七
七 着物と髪飾り
しばらく雨が続いたが、今日は雨が上がって快晴だ。
こうやって夏になっていくのだろう。
窓を開けると、いくらか涼しい風が入ってきた。
「馨、きょうは何か予定はあるかい? もし時間があるなら、銀座にでも出ようか?」
晃政が口角を上げた。
「はい! 銀座ですか? 嬉しいです」
「よかった」
晃政は嬉しそうな顔をした。
「旦那様、誘えてよかったですねえ」
史恵が涙を浮かべた。
「史恵は大げさだよ」
晃政が言った。
「大げさじゃありませんよ。一緒に男女が出掛けることを逢引きというんですかね? 逢引きもしないし、家にもなかなか帰らないでは、馨様がおかわいそうですから。旦那様にはしっかりしていただかないと」
「はいはい」
晃政は苦笑いする。
「あ、逢引き……」
馨は紅潮した。
「さあ、お出かけの用意をしましょう。何がいいですかね」
史恵と君代がいそいそとクローゼットからワンピースドレスを並べた。
「銀座に行くのでしたら、馨様には洋装がいいかしらね。お若いもの、冒険したかっこうでもお似合いになるわ」
君代が腕を組む。
「それなら耳隠しにしましょう」
史恵が頷いた。
「耳隠しってなんですか?」
馨は流行に興味がなかったため、わからなかった。
「前髪を分けて流し、コテで大きなウェーブをつくるんですよ。馨様にきっとよくにあいます」
「そ、そうですか? では、お願いします」
馨は小さく頷いた。
「飾りがいがあるわ。パールのイヤリングとネックレスがあるから、白いレースのワンピースにしましょう」
君代の鼻息が荒くなる。
「ほんと、肌が白い。馨様、お化粧も少ししてもよろしいですか?」
「お化粧ですか。初めてです」
「まあ、今までお化粧もせず、この美しさですか。さらに綺麗になって……。旦那様もさらに惚れてしまいますよ」
君代は大興奮だ。
「まあ……」
馨は顔が真っ赤に染まった。
「馨様って、本当に可愛らしい」
史恵がほほ笑んだ。
「さて、仕上げにこのネックレスとイヤリングを」
「これは?」
「ああ、これは馨様のために晃政様がお買いになったものですよ」
「高級そうなもの、ダメです。なくしちゃったらどうしましょう」
馨は首を振った。
「そろそろできましたか?」
晃政がノックをしてはいってきた。
「旦那様、もう少しですよ」
史恵は苦笑いする。
「あ」
晃政が固まった。
「この格好、おかしいですか?」
「……そんなことありません。あまりにも美しくって言葉を失ってしまいました。洋装だと印象が変わって、これはこれでいいですね」
「晃政さん、このイヤリングとネックレス……」
「使ってください。あなたのために買ったのですから」
「でも……」
「ほかに使ってくれる人はいません。どうか使ってください」
晃政に懇願され、馨は「うん」と頷いた。
「あとは、日傘ですかね。帽子もいるわ」
バタバタと君代が速足でいなくなる。
「さあ、旦那様と馨様は玄関へ」
馨が慣れないヒールでゆっくり歩いていくと、晃政が手を差し伸べた。
「急がないで大丈夫ですよ」
晃政の手と触れているところが熱い。
「はい」
馨は晃政の顔を見ることができなかった。
階段を下りていると、君代が玄関で待っていた。
帽子を斜めにかぶせ、日傘を持つ。
「旦那様、馨様。よくお似合いです」
史恵と君代は感動している。
「行ってまいります」
二人が車に乗ると、史恵と君代は「いってらっしゃいませ」と礼をした。
銀座の街はお洒落をした人たちがいっぱいだった。
モダンガール、モダンボーイに銘仙の着物を着ていたり……。見ているだけで気分が華やぐ。
実のお母さまが生きていた時に何度か銀座に行ったことはあったけれど……。あの時よりも洋風が進んでいるわ。
「百貨店に参りましょうか。きっと馨さんのお眼鏡にかなうものがありますよ」
「でも、そんな、贅沢なことは……」
「あなたに着物でも服でも買ってあげたいのです。いつも家のことをたくさんしてくれて感謝しているのです。特に進のことです。進はとってもいい子になりました」
「そんな……。進くんと一緒に本を読んだり、楽しんでいるだけです」
「俺がそんな時間を取ってあげられたらよかったのですが、馨さんがいてくれて助かりました。だからね? 俺に着物を作らせてください」
「はい」
晃政に押し切られ、馨は頷いた。
「この着物はどうですか? 馨さんは青も似合うなあ。いや、赤がいいだろうか」
晃政が悩む。
「こんなに美しい奥様ですもの、赤も青も、黄色も緑もすべてお似合いになりますよ」
店員もほほ笑む。
「いっそのことここにある物をすべて買おうか?」
「ダメです。晃政さん」
馨が驚いた。
「では五つ選んでください」
「三つで」
「五つですよ」
「三つでお願いします:
「もう馨さんは……」
晃政は根負けした。
馨は唸りながら、三つを選び出した。
「急ぎで仕立ててほしい」
「わかりました」
店員は大きく頷いた。
こんなにたくさんの反物を見たことも選んだことがない。
馨はすっかり疲れてしまった。
ふと小物売り場を見ると、真珠飾りのついた銀細工の簪が売られていた。
着物でも洋装でも合いそうね。
馨は手に取ってみる。
飾り真珠の色がそれぞれ少しずつ違っている。
「綺麗」
思わずこぼれた。
「本当ですね」
晃政も頷く。
「こちらは手彫りになっております」
「これもいただくよ。馨さんにつけてもらっていいかな?」
「え?」
馨は声を上げる。
「きょうのワンピースにもよくお似合いになりますよ」
店員は笑顔で馨に迫った。
なんか墓穴を掘ったみたい。
ちらりと晃政をみると、満足げにしている。
「たくさん買っていただいてありがとうございました」
「いいえ、馨さんと一緒に買い物ができてたのしかったです。何か食べて帰りましょうか?」
「はい!」
馨は今日一番の元気で返事をする。
「馨さん、お腹が空いていたんですね」
「……はい」
「俺もです。この上の階にある大食堂って行ったことがありますか?」
「どんなところですか」
「食券を買って、食べるんです。カレーライスが美味しいらしいですよ。隣には屋上庭園があるんです。食べ終わったら散歩しましょうか」
「はい! 進くんも一緒に来たらよかったですね」
「今度は進も一緒に来ましょう。美味しいものをたくさん食べてくださいね」
晃政はさりげなく馨の手を取り、エスカレーターに乗る。
馨の顔が赤く染まる。
晃政の耳もうっすらと赤くなっている。
「……はい」
晃政の手のひらの熱さが心地よい。
大好きな料理の味もわからなくなりそう。
体中の血が熱い。
でも、気持ちがふわふわして、満たされている。
馨は晃政とずっといられますようにとそっと祈った。




