくべきだね。流石にホムンクルスでも頭を撃てばお終いよ。私の代わりに始末しておいて。ふぁあ、疲れちゃったわ」
ミディアの祈りを嗤うよう、女は恐ろしい言葉を置いて行く。
「箱の中の子猫ちゃん、生憎その箱は。術者が死んでも消えないよ。あんたはそのまま生き埋めさ! ははははは!!」
philosophersのアナグラムを翻訳機にかけたタイトル。
次回は少し立ち直ったミディアが頑張ってくれるんじゃないでしょうか。




