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六 クッキーとキャロットカップケーキ 

 夕飯を終えて、本を読んであげていると、昼間遊び疲れたようで進は眠ってしまった。

「きょうは天気も良くて、たくさん鬼ごっこしたり、かくれんぼしたりしたものね」

「進坊ちゃまったら、幸せそう。ご両親を亡くされてから、笑うことも少なかったんです。本来、幼稚園に通ってもよかったのですが、まだお心が落ち着いていなくて……」

 史恵が進の頭を撫でる。

「そうだったんですね」

「でも、馨様がいらしてから、とても表情が明るくなりました」

「まだまだ寂しいとは思いますが、少しでも手助けができてよかったです」

 史恵はそっと袂で涙をぬぐう。

 両親を亡くして寂しい上に、晃政さんの婚約者たちから邪魔者扱いされて疎まれたら……、進はとても傷ついたに違いない。

 こんなに可愛い子なのに。

「旦那様のためにも、進坊ちゃまのためにもこの家にいてくださいね。旦那様は馨様に会いたくてどんなに遅くなってもこちらに帰るようになったんですよ。今までは、会社に寝泊まりなさったりしていて……」

 史恵が力説する。

「本当ですか」

 馨は顔が赤くなるのを感じた。

「本当ですとも。旦那様は馨様と仲良くなりたいのです」

「わ、私も晃政さんと仲良くしたいです」

「まあ、両想いですね。あとは坊ちゃまに頑張ってもらわないと」

 史恵はクスクス笑いながら、進を抱き上げた。

 馨は、バルコニーに出て、空をじっと見つめていた。

 星が綺麗に瞬いている。

 晃政さん、早く帰ってこないかしら。

 進くんと一緒に作ったクッキー、喜んでくれるかな。

甘いものは嫌いではなさそうよね。

 この前のさつまいものカスタープディングを出した時のことを思い出す。

 頬についたプディングをそっと食べられてしまった。

 恥ずかしかったけれど、嬉しかった。

 晃政さんに見つめられて、身体が熱くなったことを思い出す。

二人だけの濃密だった空間。

晃政さんが触れた熱い指先。

史恵に両想いとからかわれてしまった。

馨は頬を撫でる。

本当にそうだったらどんなに嬉しいかしら。

車のエンジンの音が近づいてきた。

「晃政さんが帰ってきたんだわ」

 二階から急いで駆け降りる。

 史恵と君代はすでに一階の玄関に並んでいた。

「おかえりなさいませ」

 晃政は玄関を開けて入ってきた。

 皺がついたシャツやズボンだが、晃政さんだけ輝いて見えるのは気のせい?

 どんなに疲れていてもかっこいいわ。

「馨さん、まだ起きていたんですか」

 驚いた中に嬉しそうな声色。

 名前を呼ばれて、はっと気が付いた。

「馨さんもお疲れですね」

「大丈夫です」

 馨の答えに晃政が目を細めた。

「旦那様、きょうは馨様と進坊ちゃんがクッキーを焼いたんですよ」

 史恵が報告する。

「ほおお。いいな。夜食はクッキーか」

 晃政は笑みを浮かべた。

「すぐにお茶を入れてお持ちしますね」

 馨と史恵、君代は顔を見合わせた。


「ああ、忙しい。でも晃政様にお茶を入れないと」

 史恵がわざと言う。

「お茶をもっていかないといけないんだけれど困ったなあ」

 君代が大きな声でつぶやいた。

 史恵と君代が忙しいフリをしている。

「私が晃政さんに持っていきます」

馨は苦笑した。

「まあ、馨様ありがとうございます」

 史恵と君代はにこりと笑った。

「失礼します」

 馨は晃政の部屋にティーワゴンを運ぶ。 

「ありがとう。この前のさつまいものカスタープディング、美味しかったから、きょうも期待していたんだ」

 晃政さんは子どものように笑った。

「進くんと一生懸命作ったんです。進くんはとても手先が器用で、クッキーの型を抜くのが上手なんですよ」

 馨はハート型のクッキーを差し出した。

「ハート……」

 晃政はポッと頬を赤らめた。

「いや、その、えっと、はい。ハートでございます」

 馨はもじもじと着物の袖をいじる。

「サクサク、ほろほろとしていて、甘い。君のハートは美味しいよ」

 晃政は一枚丁寧に取り上げて、味わう。

 馨は晃政から目が離せなかった。

「馨も食べてごらん」

 晃政にクッキーを一枚口元に差し出される。

 馨は思わずパクっと食べた。

 晃政の指先が唇に触れたのを感じ、我に返る。

「す、すいません」

 晃政はその指をペロリと舐め、「美味しいだろう?」といたずらっ子そうな笑みを浮かべる。

「はい……」

 やってしまった。

 馨は恥ずかしくて全身の熱が上がった。

「馨の夜食を食べると、元気が出るよ。また頼む」

 晃政は涼しい顔をして、紅茶のカップを口に運んだ。

 そっと晃政の耳を見ると赤く染まっているのが分かった。



「ああ、きょうはつまんないなあ」

 進が窓の外を見る。

 ここ数日雨が続いていた。

菜種梅雨である。

「そうですねえ。お外で遊べないですものね」

「お姉ちゃん、何か作りたいな」

「では、おやつを作りましょうか」

「うん! こねたり、混ぜるの大好き」

 進の機嫌が一気に直る。

 今の時間なら少しキッチンを借りても迷惑にならないだろうが、君代に確認してもらった。

「お、今日は何を作るんだ?」

 機嫌よく料理長はキッチンを貸してくれた。

「カップケーキならすぐに作れるなと思って……」

「カップケーキ! お姉ちゃん、自分で作れるの? 僕、大好きなんだよ。料理長のおやつはいつも美味しいから。僕も作りたい」

「坊ちゃんは嬉しいことを言ってくれるねえ。どれ俺もそっと手伝ってやる。カップケーキの上に塗る、砂糖衣を用意してやろう」

料理長は目を潤ませた。

「今日は、ニンジンを入れたカップケーキです」

「ええええ!」

 進はへの字口になる。

「あら、進くんはニンジンが嫌いなんですか?」

「いや、いいや、そんなことないよ。僕は大きいからね」

 慌てて進は首を振る。

「そうですよね。私に食事のマナーを教えてくれる先生ですものね」

 馨が言うと、進は顔をひきつらせた。

「坊ちゃま、ニンジン苦手でしたよね」

「しーっ。言っちゃだめ」

 確認する料理長の口を進がふさぐ。

「さ、ニンジンをたくさん入れて、健康になっちゃいましょう」

「はーい」

 進は意気消沈だ。

「ニンジンをすりおろしてしまうと、どこに行ったか全く分からなくなっちゃいますよ」

 これは佳子が小さい時によく作ってあげたお菓子だ。

 あの子、好き嫌いが多くて、大変だったのよね。

 食べないのは、私のせいだって言われて、お義母様に叩かれたり。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 頬が痛くって、でも、佳子のために何とかしてあげたくって、一生懸命考えて作ったケーキだった。

 佳子は元気でやっているだろうか。お父様もお義母様も達者だろうか。

 私のことはいらないと切り捨てたあの人たち。

 帰ってくるなと言っていた。

もう私は芳川家には戻れない。戻らないのだ。

 でも、私には晃政さん、進くん、史恵さん、君代さんがいる。

 私を大事にしてくれる、大好きな人たち。

 前を向こう。

 平野家で私は生きていく。

 馨は覚悟を決めた。

「ねえ、お姉ちゃん?」

「あ、何でもないわ。じゃあ、始めようか」

「私も見ていていいですか?」

 料理長は興味深そうにしている。

「はい、もちろんです」

 馨は大きく頷いた。

まず、ボウルに玉子の黄身とバター、米利堅粉、焼粉、砂糖を入れて、牛乳を加えかき混ぜる。

それからすりおろしたニンジンをたっぷり加えて……

「僕も混ぜたい! ねえ、貸して! 美味しくなあれ、美味しくなあれ」

 進は白身を泡立てる。

「どれ、仕上げは貸してください」

 料理長があっという間に白身を固めに泡立ててくれた。

「助かります」

 私と進くんでは、こんなに早く泡立てることはできなかっただろう。

「ねえ、これからどうするの?」

「ちょっとずつ、また、ニンジンのボウルに入れていくのよ。さっくりと混ぜてね」

「うん! 美味しくなあれ、美味しくなあれ」

 進にアドバイスしたけれど、楽しそうにグルグル混ぜるのが止まらなかった。

 多少膨らまないかもしれないけれど、それも愛嬌ですよね?

 料理長をちらりと見ると、苦笑いしていた。

 料理長も仕方がないと思っていたみたい。

 進くんのやりたいという気持ちが優先です。多少膨らまなくても美味しいですからね。

 カップケーキの型に流し込んで、テンピで十五分焼いて出来上がり。

「すごくいい匂い! 早くテンピから出して!」

「ちょっと待ってくださいね。すっごく熱いんです。危ないですよ」

 天板をそっと取り出す。

 黄金色に焼けたカップケーキが出てきた。

「膨らんでる! ねえ見て! すごい」

 進は大興奮だ。

「ちょっと冷ましてから、上に砂糖衣をかけて出来上がりですよ」

「その前にちょこっと食べたいな」

 進の目はカップケーキに釘付けだ。

「味見しますか?」

「食べる、食べる」

 焼きたてのカップケーキも美味しいものね。

 料理長が皿を持ってきてくれた。

「はいどうぞ」

 進は目を輝かせて、パクリ。

「美味しい! ニンジン、どこ行っちゃったの?」

「火を通すと、ニンジンは甘くなるんです」

「これならいくつでも食べちゃうよ」

 進は頬にカップケーキの破片をくっつけている。

 馨は思わず指でとってあげると、先日晃政に同じことをされたことを思い出した。

「お姉ちゃん? 顔が赤いよ」

「え? だ、大丈夫よ」

 馨は思わず挙動不審になった。

「変なお姉ちゃん。あ、お姉ちゃんも食べてごらんよ。あーん」

 進が馨の口元へカップケーキを運ぶ。

 お世話したい年頃なのかもしれない。

 言われるがまま、口を開ける。

 鼻孔に甘く美味しそうな香りが近づいてきて、馨は反射的にパクリと食べた。

「ああ、本当に美味しいわ。進くんの美味しくなれという呪文が効いたのね」

「へへへ。おじさんと、史恵と君代にもあげたいな」

「砂糖衣でお化粧してあげたものを差し上げましょうかね」

「料理長、砂糖衣って美味しいの?」

 進が首を傾げた。

「プロの味って感じになります」

「プロの味か。ふふふ。僕がプロ」

 進は頬を緩ませた。

「進くんは何でも食べることができますね」

「うん! 苦手なものも、工夫すると美味しいんだってわかったよ」

 進はエッヘンと威張った。

 とても可愛らしいその姿に料理長と馨はほほ笑んだ。 

「いい匂いですね。馨様、お手紙が届いております」

 君代がキッチンに顔を出す。

「君代の分も、史恵の分もあるからね。おやつの時間を楽しみにしていてね」

「はい! 坊ちゃま」

 君代は嬉しそうな顔をした。

「手紙って、誰からかしら」

 私に友達はほとんどいない。貧乏華族に近寄ってくる人はいなかったし、学校を卒業してからは家事しかしていない。

 差出人は、城之内美智子とある。

 城之内、私が知っている城之内ならば、歯磨き粉や缶詰などの事業で成功した華族の城之内家だ。

 大正の世になり、没落する華族も多い中、事業が成功した数少ない家柄だ。

 なぜか嫌な予感がした。

『あなたはただ華族というだけの人。事業を大成功させ、我が国の衛生状態を向上させた晃政様にはふさわしくないと思うの。私こそが隣に並んでもいい人物。婚約破棄して、晃政様を私に譲りなさい。美智子』

 なんてことだろう。

馨の顔はみるみる青くなる。

「どうしたのですか?」

 君代がふらついている馨の肩を抱く。

 ひらりと馨の手から手紙が落ちた。

「何これ。信じられない」

 進が手紙の内容を読み上げる。

「絶対こんな人いやだ。お姉ちゃんがいい。僕が懲らしめてやる」

「坊ちゃま、これは戦いです」

 君代と進が力こぶを作る。

 私は晃政様にふさわしくない……。

婚約破棄しろ?

頭が真っ白になって、考えられなくなった。

「お姉ちゃんは僕が守る!」

「私たち使用人も馨様をお守りしますから、負けないでください」

ショックを受けた馨の耳には、君代と進の声も聞こえていなかった。 


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