九
九 コーヒーとジャムケーキ
晃政さんと北条様は仕事の話があるようで、応接室にいた。
「ねえ、お姉ちゃん、おじさんにジャムケーキ出してあげて?」
進がねだった。
「でも、来客ですよ。このジャムケーキは家庭料理ですしね?」
馨は料理長と史恵に尋ねる。
「砂糖衣をかければ、立派なお茶菓子ですよ。味は保証します」
料理長は太鼓判を押す。
「きっと旦那様と北条様は驚かれますよ。北条様は、帝都にいくつか喫茶店を経営されているんですよ」
史恵が説明した。
「コーヒーっておいしいのですか?」
馨はまだコーヒーを飲んだことがなかった。
「香ばしい香りが素晴らしい、黒い飲み物です。特徴的なのは、香りと苦みですね。昔、上野にあった可否茶館はご存じですか? コーヒーを飲みながら人々が集い、話し合うというサロンのようなところです。最近では銀座のカフェー・シャンゼリゼが有名です」
「ええ、カフェー・シャンゼリゼですか」
ふとカフェー・シャンゼリゼの料理長を思い出す。
北条さんはあそこのオーナーなのね。
「画家の松山省三先生が、パリのカフェに憧れて作ったらしいんです。コーヒーやグラタン、焼きサンドイッチなど出しているようですよ」
「これからコーヒーを淹れるので、馨様もご一緒に飲まれてはいかがですか?」
料理長が馨を誘った。
「僕も飲む!」
進が手を挙げた。
「坊ちゃまは薄いコーヒーに牛乳、砂糖をいれてカフェオレにしましょう」
料理長は笑った。
「うん! お姉ちゃん、コーヒー美味しいから、飲んでごらんよ。ジャムケーキと食べたら絶対美味しいよ。おやつに食べようよ」
進が勧める。
「ええ、ぜひとも。教えてください。晃政さんと進くんのためにもコーヒーの淹れ方をマスターしたいです」
馨は目を輝かせた。
料理長はコーヒー豆を取り出した。
「まず、コーヒー豆を粉にします。焙煎したコーヒー豆を粉々にすることで味と香りを引き出します。鍋で粉を煮て濾すという方法もありますが、以前北条様より河野式茶琲サイフオンを頂いたので、こちらを使いましょう」
料理長は医療器具のようなガラスのフラスコを取り出した。
「こちらは最近売りに出された、コーヒーをつくる器械です。使い方は簡単です。
ロートにコーヒーの粉を入れて、フラスコに水をいれてからアルコールランプに火をつけます。蒸気によって、お湯が上部のロートへ上がっていきますよ」
「面白いよ。僕、サイフォン見るの好きなの」
進はじっとコーヒーの器械をみる。
「すごく強い甘い香りね。いい香り」
馨はうっとりする。
「木べらで、コーヒーの粉とお湯を混ぜて……、アルコールランプを外すと、お湯が冷めて、コーヒーとなってフラスコに戻ってきますよ」
「化学の実験みたいですね」
「料理は足したり、引いたりしますから、化学といえるかもしれません。フィルターで、粉は取り除かれています。これで雑味のない、コーヒー本来の味がします」
料理長はほほ笑んで、小さなカップに少量注ぐ。
「試飲してください」
「綺麗だわ。透明感のある、深いこげ茶なのね」
うっとりするくらい、魅惑的な香りがする。
「少し苦いけれど、飲めないほどではないかも。なんだか目が冴えてきたわ」
「そうでしょう?」
嬉しそうな料理長だ。
「早く、僕にも頂戴」
「はいはい、では史恵がカフェオレを作りましょう」
史恵が進用のカップを出す。
「コーヒーが熱いうちにお客様にお出ししないといけません。馨様、お茶出しをお願いできますか?」
「もちろんです」
馨は大きく頷いた。
「失礼します」
応接室のドアを開けると、晃政が嬉しそうな顔をした。
北条昭一も生温い笑みを浮かべている。
「先ほどはお見苦しいところをお見せしました。申し訳ございません」
馨は恥ずかしそうに頭を下げた。
「晃政とうまくいってそうでよかったよ。周りも煩いし、早く所帯を持った方がいいからね。それはコーヒーかい。嬉しいな。一日一回はコーヒーを飲みたいんだ」
昭一はお盆の上のカップを見た。
「いい香りだね。お茶菓子はなんだい?」
晃政が期待した目をしている。
「お茶菓子って、晃政くんはおやつを食べるのか?」
昭一は呆れた。
「最近はね、おやつが楽しみなんだ。なんてたって、馨さんの手作りなんだよ。美味しいんだ」
晃政が笑顔になる。
「今日は進くんと作った、ジャムケーキです。砂糖衣がかかっている方はジャムをはさみ、もう一つはカスターソースを冷やしたものをかけてあります」
褒められて、馨は耳まで赤くなる。
「これは売っているものみたいだ。見事だね」
昭一は唸った。
「そうだろう? 馨はとっても料理がうまいんだ。それに、子どもに好かれる。進の好き嫌いがなくなったしね」
晃政が自慢する。
「いちごジャムがカステラにはさんであるね? もしかすると、いちごジャムも手作りかい? 甘酸っぱくて味にいちごのいい香りがする」
「美味いなあ。コーヒーの苦い味にあう」
晃政は二つ目のカスターソースがかかったケーキにフォークをいれた。
「これはラム酒風味の、大人の味だ。カスターソースが贅沢だね。君の家でこんなにうまいものを食わせてもらえるとは思わなかったよ」
昭一が唸り声をあげた。
「そうだろう?」
晃政は鼻高々だ。
進くんにも大好評だったと伝えてあげよう。
馨は嬉しくなった。
「コーヒーにも紅茶にも合うしいいね。うちのシェフに作らせてみよう」
「ラム酒でなくても……、セリー酒でも美味しいですよ。進くん用には砂糖水にレモン汁を加えたものを染み込ませました」
「馨さん、お願いがある。このレシピを教えてほしいんだが」
「え? 普通のおやつですけれど」
「季節の洋菓子として店に出そうと思う。中のジャムを変えてもいいし、アイスクリームを添えてもいいじゃないか?」
昭一は目を輝かせた。
「一緒に作った料理長に聞いてきてもよろしいですか?」
馨は急いでキッチンへ急いだ。
「料理長! ジャムケーキのレシピって、北条様にお教えしても構いませんか?」
「もちろん。元々は奥様のレシピですから、奥様がよければよろしいですよ。砂糖衣の配分もいっしょにお渡しください」
料理長はほほ笑む。
「これ、美味しいもんね」
唇の周りに砂糖衣をくつけながら、進はもう一つ食べようと手を伸ばしていた。




