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三 仏蘭西料理のフルコース

「遅れて申し訳ない。心細かっただろう。ここは君の我が家だと思ってほしい。申し訳ないが、仕事が残っていてまた行かないといけないんだ。馨さんとは婚約者としてゆっくり時間を取りたいと思っているから、しばらく待っていてください」

 平野晃政が早口で言った。

 なるほど、私の旦那様は忙しいらしい。それから私と結婚することは嫌ではないことが口ぶりからわかった。

 一安心である。

 平野家は、晃政の兄が貿易会社で大きくしたのだが、先日病気で晃政の兄夫婦が亡くなり、 進が残された。

 晃政は進を引き取り、育てることにしたのだ。

 晃政は兄の貿易会社を引き継ぎ、帝都一大きくした。

また、晃政自身は石鹸工場をいくつか持っていた。良質な石鹸を開発し、衛生を向上させたとして、新聞に載ったこともある。

 貿易会社に石鹸工場。一人で二つを運営するなんて色々大変なんだろうな。

晃政の目の下にはクマができ、若干頬がコケている。

「大丈夫です。史恵と君代がよくしてくださいますから」 

馨が笑みを浮かべた。

「おじさん、お帰りなさい!」

「おおお、ただいま。元気にしていたかい? すまないが、また仕事に行くんだよ」

「えええ! おじさん、遊んでくれないの? せっかくお嫁さんも来たのに」

「俺だって、進とお嫁さんと遊びたいんだよ。でもね、質の良い石鹸を日本中に広げて、病気がない世界にしたいんだ。だからもう少し待っていて? 必ず時間を作るから」

 晃政は眉を八の字にする。

 晃政の兄夫婦が病気でなくなったことを言っているのだと馨にもわかった。

 寂しいけれど、晃政のいうこともわかる進は、口を引き結んだ。

「坊ちゃま、わがまま言ってはいけませんよ。旦那様はお仕事なのですから」

 史恵が進を叱る。

「その大切なお仕事が終わったら、遊んでくれる?」

「ああ、終わったら、必ず」

 晃政は進の頭をなでる。

「じゃ、お姉ちゃんは、僕と遊んでね? お姉ちゃんは可愛くて優しいんだよ。僕のケガの手当てもしてくれたんだ」

 進は馨の手を握った。

「もう仲良しなのか。いいなあ」

 晃政は驚く。

「進坊ちゃまと気が合うようです。それと、馨様は、ご実家でだいぶ苦労されていたようでして……」

 史恵が晃政に進言する。

「あの家がやけに縁談を進めると思ったらそういうわけか」

 晃政は苦虫を嚙み潰したような顔をした。

「馨様は働き者で、子どもにも好かれる、よいお方です。おまけにとても可愛らしいので磨きがいがあります」

 君代が笑顔になった。

「いい人と巡り会えたのかもしれん。馨さん、必要なものは遠慮なく買ってください。史恵、君代、馨さんに不自由なく過ごしてもらえるように、頼んだよ」

 晃政は命じた。

「ねえ、お姉ちゃん、もう夜だから、外で遊んじゃだめだよね?」

「そうね、明日、晴れたら一緒にお散歩しましょうか。お庭を案内してくれる?」

「もちろんだよ。じゃあ、夕飯までお絵かきする? すごろくしようか?」

 進は目を輝かせた。

「坊ちゃま、きょうの宿題が残ってますよ」

 史恵の笑顔が怖い。

「いっけねえ」

 進は顔を引き攣らせた。

「行ってくる。夜は遅くなるから、馨さんは先に休んでいてください。きょうはお疲れでしょう」

「え、でも……」

 いいのかしら。

芳川家では家族が寝付くまで台所で待機していた。

 馨は戸惑う。

「いってらっしゃいませ」

 史恵と君代が見送る。

 馨は進と一緒に手を振った。

「宿題していたら、ご飯になっちゃった。お姉ちゃん、ご飯の後は遊べる?」

 しばらくして馨の部屋に進がやってきた。

 首をかしげて、馨の返答を待っている。

 まるで可愛い子犬みたい。

 思わず笑みを浮かべた。遊んであげたくなったが、乳母の史恵はどう考えているのか。

 まずは史恵に聞かないと。

 その家ごとに教育方針がある。

 そのせいで妹の佳子が甘やかされて我が儘になってしまったけれど。

「ええっと。どうでしょうか?」

 馨は史恵の顔を見た。

「進坊ちゃまがあまりに愛らしいので、つい甘やかしたくなってしまうんですよね。わかります」

 史恵は苦笑している。

「少しなら大丈夫かしら」

 馨は確かめる。

「お風呂に入ってしまったら、少し時間があります」

「わーい」

 史恵の許可が出て、進は喜んだ。

「きょうは馨さんいらしたので、料理長が腕によりをかけて作りました」

 食堂はすでに良い匂いでいっぱいだ。

 これはブラウンソースだろうか。

 甘いバニラの匂いにチョコレートの香りもする。

 芳川家で料理をしていたので、馨は鼻が利く。

 これって、絶対美味しい料理。香りだけでおおよその味の検討が付いた。

もしかすると、フルコースかも。

 美味しそうな匂いで、期待で胸が膨らむ。

 仏蘭西料理のフルコースは食べたことがない。

 一度食べさせてもらいたかった料理の一つだ。

 馨は一度食べれば、おおよその材料の検討をつけ、料理を再現できる能力を持っていた。

「お姉ちゃん、隣に座ってもいい?」

「もちろんよ」

 馨は頷いた。

 テーブルライナーが敷いてある大きなテーブルには、花が飾られていた。個々の椅子の前にはナプキンと銀のカトラリーがテーブルに並べられている。

 西洋食……。

 華族学校は卒業したが、その後芳川の家で作るほうに専念していたから、作法には自信がない。

 どうしよう。

「馨さん、マナーはおいおい学べばいいのです。食事を楽しんでください」

 史恵がほほ笑んだ。

「お姉ちゃん、僕が教えてあげるよ」

「ほんと? 嬉しいわ」

 馨は史恵と進の気遣いに感謝した。

「きょうは婚約のお祝いですからね。みんなでがんばって作ったんですよ」

 君代が教えてくれた。 

 一皿目は生牡蠣だ。レモン汁をさっと絞っていただく。

 ふわっと磯の香と濃厚な旨味が口いっぱいに広がる。新鮮で、丁寧に下処理されている。

「僕、牡蠣は苦手なんだ」

 進はしかめっ面をして、ごくっと飲んだ。

「えらいわ。苦手でも食べるのね」

「まあね。もう大人だから。お姉、馨さんもいただくといいよ」

 進は胸を張る。

 史恵は吹き出しそうになっていた。

 進くんはがんばって私の見本になろうとしているのね。

 馨は微笑ましくなった。

 二皿目はテールスープ、三皿目は鯛のバターソース焼き。付け合わせのじゃかいもまで、ソースといっしょに美味しく頂けるように計算されていた。バターも上質なものを使っている。

どんどん皿が運ばれてきた。

牛フィレ肉のブラウンソースがけ……。

一口食べると、肉汁が口いっぱい広がる。

こんなに美味しいもの、作ったことも食べたこともない。素晴らしいわ。

「砂糖だけでなく蜂蜜も使われている。ニンニクの香りに、隠し味に……、これはお醤油ね。美味しい……」

日本人に合うように工夫されている。

 思わず頬が緩む。

「お姉ちゃん、あとはお待ちかねのデザートだよ」

 進は瞳をキラキラさせて言う。

「きょうのデザートは、チョコレートアイスですよ」

 君代が説明する。

「やった! チョコレートアイスってね、すごく甘くて冷たくて、口の中で溶けちゃうんだよ。お姉ちゃん、きっと好きだよ。美味しいんだよ」

 進は行儀よくサーブされるのを待っている。

 大好きなご飯を待つ子犬のように見える。

 史恵も君代も進のことを温かい目で見守っていた。

 ここは愛であふれている。

 馨は胸がじんとした。

「お姉ちゃん? お腹いっぱい? アイス好きじゃない?」

 進が心配する。

「チョコレートアイス、食べたことないの。とても嬉しいわ。それに進くんがみんなに愛されているんだなって思って……」

「そう? 今までのおじさんの婚約者たちは僕を邪魔者扱いしたよ」

 進は口を尖らせた。

「そうなの?」

「だから、いたずらしてやったんだ」

 進は得意げに胸を張る。

「戦ったのね?」

 馨は笑った。

「そうともいうかな。でもお姉ちゃんは別。僕のことを嫌わないし」

 進は笑った。

 たしかに泥だらけで葉っぱを頭につけ、足に擦り傷を作って登場したら、ご令嬢たちはしかめっ面をしただろう。

 それに晃政さんと二人っきりになって、愛を囁きたかったに違いない。気持ちはわかるが、進くんも大事な家族。進くんをないがしろにするなんてありえない。

 馨は苦笑した。


 夕食後、馨の部屋にパジャマ姿で進がやってきた。

「お姉ちゃんともっと遊びたい」

進がぐずり始めた。

眠い証拠だ。そんな姿も可愛らしい。

「明日また遊びましょうね」

馨が進の頭をなでる。

「明日も、次の次の日も、お姉ちゃんはずっといるんだね。いなくなっちゃいやだよ? 絶対どこにも行かないでね」

「ええ。どこにも行かないわ」

 進はほっとした顔をする。

「進坊ちゃま、お寝坊したら、馨様と遊べません。明日は早く起きないといけませんね?」

 史恵が進の後ろに立った。

 進の顔が引きつる。

「え? そうだ。明日はお姉ちゃんと朝ごはん食べないといけないんだ!  じゃあ、お姉ちゃん、おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 馨は小さく進に手を振る。

 進は何度も振り返りながら戻っていった。

「馨様、そろそろお休みになられますか?」

「まだ早いかしら。あの……。旦那様は?」

 君代が馨の休む支度を手伝いに来た。

「もう少し遅いかもしれません。いつも夜更けにならないと帰れないようでして」

「そうなんですか。晃政さんのお夕食は?」

「旦那様はだいたい食べずに寝てしまいます。そのせいでお痩せになってしまわれて……」

 君代は苦々しい顔をする。

 なるほど。だから顔色が悪く、頬がコケていたのね。

「お台所を借りても?」

「ええ、この時間は料理長も使っていませんから、大丈夫ですけれども?」

「旦那様に少しだけ差し入れをしてあげたいのです。よろしいですか?」

「もちろんです! きっとお喜びになると思います」

 君代は前のめりで頷いた。


 パチン。

 キッチンの灯りを付けた。

 整理整頓がされていて、清潔に保たれていた。

 キッチンや道具を大切にしていることがうかがえた。

「卵、さつまいも、牛乳、砂糖、肉桂の粉……。これでサツマイモのカスタープディングを作ります」

「馨様は、プディングが作れるのですか?」

 君代が不思議そうに聞く。

「芳川の家はもともと御広敷膳所台所頭おひろしきぜんしょだいどころがしらですから。妹の佳子は台所の仕事はしておりませんが、私は実母から手ほどきを受け、台所の仕事をしておりました」

 勝手に料理長たちの包丁を借りることは気が引けた馨は、手拭いから包丁を取り出した。

「そうなのですね。それはご自分の包丁ですか?」

 君代は目を丸くした。

「実の母も料理好きで研究熱心で、いっしょにデザートを作ったりしていたのです。母と台所にいるのは楽しかったですね」

 馨は君代が心配しないように、慌てて言葉を追加した。

 芳川家は貧乏だったため冷蔵庫はなかったが、平野家のキッチンには、電気冷蔵庫がある。

 氷冷蔵庫はあまり冷えないので、高価な電気冷蔵庫を買ってあるのだろう。さすがである。

 馨は感心した。

「ええ、妹の佳子が小さかった時は、おやつも作っておりました。あの、蒸し器はございますか?」

「こちらに」

 君代は棚から取り出す。

「カスタープディングは簡単です。卵に牛乳で栄養もあります。さつまいもを混ぜれば、腹持ちもいくらかよくなりましょう」

 さつまいもを手早く切って、ゆでる。

その間に卵液に牛乳、砂糖、肉桂を入れた。

「竹串が通ればさつまいもは茹で上がりです」

 さつまいもの裏ごししたものをさらに加えてかき混ぜる。

 グラグラと沸いた鍋に蒸し器をセットした。

 二十分ほど経って、馨はそっと蓋を開けた。

竹串をさして、固まっていることを確認する。

「うわ、美味しそう」

 君代が蒸し器の中をのぞく。

「温かいものも美味しいですよ。多く作っておいたので、味見をしましょうか」

 いたずらっ子そうな目で馨は君代を誘う。

「はい。ぜひ!」

「あら、楽しそうですね」

「史恵さんもどうですか? さつまいものカスタープディングです」

「まあ、ありがとうございます。ふふふ」

 史恵と君代は満面の笑みだ。

 甘いものがお好きでよかった。

 三人はゆっくりスプーンでプディングをすくう。

「甘くて幸せ」

 味わうように一口食べ、君代と史恵がほほ笑む。

「お姉ちゃん、ずるいな」

「進くん!」

「坊ちゃま!」

「進坊ちゃま」

 三人は驚いた。

「美味しいものをこっそり食べるなんてずるい」

 進は頬を膨らます。

「進くんの分は冷蔵庫に入れておく予定だったのよ」

「本当に?」

「温かいうちに食べちゃう?」

「うん! 味見だよ。おじさんのために」

 進はぺろりと唇をなめた。

「美味しい! 僕、寝る時間にプディングを食べたの初めて」

 進はパクパクと食べていく。

 史恵と君代は苦笑している。

 よかった。

「お姉ちゃん、あーんして。僕のプディングのほうがきっとおいしいよ」

 進が馨の口にスプーンを運ぶ。

 ぷるんとスプーンが揺れて、馨の口までなかなか届かない。

「ほっぺについちゃったかも。お姉ちゃん、ごめんね」

「ううん、とっても美味しいです。進くんのプディングは特別ですね」

 馨と進は笑いあう。

「簡単なデザートですけれど、晃政さんは喜んでくれるかしら」

「おじさんは甘いものが大好きだよ」

「それはもちろんでございますよ」

「そうでなかったら、坊ちゃまを叱ります」

 君代と史恵が鼻息を荒くした。

「おじさんがいらないっていったら、また僕を起こして。僕が食べちゃうから」

 進も加勢した。

「では、旦那様が帰ったら、お夜食としてお出ししますね」

 馨は太鼓判を押してもらい、胸をなで降ろした。



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