20:コートチューダー大騒ぎ
村には女神様がいる。彼女は美しい仮面を付けていて、……いつも仮面は笑っている。不思議と怖くはない。目の穴から覗く瞳は慈愛に満ちていて、文字通り――……皆を見守っていた。
「何の音? こんな遅くまでまた実験しているの?」
「危ないから僕の部屋には来るなって言っただろ」
「懲りないわね貴方。前も爆発させて家を焼いたじゃないの――……長様のあの時の顔覚えてる? 敵襲かー!! って凄い装備で走って来て」
「はいはい。匿ってくれた君には頭が上がらないよ」
「物資だって限られてるんだから。私の家まで燃やさないでよ」
「家くらい、僕の秘術が完成すればすぐに御釣りが来るレベルで返してあげるよ」
卵があった。冷えて死にゆく卵があった。
卵は女神と出会い、彼女の愛を受け――……再び鼓動を刻み始める。孵化の日は近付いていた。何者にでもなれた卵は、己の可能性を一つに狭めた。いつ割られても彼は“錬金術師”として生まれるだろう。そのために生まれると、彼は既に決めていた。
「今に見てろよ! 賢者の石が完成したら、世界がひっくり返る! 女神様は絶対に死なないし、ロンダルディアだって滅びない! そうしたら――……」
「そうしたら?」
少女に顔を覗き込まれて、少年は口ごもる。少女の瞳は真っ直ぐで――……彼は本当のことを言えなかった。
「…………君みたいな小娘でも女王様になれるかもな。若い女の子は君しかいないんだから」
「……はいはい。夢があって素敵。私は王冠なんかより、まあるいドーナッツでも食べたいわ! 果物のたくさん乗ったタルトでも良いわ! 頭に乗せたら王冠みたいじゃない? でも、王冠と違って食べられるのよ? それにきっと凄く美味しいの」
少年の本棚から、少女は古書を取り出して――……菓子の図版を指さした。お腹いっぱい美味しい物が食べたい。少女の夢を叶えてやりたいと思いながら、そんな願いも叶わぬ今に少年は苛立った。
「あんまりはしゃぐなよ。まだ病み上がりなんだ。血を抜かれて疲れてるだろ?」
「あ、ごめんなさい……でも、大丈夫。私もみんなも。貴方のおかげよ。貴方が“錬金術”の研究を始めてから、誰も殺されていない。やっぱり貴方は“幸運の子”なんだわ!」
名前に力があるのなら、何を思って両親は僕にその名を授けたのか。病で失った両親に代わり、自分を育ててくれた村人達――……皆が少年にとっては大事な家族。家族の中で唯一の他人が、女神とこの少女。二人はとても……特別だった。
(賢者の石には不老不死の力がある)
呪いが始まる年齢まで――……残された時間は少ない。最後の子供である自分達が生き延びるには、時を止める必要がある。これ以上、年を重ねてはいけない。
(僕は間に合わなくてもいい。でもせめて彼女は。彼女の十四歳の誕生日が来る前に――……賢者の石を完成させなければ)
完成しない研究に少年が苦悩する中、少女も苦しんでいた。彼の研究を支える力がどうして自分にはないのかと。だから少女はいつも、笑うのだ。彼の心だけは支えられるようになりたいと。
「賢者の石が完成しなくても、貴方は十分……村のみんなを助けてくれている。本当は長もあの事件を知っていたけど……影では嬉しそうに笑っていたのよ? 次は国境にあいつの家を作ってみるかなんて」
「なるほど。僕の爆発で敵が死ぬと。いいね。石が完成したら、次は地雷研究でも始めようか」
「ええー! 美味しいケーキの研究にして!」
物騒な話題で一時の現実逃避。二人は笑い合う。
「でも本当に凄いわ。絵本の中の魔法使いみたい! 貴方は本当に何でも出来るのね」
「出来たら苦労しない。あんなもの、非科学的な言葉の魔法。呪いの有効活用だよ」
今は外で殺し合いが起きている。共通の敵が居る人間達は強く残虐だが、綻びが生じれば足並み揃わず潰し合う。時間稼ぎと戦力削りには有効的な手だ。
“呪われた民を殺せば、自らも呪われた民になる”
力のない言葉。襲撃者を生かし帰して、呪いの言葉を解き放つ。大元が夢魔の呪いなら、魘されるくらい強烈な呪いを此方も掛けてやる。それで本当に魘されれば、言えずに追い詰められた人間が凶行を行い討たれる。討たれた者の身体には……呪いの言葉が彫られてあって、殺した奴らがぞっとする。あの村に手を出してはならないと。
やがて連中は、呪われた村の自然消滅を願い囲い込む。直接的には殺せない。間接的に殺したい。四方からじりじりと追い込んで、狭い土地に閉じ込めて……物資を与えず飢え死にさせるが目的だ。
「錬金術より、錬芋術とか錬麦術……錬米術。錬酒術……みんなそんなのばっかり頼みに来て困るよ」
「栄養剤と防虫剤、除草剤作って収穫増やしたって聞いた」
「研究の……副産物」
そう、副産物は既にある。材料が足りないから数は多くは作れないが――……。失敗ではなく、狙って爆発させることも。
「どうしたの? 溜め息なんか吐いて……わ、私! 錬ケーキ術なんか頼んでないよ!?」
「星でも降って来ないかな」
「星?」
「宙に満ちている元素。エーテルは賢者の石と同じ物だって話があって。今の物資と設備で僕は宇宙には行けないから、星が落ちて来ないかなって。隕石には第五元素が少し付着しているかもしれないだろ?」
「でも貴方、とってもつまらなそうな顔してる」
「神様に願って星を降らせて貰うより、自分の力で賢者の石を作った方が――……格好いいじゃないか。と言うより、女神様はいるけど他の神様は彼女を助けてくれないだろ? それなら祈って星を降らせる神様なんていない。だから僕がやるしかないんだ」
ちょっとした現実逃避だと少年が呟いた直後、薄暗い室内には少女の歓声が響いた。
「ねぇねぇちょっと! 凄いわ凄いわ!! 窓の外!! 星よ!! 星が降ってるわ! あれって、国境の方じゃない?」
夜空に光る流れ星。赤く輝く星はぐんぐん地表へ近付いて、山の中へと落ちて行く。
「嘘だろ……?」
あの大きさの星が落ちたなら、辺り一帯は消し飛んでいる。それに、衝突の音も聞こえないとは何事だ?
「グレーテ、僕の頬をつねってくれ」
「貴方そういう趣味が……」
「心が痛い。どうやら夢じゃなさそうだ」
少年は自身の顔を抓りながら頷いた。鉱物は錬金術の材料に使える。一度に採取出来なくとも、落ちた場所が解ればしばらく研究に困らない。
女神様にお伺いを立てに行こう。星を取りに行っても良いかと聞こう。それは必ず村の……国のためになるからと。
星を見た少年は、すぐさま長の家へ行き……女神へのお目通りを願う。そのはずが、既に女神は待っていた。病に伏せた身体を無理矢理起こし、共に連れられていたのだ。
“国境を越えなさい。今すぐに逃げるのです”
「……ロンダルディカ、様?」
“それから。二度とここには戻ってきてはいけません。我らの王国は――……私達の内にあるのです。それを忘れずに…………どうか、生きなさい”
紙に綴られた女神の言葉は、彼らにその“時”を告げていた。これ以上、時間稼ぎは叶わぬと。
*
一つ目の星は、二人以外の誰にも見えていなかった。
二発目からの星は、大きな音でうなり弾けた。外の人間は、悪意を持って人を介さず村を焼く方法を見い出した。もはや一刻の猶予もない。
「もう少し……もう少しだよグレーテ!!」
「う、うん……行こう、フォース!」
温かな手。彼女の手を引き僕は走った。決して後ろは振り返らない。二人だけの声が聞こえるように、誰に悲鳴も聞こえぬように。二人の名前を呼び合って……暗い夜を駆け抜ける。
少年と少女は、ロンダルディアの最後の子供。若い二人が遠く逃げおおせ――……ひっそりと血を繋いでいくことを、村人達は願った。二人を逃がすため、反対側で暴動を起こし囮となった老人もいる。
彼らの犠牲を踏み越えて……二人はもうすぐ国境を越える所だ。小さな小さな王国の、境界を越え二人は自由になる。呪われた王国、ロンダルディア。人口が減り国土を失い――……今や小さな村一つ。それが彼らの王国だった。
「馬鹿っ! 何してるんだっ!」
「ご、ごめん…………。あ、あはは。ね、……フォ、ス。“ロンダル、ディカ”様…………ちゃん、と。逃げ、られ……た、かな?」
何に足を取られたのか。少女がその場に転倒。手を繋いでいた少年も巻き添えに。
思わず怒鳴った後に、少年は己の非に気付く。少女はもう体力の限界だった。少年は小さく舌打ちをして少女を背負う。そうしてまた、死に物狂いで走り出す。
「知らないよ! でも大丈夫だ! 神様なんだ……誰かが、僕らが信じてやれば死なない!! お守りだって無事なんだ!!」
少年の首には紐がある。胸へと触れる黄金の指輪。ロンダルディアの国章が刻まれた宝。少年は元々、指輪の所有者ではない。
これは、他人からの借り物だ。幸運のお守りとして貸し与えられた宝物だ。
“貴方ならきっと大丈夫”
“貴方の力は、夢魔にも負けない”
“どうかこの子を、守ってあげて”
“二人で強く生きるの。私の愛しい、子供達。私は一緒に行けないけれど――……いつも見守っています”
言葉の喋れない女神様。貰った手紙は宝物。優しい文字は力となって、少年に勇気を与える。
村を出る前、二人は女神に抱き締められた。少女が持つ指輪と同じ物を女神は少年へと託し、いつか彼らかその子孫が自分に戻すよう……再会を祈った。どんなに傷付いても、民さえいれば。信じられれば、寓意女神は滅びない。彼女も別の道から脱出する。計画ではそう聞いていた。
今最も重要なのは、自分たちが生き延びること。別の国に紛れ込み、息を殺して生きること。
落ちた星は今も輝き、此方へ来いと誘い続ける。それは奇しくも女神に言われた国境方面。光のもとまで走ったならば、助かるような思い込み。希望を感じさせる光。
そう考えでもしなければ、少年はとても走れない。大事な故郷に背を向け二人きりで逃げるなど。少女を背負い、速度の低下した走り。全速力のつもりでも、確実に進む時間は遅くなる。それでも足を動かせば、光が強くなって来るのが救い。
(賢者の石が完成したら、今死んだ人達だって……僕は生き返らせられる。賢者の石が完成したら――……あいつだって滅ぼせる!)
村の資源では黒化までが限界だったが、外に出た。星からも材料を入手できればすぐにでも。自身のプライドも捨てる。どんなに情けなくとも惨めでも。何者かに祈り縋っても良い。それで“石”が出来るなら。
少年は夢を見た。先へと足を踏み出す度に、幾つもの夢を見る。
(グレーテを安全なところに隠して、僕が錬金術で道化を殺す。そうすれば、生き延びたみんなだって――……村を出て暮らしていけるはずなんだ!)
道化さえ滅ぼせば。外の人々も目を覚ましてくれる。僕らを呪われた民など言わない。きっと受け入れて貰える。この世に“神”は存在する。優しい女神がいるように、もっと大いなる存在が何処かにいて。今は……“夢”に囚われていて、僕らを助けられないだけ。高飛車ピエロさえ消えたなら。全ての悪夢は終わるのだ。主が作り出した世界が、人間が――……本当に愚かであるはずがない。
「へぇ。夢なんか見ていいんですか? 優しいねぇ、“フォスタス”君?」
耳元でおぞましい男の声。ぞわと全身に震えが走る。
「ひっ!!」
振り向いた少年は、ぎょっと目を見開いた。背負っていたのはいつの間にか、少女から青年に姿形を変えていた。
疲れていたのは自分もか。何処かで眠ってしまった。だから“夢魔”の領域に迷い込んだ。
「出て行け悪魔っ!」
痛みで夢から目覚めよう。少年は懐のナイフを手に取って、迷わず己の手を傷付けた。恐怖を一瞬で退けた少年に、道化は敬意を示すよう――……軽薄な笑みと拍手を送る。
「その位じゃ駄目さ。もっと強く思い切りやってみたらどうだい? 手伝ってあげるよ」
「ぐぅっ……」
地面に掌を縫い付けるよう、背中を降りた道化がナイフを深く深く押し込んだ。
「おや、君は見所があるねフォスタス。ほら御覧? 君の目が開いて来た。向こうの景色が見えてきた。飛び込めば帰れるかもしれない。鏡の向こうは現実だ。疲労困憊で、眠りに落ちて意識も失いながら――……現実の君はまだ走り続けている」
鏡なんて何処にある? 僕らは野山を夜通し走っていたのに。鏡なんて存在しない。民家の窓ガラスだって傍にはない。けれども道化は上を指差して、今一度「御覧」と微笑んだ。
「可哀想に。寒かっただろう? 君の手はとても冷たい。泉も川も水たまりも――……凍って眠りについている。ああ。君の背丈じゃ届かないね」
頭上を駆けていく自身の足。意識がないままふらふらと……あのままでは危ない。崖から落ちたらお終いだ。早く目覚めなければ。少年は飛び跳ね頭上に手を伸ばす。せめて片手が届いたら。
「フォース! しっかりして!」
「ぐ、グレーテ!?」
「ほら、私の方が背丈はちょっぴりお姉さんなのよ。私がおんぶしたら貴方の手は届くでしょう? 先に貴方が上へ上がって――……それから私を、引き上げて」
幾らか眠れたのだろう。夢で出会った彼女はすっかり元気になっていた。有無を言わせず少年を……水たまりへと押し上げて、氷を割って少年の意識は現へと帰る。
「グレーテ!?」
今君を引き上げる。でもどうやって手を伸ばしたら良いんだ? 少年は辺りを見回し意識が抜け出た水たまりを探す。何処かにあるはずだ。ひびが入って見えるもの――……そこが夢への入り口だ。
「逃げ水って知ってるかい、フォスタス?」
夢から覚めたはずなのに、耳元で夢魔の声。此方を嘲笑う化け物は、道の先を指差し「あれだよ」と言う。
「嘘、だ――……だって今は、冬――……」
歩いても、走っても。決して追いつけない水鏡。あの中に彼女の意識が取り残されている!
背負った彼女を下ろして起きろと何度も身体を揺さぶるが、少女は何も答えない。寝息の一つ、零さない。
「最近は気候もおかしいからね。有り体に言うと国が人神の形を取るなら、季節の人神がいてもおかしくはない。それとも……今が冬だと思っていたのも、全部君の夢だった? あはははは! 君達には運がなかったのさ」
「…………何を、した。化け物!!」
「残念だけど……君たちは夢を見た。“幸せな未来”を夢に見た。僕は夢魔だから、夢に干渉できるんだ。君たちは可愛いから特別に教えてあげようね。僕から逃げ切るためには、二つの夢を捨てなきゃ駄目だ。眠ったままで見る夢と、目を開け願う夢の二つを捨てなきゃね」
絶望したら心は悪夢に囚われる。希望を持って生を願えば、目標という“夢”に囚われる。夢魔の呪いは成就する。
「君の力は厄介だからね。出来ることなら始末したかったのだけれども――……良かったね“フォスタス”、どうやら君は移民だ。ロンダルディアの血も混ざっていない。僕に君が殺せなかったのはそういう訳さ。呪われていない君と一緒なら、彼女の気配も薄まって――……僕から逃れられると“夢”見たんだろうねあの生き残り共は」
「待て、村のみんなは……グレーテは、グレートヒェンはっ!?」
「いい加減起きたら良いよ、幸運な少年。僕が見えなくなれば良い。そうすれば……君は全てが目に入る」
パチンと道化は指を鳴らして。奇術の仕掛けをするように……少年の意識を完全に現へ突き放す。
「グレー、テ?」
少年は、少女を揺すり続けていた。起きろ起きろとその肩を。頬を打つことは出来ない。出来なかった。少女にはもう、首がなかった。
嗅ぎ慣れた薬品の臭い。夢魔を背から降ろした時に、現実で降ろされていたのは“誰”? 指を鳴らされた時、目覚めた理由。近くで大きな音がしたからでは?
夢魔は少年を操ることが出来ようとも、彼のことを殺せなかった。お前はロンダルディアの民ではない。国を民をどれだけ愛そうとも、一滴も愛した国の血が流れないお前には、同胞と共に滅ぶことも出来ない異邦人。高飛車ピエロの呪いが及ばない、……幸せな部外者。
(嘘だ……嘘だっ!! 僕はっ……僕は…………!!)
悪魔は嘘を吐かなかった。それが何より残酷な現実だった。
*
時間よ凍れ。少年は願った。
悪魔は問いかけた。凍るだけで良いのかと。
*
記録は記録。事実の羅列。失われた情報は。残されなかった情報は読み返せない。記録の中に少女の名前はあれど、彼女の容姿も声も――……はっきりとは再生できない。かつては記憶された情報。今は移ろい信憑性のない情報。事実は事実。彼女が失われたという、覆さない事実のみ。そして。
「ひでー顔だな、ファウストの旦那!」
「そういうお前はお楽しみだったようだな、メフィス」
「まぁな。あーあ! 折角すげー身体になったってのに!! あの女絶対許さねぇ!! どうにかして上手く料理して、美味しく食らい尽くしてやらねぇと」
朝から騒がしい悪魔を放置し、錬金術師は枕の下からある物を取り出した。
何年何月何日に、誰に何があったのか。事実だけを書き記した味家のない日記を鞄にしまう。毎朝の日課だ。どの記録を見るかはランダムに設定している。その方が“夢”らしさは出るだろう。
嗚呼、昨晩は懐かしい“記録”を見た。……姿形こそ変わったが、あの日出会った悪魔は今も傍に居る。否、居させているが正確か。
「あれの魔力は私が奪ったのです。私を食えば姿は元に戻りますよ」
「あ、そうか! やっぱ頭いいなファウスト。それでこそ未来の食糧件下僕…………ん?」
身支度を行いながら教えてやると、悪魔は謎の威張り顔。凄い配下を見つけた自分凄いの境地だろうか。弱体化した悪魔は昔より知能指数も低下している。朝だと多少寝ぼけてもいる。いや、早朝まで盛り上がった寝不足からか。
永遠を生きる者に、人間の一生など瞬き一つの短さなのだが、時間旅行の経過に伴い悪魔は睡眠を取るようになった。弱体化ではなく、人間の生活に身体が慣れて来たのだろう。
「さてメフィス。今日の最初の仕事だ。陛下の着替えを手伝ってやってくれ。今日の衣装は用意した」
「ふぁあ……朝から人使いが荒いおっさんだぜ」
欠伸と不平を吐いた後、悪魔は壁の向こうへ消えて行く。暫くすると再び顔を覗かせて悪魔は首を横へ振り、扉の方を見ろと言う。錬金術師の取った部屋の前には、既に身支度を調えた少女が立っていた。
「おや陛下、一晩の内に美しさに磨きが掛かりましたね。彼らとの出会いが、貴女をそこまで成長させたのでしょうか?」
ノックをしようと言う時に、扉が開いてこのご挨拶。ルベカは此方を少々気味悪がっている。
「おはようファウストさん。今日もお元気そうね。私にお世辞は良いわ。それより例の奴らの手掛かりは?」
“彼女”の部屋から戻ったか。夜が明けるまで戻らないとは。記録の再生は予想以上に時間が掛かる。それとも“余計な記録”まで彼女が覗いてしまったか?
(見る限り……特に問題はなさそうだ)
少女の美貌は、昨晩よりも明らかに……迫力が増している。生まれは卑しい少女でも、魂が持つ誇りを彼女は取り戻しつつある。彼女の正体を知り、離れられなかったのだろう。自分のことだけで手一杯だった少女が、他者を労る余裕を持った。悪くない。ルベカの件は順調。ファウストは満足気に頷いた。
「心得ております。ひとまず部屋へお入り下さい」
ルベカを部屋へと招き、扉へ施錠。付近に人が居ないことを悪魔に確認させた後、ファウストは話を再開させた。
「例の件ですが……昨晩、会場に放った使い魔共が耳寄りな話を持ち帰りました。盗まれた指輪と同じ物を見たと言う男がおりまして。男は鑑定士……彼の店に幾らの値が付くと、数日前に指輪を見せに来た男がいたと。現在、使い魔共に捜索をさせております」
「……そう。“あの子”を連れ帰れば王国は持ち直せる?」
「いいえ、心臓がない身体が歩いているからこそ、致命傷を喰らわずに済んでいる。王国はまだ滅びない。今の状態で彼女が戻れば、その日がロンダルディアの終焉となりましょう」
「私が奴との賭けに勝ったとしても?」
「勝って救えるのは、少年一人の魂です。夢から目覚めたところで、人の本性は変わりません。奴の支配を逃れても、救いようのない人間は幾らでも。貴女がそれで良いのなら、彼女の件は捨て置けば良い。目的に、近付くためにと割り切りなさい」
諭すよう言い聞かせ、ファウストは少女を苦しめる。今少女に必要なのは、同情でも労りでもない。孵化を待つ卵には、ありとあらゆる試練を与える。“第五元素”……“塩”の抽出には優しさは必要ない。
「……ファウストさん。色々考えたけど、あのね。私、私のことが大好きなの。私は私に自信があるわ。でもその自信って、努力の裏付けだと思うの。努力は必ずしも報われないけれど、頑張った分自分は自分を好きになれるのよ」
昨日の少女は「考える」と口にした。しかし記録に触れた少女は、一つの段階を越えていた。此方を見上げる眼差しに迷いはない。言葉は自身の意思を、しっかり表明する強さ。
「愛にも様々な形がありますな。恋愛以外の愛も勿論。貴女は奴と賭けをした。他の者に心を割く時点で貴女の負けと解釈される可能性もある」
「あいつはそんなことはしないわ。記録に触れて解ったの。彼が確かめたいのは、そんなことじゃない。むしろ、私が“彼女”を見捨てたら、その方が幻滅して何をしでかすか。ううん、それ以前によ。私が私を嫌いになりそう。私が好きになれない私を。仮面を付けたままの私を、私が愛する人に愛されたって……何も嬉しくないじゃない」
賭けに負けてしまうとルベカは言った。思い続けることが出来なくなる。それは、自分自身の問題により。賭けを続けるためにも“女神”は見捨てられないと。
「――……訂正しましょう、陛下。美しくではありませんでした。貴女は――……お強くなられました」
錬金術師の言葉に少女は少し驚いた後、奇妙なことに笑い出す。
「何か? おかしな事を言った覚えはありませんが」
「ふふふ、何でもないわ。貴方、たまには鏡を見た方が良いわよ。“貴方、そんな風にも笑えるんじゃない”」
(私が、笑う?)
極力表情筋を変えないよう、そのままの顔を維持して見つめる少女の目。なるほど、映る私は微笑んでいた。演技でも嘘でもない。仮面を外した笑い方。マルガレーテさえ知らない素顔。こんな顔を、かつて私が向けたのは――……。
「“ルベカ嬢”、今日は此方に着替えて頂きたい。一度隣室へお戻り下さい、必要があればメフィスに声を」
用意した衣装を少女に押しつけ、彼女を部屋の外へと追いやった。二人きりになってから、取り乱した男の顔を悪魔は不審がり覗き込む。男の動揺は悪魔にも伝わって、今度は悪魔が取り乱す。
「ファウスト!! いつからだ!? お前、何処に隠した!?」
突然何を言い出すのやら。大声で怒鳴り散らす悪魔を前に、錬金術師は冷静になる。鍵と一緒に室内には結界を張っていて助かった。何を話そうと少女に盗み聞かれることはない。
「……私が、何を隠したと?」
「匂いはするのによく見えない。昨日まではあったのに!! 幾ら簡単に食わせたくねぇからって、身体から切り離して隠す奴があるかよ」
「メフィス、今何と!?」
「“魂”だよ。魂。知りませんって? 下手な演技しやがって。隠したのはお前なんだろう!? 道化と会う前に万が一を恐れての判断か!?」
魂を隠した? 盗ませた? そんな記憶も記録も覚えがない。しかし、ファウストは一つの仮説を思い付く。金属は形を変え巡り、死と生を繰り返す。否、金属だけに限らない。人も金属も――……全ては元素で作られる。錬金術にも輪廻転生の概念はある。だからこそ、ミディアには“あの女”の魂を使おうと思い付いた。
女王ベルカンヌとお針子ルベカ。この目で巡る魂を確認している。流転が彼女に限った話でないのも重々承知。無論、己の魂が新品だとは当然思っていなかった。しかし……
「メフィス。もしルベカ嬢が女王ベルカンヌの時代に行ったらどうなる」
「あ!? ……っち。お前が関係ない話をする訳がねぇな。最初はルベカが魂なしだ。だが近付くと女王から魂が抜けるな。未来の魂の持ち主がその場にいるんだ。魂の所有者が変わり、女王は過去の人間になる。…………おい、クソファウスト、お前まさか!?」
女王を手に入れたこのタイミングで。良かったと言うべきか、最悪と言うべきかまだ解らない。だが、この時代は鬼門かつ好機である。
「どうやらメフィスこの時代、この街に…………過去の私がいる。いや、“来た”のだ」
「馬鹿言うな。お前はこの時代のここに飛んだことはない」
「ああ。理解していますとも。つまり……ルベカ嬢にとってのベルカンヌ。私のそれがいるのです。もしもその相手が、我々と敵対する者であるのなら。面白いことになるとは思いませんか? 近付けば、私はその者を無力化させられる」
「さ、最悪だ――……」
「最高の間違いだろう?」
「嗚呼そうだ。お前はそういう奴だった!! だがな、俺はただ働きはご免だぜ!?」
「例外についても決めただろう? 契約通り、その時は私の被造物らを差し出そう。ボニーも魂を手に入れたようだしな」
「馬鹿なこと言うなよ。お前……解ってるんだろう? そうなる前にそいつの魂がどうにかなればお前は――……!」
「ええ。私を食べるのは貴方でしょう“メフィストフェレス”? ですから期待していますよ。それまで貴方がちゃんと守ってくれることをね」
予告まで話が進みませんでした。ふぁうすと回。
伏線ばら蒔くのは楽しいです。忘れる前に回収したいので早めに書きます。
今回はDoctor Faustus のアナグラム(を翻訳にぶち込む)。
Coat Tudor Fuss コートチューダー大騒ぎ
Cats Outdo Furs 猫は毛皮をしのぐ
Coat Dust Fours コートダストフォース
がタイトル候補。




