二
二 はじめまして、旦那様
「どうして、私が望まれたんだろう」
大きな振り子時計が秒針を刻む音がする。
「こちらでお待ちください」
カーペットの敷いてある応接室に通された。ソファーに座って待つように、数分が経つ。
芳川家は日本家屋で平屋づくりだったし、文化的な生活をしようにもお金がなかった。さらに言えば、馨は物置小屋に住んでいた。
そわそわして、落ち着いて座ることができなかった。
「馨お姉ちゃん!」
勢いよくドアが開いたと思ったら、さっきの子ども、平野進が現れた。
ケガした足はきちんと手当てしてあるのをみて、ほっとした。
「進くん、ここに来てもいいの?」
「……うん、たぶん」
進は上目遣いになる。
来客時に応接室に子どもが来たらと怒られるはずだ。
それでも馨のところに来たかったということか。
「本当かしら?」
馨は苦笑する。
「お姉ちゃん、内緒だよ?」
「ふふふ。そうね、内緒。私の話し相手に来てくれたのね」
「そうともいうかな。ねえねえ、お姉ちゃん、ここにお嫁に来たの?」
「晃政様がいいとおっしゃったらね」
「いいに決まってる。お姉ちゃん、可愛いもん。おじさんがだめっていったら、僕のお嫁さんになればいいよ」
「まあ! 私はもう十九歳ですよ」
「僕だって、そのうち大きくなるよ?」
「たしかに! そうですね」
進の明るさが微笑ましい。
「僕のお父様とお母様、流行り病のチフスで死んじゃったんだよ。僕が一人になっちゃったから、おじさんが助けに来てくれたんだ。僕が大きくなるまで一緒に住んでくれるって」
「大変だったんですね」
なるほど。晃政さんの子どもではないのね。だから、おじさん呼びなのか。
「おじさんさ、忙しいんだよ。死んじゃったお父様の仕事もしないといけないし、僕は我慢しないといけないんだ。僕はね、おじさんにずっとそばにいてほしい」
「私も母を亡くしました。お気持ち、お察しします」
「お姉ちゃんもなんだねえ」
進の目に涙が浮かぶ。
きっとたくさん寂しい気持ちを我慢していたのだろう。
そっと手拭いで涙を拭いてあげた。
「お姉ちゃんには恥ずかしいところばかり見られちゃうな」
「そんなことありません。まだ五歳なんですから、いいんですよ」
馨はそっと進の頭をなでる。
「坊ちゃま、またこんなところに来て。一階は大人の過ごすところと言ったでしょ」
史恵がやってきた。
「だって、馨お姉ちゃんはおじさんのお嫁さんなんだろう? 僕が見定めてやろうと思ってさ」
「そうでしたか」
史恵が吹きだしそうな顔になっている。
強気な態度に変わった。
これはテストだったらしい。
「お姉ちゃんは優しいし、合格だよ」
進は片目を閉じて笑った。
さっき見せた悲しい表情はなくなっている。
本当に晃政様のお嫁さんになれればいいんだけど。私にはもう帰る場所はない。
馨の心がちくりと痛む。
「子どもが何を言っているんですか。早く自分の部屋に行きなさい。晃政様に言いつけますからね」
「史恵はガミガミだなあ」
「なんですって。坊ちゃま! 今日は許しませんからね。もう少し馨様はおまちくださいね」
史恵は進の後を追いかける。
入れ替わりに使用人がワゴンで紅茶を運んできた。
「君代と申します。馨様のお世話をさせていただきます。乳母の史恵の娘でございます。よろしくお願いします」
「あ、こちらこそよろしくお願いします」
馨は慌てて立ち上がって礼をする。
「馨様は、座っていらしていいんですよ」
君代はほほ笑んだ。
「は、はい。慣れないもので……、すいません」
馨は顔を赤くする。
「あの、晃政様は?」
「晃政様は急な仕事が入ってしまったようで、遅くに帰宅するとのことです」
「そうなんですね」
仕事で晃政はいないらしい。
「あの、私がお茶を入れましょうか?」
「馨様がですか?」
君代は驚く。
「実家では私の仕事でしたから」
馨は静かに立ち上がった。
「馨様、その手は?」
「ああ、ちょっと荒れてしまって。お恥ずかしい」
「馨様が水仕事もなさっていたのですか?」
「ええ、使用人が少なかったもので……。台所仕事などは私が担当だったのです」
台所の仕事は好きだったのだし、誇りがあったが、芳川家での立場が透けてみえるようで、馨は急に恥ずかしくなった。
「馨様はここに座っていてください。そのうち母も参りますから」
君代は丁寧にカップを温め、紅茶の葉をポットに入れた。
人に入れてもらうなんて、何年ぶりだろう。
優しくされて、目頭に涙が浮かぶ。
「ごめんなさいね。私ったら、いやあね」
「馨様は旦那様の奥様におなりになります。だから、ここは馨様の家です。私たちが馨様をお守りいたしますからね。何も心配はいりません」
君代に言われて、涙が零れ落ちた。
義理母と妹に疎まれ、もう実家には帰れない。そんな内情がばれていたのだろう。
胸が熱くなる。
「まあ! 君代、なんてことを。奥様を泣かしたのかい?」
「ち、違うわ」
史恵が君代を咎めた。
「私が勝手に泣いてしまったの。君代さんは悪くないわ」
「馨様の手をみて? いくら将軍様の台所を支えたお家とは言え、ひどいわ」
君代に言う。
史恵は馨のマメのできた、荒れた手を見て驚いた。
「馨様の頬も片方が腫れている気がします。すぐに冷やすものと薬を持ってまいりますね」
史恵は駆けていく。
母が亡くなってから、誰からも心配されたことがないことに気が付き、他人のやさしさに胸が締め付けられた。
この家の人たちは情け深い。
絶対にお役に立ちたい。
馨は決意した。
「馨様、お荷物はどちらに?」
君代が尋ねる。
「これだけです」
「そうでございますか」
君代と史恵が少し驚いた顔をしたが、すぐに元の表情に戻った。馨に部屋を案内する。
「こちらは馨様のお部屋です。お隣は旦那様のお部屋でございます」
「進さんのお部屋は?」
「ここを少し行ったところにございます」
君代が指さした。
「お疲れでしょう。夕飯の時刻までゆっくりとお寛ぎください」
史恵がドアを開けた。
大理石の白いマントルピースに可愛らしいシェードのランプ。ふかふかのベッドもある。
「ベッド! 初めてだわ」
馨は腰かけると、スプリングの反発を感じた。
「夢みたい」
馨はごろりと横になると、緊張と疲れが出たせいか瞼が重くなった。
気が付くと、夕闇が迫っていた。
「失礼します。馨様、旦那様がお帰りになります」
史恵が起こしに来た。
「ごめんなさい。うっかり寝てしまって」
「いいんですよ。緊張されていたのでしょう。だいたい、花嫁を迎えに行けなかった旦那様が悪いのですから」
史恵が申し訳なさそうな顔をする。
「お仕事が忙しいんですもの、仕方がないわ」
「馨様は優しいのですね」
君代がほほ笑んだ。
玄関の前のホールは、大きな花瓶にたくさんの季節の花が生けられていた。
よく磨かれた床には赤い絨毯が敷いてある。
「さあ、馨様。やっと旦那様が帰ってきましたよ」
君代が笑顔になる。
車寄せの車のエンジンが消えた。
馨の胸は高鳴りっぱなしだ。
第一印象が大事よね。
笑顔でお迎えしないと。
「ただいま!」
「お帰りなさいませ。坊ちゃま」
史恵と君代はコートと鞄を持った。
「お帰りなさいませ」
馨は頭を下げる。
ちらりと見た晃政は、茶色い短髪で眼鏡をかけていた。
眼鏡をかけていても、顔立ちは整っているのが目立つ。背が高いのもあり、洋装がよく似合っていた。
「私の婚約者は君かい?」
平野晃政が馨の前に立った。
爽やかな笑顔に馨はドキッとした。




