第一話 氷公爵との契約婚約
死んだ。
それがリナの最初の思考だった。正確には、ブラック企業で過労死して、気づいたら別の体に入っていた、という状況だ。
鏡の中の少女は見覚えがない。銀色がかった黒髪、紫がかった灰色の瞳、どこか不機嫌そうに結ばれた口元。美しいと言えば美しいが、笑っていない。
記憶が流れ込んでくるのに、少し時間がかかった。
この体の名前はリリアナ・フォン・アッシェンベルク。男爵令嬢。現在十七歳。そして──前世の記憶の中の乙女ゲームに登場する悪役令嬢だ。
リナは鏡の中の自分を見つめて、静かにため息をついた。
前世でやりこんだあのゲームでは、リリアナは傲慢で冷淡な嫌がらせ要員で、ルート終盤に婚約破棄されて追放されるか、最悪の場合は投獄されるかのどちらかだった。
だが、問題はそこではない。
問題は、今朝届いた手紙だ。
差出人は王宮。内容は一言で言えば、「氷公爵シュトラウス・ヴァン・ノルトの花嫁候補として宮廷に出頭せよ」というものだった。
シュトラウス・ヴァン・ノルト。
ゲームのメインルートにおいて、攻略対象ですらない人物。ヒロインの恋路にはほぼ関わらず、ただ遠い背景として存在している、王国で最も権力を持つ公爵家の嫡男。冷酷、無愛想、笑わない、と三拍子そろっている。その上、彼の婚約候補として名前が挙がった令嬢たちは、ことごとく数ヶ月以内に辞退するか、精神的に消耗して社交界から姿を消している。
リリアナはゲームの中で彼と二言三言しか会話しない。
それがリナの知っているすべてだ。
「まあ」とリナは鏡に向かって言った。「どうせ断られるでしょ」
リリアナは悪役令嬢だ。傲慢で有名で、前世の記憶が入る前に積み重ねてきた評判は最悪だ。シュトラウス公爵が正気なら、すぐ断るはずだ。
ところが。
◇
王宮の謁見室には緊張感が満ちていた。
リナ──いや、リリアナ──は侍女に言われた通り正装して、言われた通りの位置に立って、これから会う相手のことを頭の中で整理しようとしていた。
扉が開いた。
入ってきた男を見て、リリアナは内心で「なるほど」と思った。
氷公爵、という通り名は正確だった。背が高く、肩幅があり、表情というものが存在しない顔をしている。黒髪に、暗い灰色の瞳。整いすぎた顔立ちは美しいというより、彫刻に近い。生きているが、熱を持っていない。
彼はリリアナを一瞥し、すぐに視線を外した。
隣の侍従に何事かを耳打ちする。侍従がこちらに来た。
「フォン・アッシェンベルク令嬢。公爵閣下より話がございます」
リリアナは一歩前に出た。「はい」
シュトラウスが直接こちらを向いた。「契約の話をしたい」
「契約、でございますか」
「婚約だ。ただし、名目上の。実質的な夫婦関係は必要としない。私には婚約者が必要で、あなたには社交界での立場が必要だ。条件が合うなら話を進める」
リリアナは、この男を三秒見つめた。
前置きもなく、感情もなく、ただ取引として提示してくる。
リナの前世の感覚が言った。これはわかりやすい人だ。
「条件を聞かせてください」とリリアナは言った。




