五
五 進と馨の休憩
「お姉ちゃんはおやつが作れるの?」
進に聞かれた。
「ええ、少しなら」
「僕のために作ってくれる?」
進は目を輝かせた。
時計をみると、午後二時になるところだ。
キッチンはしばしになっているだろうか。
料理長に迷惑をかけることはできない。
料理人とは自分の領域に入られることを嫌うことが多い。
馨は渋い顔をした。
「きのうのプディング美味しかったもん。お姉ちゃん、また何か作って」
進が懇願する。
「ちょっと聞いてまいりますね」
様子を見ていた君代が立ち上がった。
「さすが、君代。美味しいものが好きだね」
「坊ちゃま、わかっておりますね」
君代はふふふと笑った。
少しすると君代が嬉しそうな顔で戻ってきた。
「馨様、キッチンを使ってよいそうですよ」
「わーい。お姉ちゃん、おやつ作って」
進は子供らしい歓声を上げる。
「はい」
馨は笑みをこぼした。
きょうは何を作りましょうか。
棚を見る。
あまり時間をかけたものだと、夕食の仕込みの時間にかぶってしまうだろう。すぐに作り終わり、片付けまでできるものがいい。
馨は腕を組んだ。
「さあ、米利堅粉に炭酸ソーダ、砂糖に卵を入れて、バターを混ぜますよ」
さすが、平野家はいいバターを使っている。
馨はにこりと進にほほ笑む。
「面白い感触」
進は両手を粉だらけにして喜んでいる。
「次はのし棒で平らに薄く伸ばします。それから茶筒の蓋でもなんでもいいんですけど……」
馨があたりを見回す。
「奥様、抜き型がありますよ」
料理長が笑顔で見守っていた。
「お、奥様」
馨は顔を真っ赤にして、両手で顔を隠そうとする。
「お姉ちゃん、お顔に粉がいっぱいだよ!」
進が指摘した。
「きゃー、しまった」
馨は洗面所に駆け込んだ。
「抜き型で抜く方法は、教えておきますから大丈夫ですよ」
料理長は愉快そうに言った。
「お姉ちゃんは恥ずかしがり屋さんなんだね」
「そうだな」
キッチンから声が聞こえてくる。
奥様か……。
晃政様と結婚したら、私、奥様になってしまうのね。
再び体が熱くなる。
奥様。奥様。奥様ってどんな感じなのかしら。
「まずは、追い出されないように気を付けないと。晃政様に気に入ってもらえないと、私にはもう帰る家はないもの」
鏡の中の自分を見る。
もう芳川家に戻ることはできない。
例え戻ることができても、芳川家で踏みにじられるのはもうたくさんだった。
もし、この家を追い出されたら……。どこに行こう?
「お姉ちゃん、どこか行くの? だめ、行かないで」
いつの間にか進が来ていてびっくりした。
「どこにも行かないですよ」
馨が苦笑いする。
「でも、おじさんが出ていけっていったら行っちゃうんでしょ」
「その時は……、仕方がありません」
「そんなの絶対にダメだから。僕のためにここにいてね」
進が泣きそうな顔になる。
「わかりました」
こんなに愛らしい進を置いて、どこにいけるだろう。
そうだ。晃政さんが私のことを気に入らないというなら、使用人としてここにおいてもらえばいい。
馨の中の霧が晴れた気がした。
「本当に?」
「ええ。だから、クッキーを見に行きましょう。焦げちゃったら大変!」
「焦げちゃったらどうしよう」
進はキッチンへ走り出す。
「進くん、走ると怒られるよ」
馨は声をかけつつ、自身も急ぎ足で戻った。
廊下はキッチンから焼けたバターの甘い香りが漂っていた。
馨が顔を洗っている間に料理長がオーブンで焦げないように焼いていてくれた。
「ぐ~」
進のお腹が鳴る。
「幸せの匂いだね!」
「本当ですね」
進と馨は顔を見合わせる。
「もうすぐ焼ける?」
「もうすぐですよ。あ、誰か味見をしないといけませんね? 誰かお手伝いしてくれる方はいませんか」
馨は腰に手を置いた。
「はい! 僕がします」
進が元気よく申し出た。
「それを言うなら、私が適当でしょう。プロですから」
料理長も負けずに手を挙げる。
「料理長、大人げないよ」
「坊ちゃま、難しい言葉をお知りですねえ」
「僕はぜったい味見の役目は譲らないよ」
「まあ。では、二人で召し上がってくださいね」
笑いながら馨がハート型とダイヤ型のクッキーを差し出すと、ハート型のクッキーを進が受け取った。
「サクサクしてる! 甘くて美味しいねえ。いっぱい食べたいな」
「おお、これは美味しい。坊ちゃまのクッキーは世界で一番です」
料理長が進にもっと食べるよう勧める。
「お姉ちゃん、まだ、ハート型ある?」
進は馨の顔を見上げた。
「ええ、まだあるわよ」
「よかった。安心したよ。ハートを全部食べたら、おじさんに怒られちゃうからさ」
進はそう言って、スペード型のクッキーを食べる。
馨は顔に熱が集まるのを感じた。
サクサクという音が聞こえてくる。
「クッキーってこうやって作るんだね。料理ってすごいね。僕、毎日これでもいいよ」
進は次から次へ食べだした。
「坊ちゃま、お茶の時間のお菓子がなくなってしまいますよ」
史恵がキッチンに顔を出した。
進のことが心配で史恵はキッチンのそばに隠れるようにして待機していた。
「史恵さん、これは進くんが作ったクッキーです。味見してください」
馨が差し出すと、史恵は涙を袖口で拭った。
「もったいなくて、食べられません。坊ちゃま、大きくなったんですね」
「嫌だなあ、史恵は。僕は最初から大きいよ」
「そうでしたね」
「早く、史恵も食べてよ。絶対美味しいから。僕が食べさせてあげる。史恵、あーんして」
進は史恵の手のクッキーを見つめた。
「香ばしくて、甘い。本当に美味しいですね」
史恵は嬉しそうに食べる。
「おじさんの分も作ったから、お姉ちゃんはハート型を集めてプレゼントしてあげてね」
進が威張る。
「はい……」
馨はさらに顔を真っ赤にして返事をした。
「あら、出来上がったんですね。旦那様にプレゼントですか。きっと大喜びしますよ」
君代もやってきた。
「君代の分もあるよ。これは味見だよ。お茶の時間に食べる分がなくなっちゃうからね」
進が説明する。
「まあ、坊ちゃまが私にくださるんですか。嬉しいです」
君代は感動していた。
「君代、あーんして。僕が食べさせてあげる。ねえ、美味しい?」
「どれどれ。サクサクとした食感に程よい甘さ。これは売り物のクッキーよりも美味しいですよ。将来はクッキー屋さんが開けちゃいますね」
君代が笑顔で伝えると、進は大層満足げに頷いた。
「今度は馨お姉ちゃん。あーんして」
「ふふふ。嬉しい」
クッキーを持った進の小さな手が口に近づいてくる。
幸せってこういうことだよね。
「ああ、とても美味しいです。進くん、ありがとう」
馨は胸が温かくなった。
互いに心配しあい、愛おしむ。
自分が欲しかったものがここにあった。
私も晃政さん、進くん達を幸せにしてあげたい。
平野家の一員になりたい。
そう思っている自分がいた。
今まで芳川家では、どんなに欲しくても、与えられなかったものだ。
私はここで幸せになっていいのかしら。
馨はふと不安になった。
「浮かないお顔ですが、何か嫌なことでもありましたか?」
料理長が伺いに来た。
「いえ、いつも美味しい料理で、とても勉強になります。ただ……」
「ただ?」
料理長が問う。
「私、もっと働かないといけないって思っていて……。もし晃政さんに嫌われても、平野家でお役に立てるよう頑張るので、捨てないでほしくって……」
馨の目に涙がたまる。
「誰が馨様を捨てるんですか?」
史恵は眉間にしわを寄せた。
「晃政さんと平野家の皆さん……?」
「晃政様は実業家として立派に成功されています。それに平野家は大変裕福ですから、働くなど奥様は心配されなくともいいのです。進坊ちゃまのお相手もしてもらっていますし、将来は進様の教育にも携わっていただきます。旦那様は馨様にとても感謝しておりますし、馨様のことを大変気に入っていますよ。捨てるなんてとんでもない」
史恵が説明する。
「進くんはとてもいい子ですよ」
「そういうのは、馨様だけです」
料理長と史恵が苦笑いを浮かべた。
「進坊ちゃまは良い子なんですけどね。寂しがり屋でして。あ、でも、愛情深い馨様にとても懐いていらっしゃいます」
君代がにこりとした。
「あの、きょうは晃政さんは?」
馨は涙を指で拭って、笑って見せる。
「大阪と、福岡の石鹸工場以外にも工場を広げる話が出ているらしく、なかなか帰れないようです。まったく馨様を放っておくなんて、言語道断です。帰ってきたら苦情を申し入れましょうね。馨様はお優しいから、私を見て!などとは言えないでしょう。私がきちんとお話しますから心配なされないように」
史恵は眉根を寄せた。
「進くんもいるし、史恵や君代、料理長も一緒にいるので全然寂しくないですから大丈夫です」
晃政さんといると、胸がドキドキして、顔が赤くなってしまう。
晃政さんにどういう態度をとっていいのかわからなくて、隠れてしまいたいのに、ずっと見ていたい気持ちがある。そして、ちょっとでもいいから私のことをみてほしいなんて思ってしまうのは、ずうずうしいかしら。
いつでもどこにいても晃政さんのことが気になってしまう。まるで自分の心が自分のものでないみたい。
馨はハート型のクッキーの包みを胸に持つ。
「お姉ちゃんといつも一緒なのは、僕は嬉しいけどね。これからもずっと一緒にいたいからおじさんには頑張ってもらわないとなあ」
進が呟く。
「馨様にそういってもらえるのは嬉しいんですけれど。馨様はもっと旦那様と一緒にいないと! 馨様なら旦那様を幸せにできますから」
史恵と君代が笑みを浮かべた。




