八
八 佳子襲来
窓の外はどんよりとした雲しか見えない。
木の葉が翻っていることから、風も強そうだ。
「嫌な天気ね」
馨はつぶやく。
「お姉ちゃん!」
進が手を振った。庭師といっしょにいて、トマトを植えている最中らしい。片手に苗を持って、長靴を履いている。
玄関を見ると人力車が止まっていた。
耳を澄ますと、一階から興奮している声が聞こえた。
「どうしたの?」
通りかかった君代に聞く。
「来客ですが、このお客様はこちらで対応しますから、馨様はお部屋にいらしてくださいね」
「……はい」
君代に強く言われ、馨は首をひねった。
誰かしら。
自室のドアをそっと開けると、
「どうして馨に会わせてくれないの」
大声で話す声が飛んできた。
あの声はお義母様だ。
馨の体がびくっとした。
「旦那様から通すなと言いつかっております」
「私の姉なのよ? どうして会ったらいけないのよ?」
ヒステリックな佳子の声もした。
「そのように言われております。お通しできません」
史恵は二人を通さないように前に出る。
「どきなさいよ」
三保子が史恵を押した。
「あっ」
史恵はバランスを崩して倒れる。
「お母さん、大丈夫?」
君代は駆け寄った。
「邪魔よ。使用人のしつけもなってないわ。入らせてもらいますからね」
三保子は帽子を外した。
高級そうな、つばの大きい帽子だ。
「そこのあなた、帽子を預かってくれない? 新作を買ったばかりなの。よごさないでね」
三保子は君代を見下げた。
佳子も帽子を差し出す。
ドレスと帽子は同じ布地でできている。きっとオーダーメイドなんだろう。
なんて無駄遣いをしたの。
芳川家の財政を考えると、ため息をつきたくなった。
でも、私はもう芳川家の人間ではなかった。
平野家の人間としてしっかりしないと。晃政さんが会わせないようにしてくれたけど、それではいけない。
「何の用事ですか? 史恵さんや君代さんになんてことしてくれるんですか」
馨は前に立ちはだかった。
「いるじゃない。馨、さっさと出てきなさいよ」
三保子は扇子をパチンと閉じた。
「旦那様から芳川の人間にはもう会うなと言われておりますので」
馨は強く反論する。
「あなたには、意思ってないの? さっきから旦那様、旦那様って。ああ、次の寄生先は平野家だから、いうことを聞かないといけないってこと? まだ結婚もしていないじゃない。私たちがあなたを育ててあげたことを忘れたの?」
三保子は意地悪な顔をする。
「そんな言い方、ひどいじゃありませんか。馨様はもうこちらの立派な奥様です。婚約してこちらでお暮しいただいておりますから」
史恵がきっと睨む。
「まだ結婚していないから、奥様じゃないわよ」
佳子が笑った。
「やっぱり平野家は金回りがいいのね。美しい玄関ね。素敵だわ。うちも西洋式の屋敷にしたらどうかしらね」
三保子はぐるりと周りをみる。
「ほんとね。お母様、うちの家は修理したけれども、建て直したら? 今度は洋館がいいと思うの」
「馨に佳子の嫁入りの支度金と、実家を建て替えるお金も用立ててもらいましょう。できるわよね? 妹の幸せのため、実家の再興のためですよ。私たちに貧乏暮らしをさせるつもりなの?」
佳子と三保子はほほ笑む。
「そんなことできません。もう平野家に迷惑をかけないでください。帰ってください」
「あなたを育てたのは誰? 嫁ぎ先を決めたのは誰? どの口がそんなこというの?」
「やっぱりこの家に私が嫁げばよかったかしらね」
佳子がシャンデリアにみとれている。
「そんな……」
この家を守らなきゃいけないのに。どうしたらいいのかわからない。
馨は手を震わせる。
「馨、悪いんだけど、少し用立ててもらいたいのよ。晃政さんにおねだりしてくれないかしら」
「お姉さま? さっさとお金をくれたら、私達、帰ってあげてもよいわよ」
三保子と佳子が口角を上げた。
「そんなの、無理です。無理に決まってます。お金なんてねだれません。いったい私の結納金や支度金はどうしたんですか?」
馨は睨んだ。
「そんなの、とうに使ってしまいましたよ。何も今すぐに大金をくれと言ってはないのよ。少しで構わないの。晃政様から何か買ってもらったりしたでしょ? こっちで売り払うから、それを持ってきてくれても構わないのよ」
三保子がいやらしい目で馨の着物を値踏みする。
「その着物、高そうね。お金を用立てることができないなら、そうね、その着物を脱ぎなさいよ。私たちが売ってくるから。私とお姉様は姉妹でしょ? 困ったときは助け合わないとね」
佳子が笑った。
「できません。そんなことしたくありません。それにこれは晃政様からもらった着物です。佳子に渡すなんて……。私はもう芳川家とは関係ありませんから」
「なんですって?」
三保子は眉間にしわを寄せた。
「いいから、その簪もよこしなさいよ。私達は急いでいるのよ」
佳子は馨の髪から真珠のついた銀細工の簪を奪い取ろうとした。
「平野家は関係ありません。やめてください」
佳子の指輪が馨の頬を傷つけた。
「お前なんかおじさんにふさわしくない。帰れよ。僕が追い出してやる」
進が玄関の戸を開けた。
「進くん……。逃げて。進くんに乱暴はやめてください。まだ子どもなんですから」
馨は佳子が進を追いかけようとするのを防いだ。
「お姉さまったら、そんな子どもかばうの? 私は妹なのに? 妹がこんなに頼んでいるのに酷いじゃない。やっぱり叩かないとわからないのかしら」
佳子は手を振りかざす。
「痛い」
馨は頬を押さえる。
「お姉ちゃんに何するんだ! 許さないぞ」
いつの間にか進が戻ってきた。
「うるさい、ガキだこと。教育がなってないね。私たちに無礼でしょ。どれ、叩いてやろうか」
三保子がニヤリと笑った。
「こんな悪ガキがいるなら、私が嫁ぐのはやっぱり無理ね。せいぜいお姉さまからお金を援助してもらうことにするわ」
佳子は口元を隠して笑った。
「悪かったね、悪ガキで。こっちこそお断りだ」
進はにんまりと笑って、両手を差し出した。
「きゃー!」
「か、蛙!」
三保子と佳子は後ずさる。
「うちの庭にいた、守り神だよ。やっと捕まえたんだ。大きくて可愛いだろう?」
「ゲコゲコ」
両手いっぱいの大きさのがま蛙が返事をする。
何事かとあたりを見回し、がま蛙はぴょんと進の手から飛び出した。
ぴょんぴょんと優雅にはねて、玄関の外に出て行く。
三保子と佳子は尻もちをついていた。
馨は思わず笑った。
「やれやれ、あなた方はうちの妻に何をするんですか」
いつの間にか晃政の車が止まった。
晃政は冷たい視線で三保子と佳子を見る。
怒った晃政の顔はぞくっとするほど美しかった。
「あんたたち、まだ祝言をあげていないでしょうが!」
三保子が晃政をにらむ。
「馨はもう平野家の人間です。結納金も支度金も支払いました。契約書も交わしています。芳川家とご縁は切れたことになっていますよ? ご確認ください」
「え? そんなことが?」
三保子が口ごもる。
「よく芳川家のご当主に確認することですね。お引き取りください」
晃政は呆れたように肩をすくめた。
「これはこれは、芳川の三保子さんと佳子さんではありませんか? きょうは偶然ですね。平野君と何かもめているのですか?」
「どちら様ですか」
佳子が訝しげに顔を上げた。
「人違いです。さ、佳子、帰りますよ」
三保子の顔は真っ青になる。
「え、でも、こちらの男性にご挨拶をしないと、失礼じゃない? すっごく素敵な人ね」
佳子は頬を赤らめた。
晃政の連れ帰った客人は、スーツの良く似合う長身で、精悍な顔立ちをしている。知的な印象の晃政とは対照的に野性味の強い、整った容姿をしていた。
「佳子、いいから帰りますよ」
佳子は客人から目が離せないようだった。
「北条昭一と申します。あなたは芳川佳子さんですね」
昭一は口角をあげた。
笑顔に見えるが、とても怖い。
「まあ、私のことをご存じなの?」
「ええ、よく知っていますよ」
馨は晃政を見上げると、面白そうに笑みを浮かべている。
「さあ、佳子、お暇しましょう」
「どうして? せっかく北条さんとお知り合いになれたのに。ああ、お母様、どうして逃げるの?」
三保子の後を追って佳子は駆けだした。
「君が無事でよかった。無茶はしてはいけないよ」
「……晃政様」
晃政は馨を強く抱きしめた。
馨は晃政の大きな胸に包まれ、ホッとした気持ちになる。
いつまでも晃政は腕を緩めないので、馨は次第に恥ずかしくなってきた。
「あの、晃政さん?」
声をかけるが、晃政には聞こえていない。
馨は顔に熱が集まるのを感じた。
「助けに入るのが遅くなり、本当にすまなかった。馨、どこにも行かないでくれ」
「大丈夫です。私はどこにも行きません」
お義母様と佳子が迷惑をかけたのに、出ていけと言わない晃政さん。
馨はとても嬉しかった。
「いつか芳川三保子さんと佳子さんが来ると思っていたが、思っていたより早かったな。進もよくやったぞ」
晃政は片手でぐりぐりと進の頭を撫でる。
「まあね」
進は鼻の下をこすった。
「晃政さん、そろそろ離してもらっても?」
「ああ」
晃政は馨に言われ、顔を赤くした。
「お姉ちゃんは僕のものだからね」
「いや、俺の嫁だからね?」
進と晃政が言い合う。
「あのさ、俺のこと、忘れてない?」
昭一が苦笑いする。
「あ、そうだった。すまんすまん」
「ひどいよな。お前が馨さんと非常に仲が良いのがわかったけどな」
昭一はほほ笑んだ。
晃政は昭一とは応接間に入っていく。
「あとでお茶をお持ちしますね」
馨がいうと、
「頼んだよ」
晃政はほほ笑んだ。
後日、芳川健三が詫びに来た。
「金輪際、平野家と馨に近づかないでほしい」
晃政はきっぱりと申し出た。
「ああ、わかっている。二人が迷惑をかけた。馨をよろしく頼む」
「お父様、今までありがとうございました」
馨は深く頭を下げた。
健三の目頭に涙が浮かんでいるように見えた。
お父様の涙は、気のせいだっただろうか。
馨は二階の窓からそっと父健三を見送り続けた。
屋敷から遠ざかっていく健三の背中は小さかった。
お義母様と佳子に好き放題やらせている父親でも、一応私のことを気遣ってくれていたということか。
お父様は、私のお母様が亡くなって、後妻の三保子さんと佳子の顔をたてるために板挟みになっていたに違いない。
でも、それでも、今まで芳川の家でお義母様と佳子が私にしたことや、平野家までたかりに来たことは許せなかった。
お父様……、お元気で。
馨は切なくなった。
「大丈夫かい?」
晃政は馨の肩に手を置いた。
「はい。芳川家がご迷惑をおかけしました」
「完全に縁が切れたけれど、馨は寂しいよね? ごめんね」
「仕方がありません。でも、私には晃政さんや進くん、史恵さん、君代さんがいます」
「うん、ここは馨の家だからね。安心して過ごしてほしい」
晃政は馨の涙をぬぐう。
「ありがとうございます」
「俺も嬉しいよ。この家の者になってくれるなんて」
晃政が馨を抱きしめようと手を伸ばした。
「あ、お姉ちゃんにまたくっついている!」
応接室の扉が突然開いた。
「進坊ちゃま! 邪魔しちゃだめですよ」
君代が追いかけてくる。
「いいところだったんだけど?」
晃政が笑う。
馨はぱっと離れ、体中が熱くなるのを感じた。
「お姉ちゃん、顔が真っ赤だよ。耳まで赤いよ」
「進坊ちゃま、そっとしておいてあげてください」
君代が進を引きずっていく。
晃政と馨は顔を見合わせて笑った。




