十一
十一 夫の忘れ物
平野家の図書室は各分野の本が取り揃えてあった。
「石鹸の本があるわ。英語に独逸語、晃政さんって努力家なのね」
馨は感心した。
「絵本や読みやすい本もあるといいわね」
本棚を一つ一つ探していく。
誰かがパタパタと廊下を走る音がした。
「進くん?」
いや、進くんではなさそうね。足が速いもの。
君代さんならもう少し早く走るだろうから、きっと史恵さんね。
史恵さんが走っているなんて珍しいわ。
何があったのかしら。
「馨様! 旦那様からお電話です」
「え?」
この家には自動電話もあるの?
高価なものなのに。晃政さんは商いもされているし。緊急なこともある。
馨は驚いた。
「急いでください」
史恵に案内され、電話口に出る。
「馨さん、忘れ物を届けてくれませんか?」
晃政さんの声がした。
電話って、声が聞こえるのね。
感動した。
「はい、もちろんです。あの、私の声は届いていますか」
「ええ、聞こえていますよ。机の上にある、契約書を取ってきてほしいんです。北条の名前も記載されています。封筒に入っているので、書類を確認してから持ってきてください」
「わかりました。すぐに会社にお持ちします」
晃政さんから仕事を頼まれ、嬉しくなった。
電話って面白いわね。どうやって声が届くのかしら。
最近、女性の交換手が活躍しているっていうわ。
もしもの時は、電話交換手になるというのもいいわね。楽しそうだわ。
「旦那様は何と?」
史恵は心配そうに見る。
「忘れ物をしたそうです。契約書を持ってきてほしいと」
「では、君代に届けさせましょうか」
「私が頼まれたので、私が行きます」
馨が胸を張る。
「ふふふ。そうですか? では、お供に君代を連れて行ってくださいね」
史恵はほほ笑んだ。
晃政の書斎に入ると、机の上に封筒が置いてあった。中を確かめると、契約書とかいてある。
難しいことはわからないが、石鹸工場の売買について触れていた。北条昭一さんのお名前も記載されている。
晃政さんは石鹸を全国に広げ、病気のない世界を作りたいと常々言っている。今は石鹸工場をいくつか持っているが、もっと他にもアイデアがあるのだろう。
医学書や薬の本、経済、亜米利加やドイツの銀行経営の本、建物の図面が机の上に広がっていた。
夢を持っている晃政さんは本当に素敵だわ。
いつか晃政さんからどんなことがしたいのか、話が聞きたいな。
「書類が見つかりましたわ」
馨が階下に降りると、君代は史恵からバスケットを受け取っていた。
玄関を開けると、すでに人力車が待機していた。
史恵さんの段取りは完璧ね。
馨は君代と人力車に乗った。
「晃政様の会社ですね」
車夫は勢いよく走りだした。
先日降った雨のせいで所々ぬかるんでいる。
「大変ですね」
「仕方がねえです。毎日晴れていてほしいですが、それじゃ水がなくなり困っちまいますからね」
車夫はカラッと笑った。
歩いていくよりも数倍早い。
車夫には世話をかけるけれど、人力車とは便利なのだと実感した。
そろそろ大きな建物が見えてきた。
煉瓦や石造りの商業用の建物が立ち並んでいる。
「もうすぐ着きますよ」
車夫が声をかけた。
ふと歩道を見ると、おじいさんが足をさすりながら地べたに座っている。
「ちょっと止めて」
馨は人力車を降り、おじいさんに近づいた。
「どうかされましたか?」
よく見るとおじいさんの足元は泥まみれになっている。
「水溜まりで足を滑らせたんですよ。お恥ずかしい」
「お怪我は?」
「ちょっと足を捻ったみたいで……」
おじいさんは顔をゆがませた。
「君代、人力車を譲ってさしあげましょう。荷物もおありのようですし」
「そうですね。馨様」
君代も頷く。
「そんな、申し訳ないです。お嬢様たちも急ぎなのではないですか?」
「大丈夫です。用事はすぐそこなので。この人力車をお使いください」
おじいさんは何度も礼を言って手を振っていた。
「さ、晃政さんのところに参りましょうか」
馨と君代は少し早足で晃政の会社の建物、平野ビルヂングを目指す。
「ここね」
看板に平野貿易と書いてある。
重厚な扉を開くと、スーツを着た青年たちが早足で歩いていた。
「忙しそうね」
「この辺りは一丁紐育と言われておりますからね」
君代が説明する。
「すごいわね」
晃政が戦っている世界を垣間見た気がした。
「こちらが社長室です。旦那様はたまに忘れ物をなさるんです。これからは奥様になる馨様が忘れ物係になりますから、覚えておいてください」
君代は笑みを浮かべた。
「晃政さんって忘れ物をなさるの? 完璧な人だと思っていたわ」
「実は、晃政坊ちゃまは小さいころからよく忘れ物をされていたんですよ。おとなになって直ったんですけれど、お仕事が忙しくなると、こうしてたまに忘れるのです」
君代が苦笑いする。
「お忙しそうだものね。私も頑張ってお手伝いするわ」
「それがよいかと」
君代は小さくほほ笑んだ。
「失礼します」
ドアを開けると、晃政は机を前に唸っていた。
「あ、馨さん! いらっしゃい」
晃政は満面の笑みになる。
「君代も参りましたけど、旦那様」
君代が言う。
「君代もありがとう。二人ともよくきてくれたね」
晃政は慌てて付け足した。
「こちらでよろしいですか?」
風呂敷から封筒を取り出す。
「ああ、この書類だよ。助かったよ。午後から北条が来るんだ」
「お忙しいですね」
「でも、昼食を食べる暇はあるよ。一緒にどうだい?」
「もちろんです!」
馨は嬉しくなった。
「料理長からお弁当ですよ。お茶の用意をしてきますから、旦那様と馨様は先に召し上がっていてください」
君代がバスケットの中身をローテーブルに広げる。
きょうはサンドウィッチである。
芥子を塗ったパンの間に牛肉のロースが挟んであったり、玉子やジャムがはさんである。
デザートはミルク・ババロームだ。
「馨さん、元気だったかい?」
朝会ったばかりというのに、晃政は心配性である。
「はい。晃政さんは?」
じっと見つめられ、馨はポッと赤くなった。
「正確に言うと、馨さんが来てくれたから元気になった」
「そうなんですか」
きっと仕事で神経をすり減らしたのだろう。
晃政の様子をうかがうと少し疲労の色が見えた。
「手を握ってもいいだろうか? もっと元気になりそうな気がするんだ」
「もちろんです」
晃政がゆっくりと馨の手を包み込む。
「馨さんに触れて、力が湧いてきたよ。午前中に電話があって、突然、私の石鹸工場を買い取りたいという会社が現れたんだ。その石鹼工場は、元々北条に譲る計画があってね、どこからかその情報を聞きつけたんだろうな。参ったよ」
「それで北条さんのお名前が契約書にあったのですね」
「北条ならビジネスセンスがあるし、石鹸工場の理想を追求してくれるからね。売るなら北条にと思っていたんだ」
「それがいいかもしれません」
馨が頷いた。
「きっとお昼を頂けばもっと元気になりますよ」
「そうだな。とても美味しそうだよ」
「さすが料理長ですね」
急なお弁当なのに丁寧な仕事だとよくわかる。
「買収を申し出た会社はね……、馨には話しておきたいんだけど」
「ちょっと待った! 誰よ、その女。近づきすぎよ」
晃政の会話を断つようにして、女性が入ってきた。
パーマネントをあてた、流行りの髪型をした美人である。強く甘い、西洋のお化粧品の匂いがした。
晃政が大きなため息をついた。
「なぜ女がここにいるの?」
女性がキッと馨を睨む。
「馨さんは、俺の婚約者だからね」
晃政は馨の肩を強く抱く。
「なぜ晃政さんに触るのよ!」
「俺が触っているの。俺が一緒にいたいのは馨なんだ。君のことは友人の妹としか見れないよ。そういう君も、本当は俺のことが好きというわけではないじゃないだろう。ただ、いつまでも三人でいたいだけさ。でも、そういうわけにはいかないんだよ」
「ひどいわ!」
女性は大きな声で泣き始めた。
「あの……、この方は?」
馨は恐る恐る聞く。
「私、城之内美智子と申します。晃政さんの妻になる女です」
「え?」
馨は驚いて何度も瞬きする。
血の気の引く音がした。
大好きな晃政さん……の、妻?
私が婚約者のはずよね?
どうしましょう。
私、晃政さんと別れないといけないの?
馨の目に涙が浮かぶと同時に、自分は晃政に好意を抱いていたことを自覚した。
「馨さん、この人の言うことを聞いてはいけないよ。俺を信じて。俺の妻は馨さんだ」
晃政が馨の手をぎゅっと握る。
「そうですよ、旦那様を信じてあげてください」
君代が手を腰にあげた。
「あら、君代、いたの?」
「いましたよ。お茶の準備をしていました。相変わらず美智子さまはお元気でいらっしゃいますね」
「当たり前よ」
美智子はつんと顎を上げた。
泣いてない?
あれは泣きまね?
「もうすぐ美智子さまのお兄様がいらっしゃいますよ。そうそう、馨様に怪文書を送るのもおやめくださいね」
「怪文書? なんだそれは」
晃政が問う。
「旦那様、見てください。馨様宛にこんな手紙が」
君代は「私こそが隣に並んでもいい人物。婚約破棄して、晃政様を私に譲りなさい」と書かれた手紙を見せる。
「はああ、この手紙は美智子さんの筆跡だね。馨さん、心配かけてすまなかった」
晃政がため息をついた。
「お邪魔するよ。美智子が何をしたんだい? 外まで聞こえているぞ」
北条が苦笑する。
「お、お兄様……」
美智子は狼狽えた。
「二人は兄妹なんですか?」
君代にこっそり聞く。
「北条昭一さまと美智子さまは兄妹です。数年前、ご両親が離婚されましてね、今は別々の苗字でございますが」
「そうでしたか」
そういえば、新聞に離婚した華族の記事が載っていたな。
馨は頷いた。
「僕が晃政の石鹼工場を買う予定なんだが? お前、何しに来た?」
「未来の花嫁に晃政さんの石鹸工場を譲ってもらえないかと頼みに来たんですのよ。お兄様より私の方がいいと思いまして」
昭一と美智子は睨みあう。
「ご兄妹は仲がよろしいの?」
小さく尋ねる。
「北条昭一様、美智子様とは、小さいころから親しくしておりました。美智子さまは、あれで人見知りでしてね。お友達が少なく、寂しがり屋でして……。ご両親が離婚され、昭一様と離れ離れになり、昭一様や幼馴染の旦那様に会えなくなったのがショックだったのでしょう。何かと昭一様と張り合って、旦那様のところに来るんですよ」
君代は馨にお茶を勧めた。
「美智子さん、俺は馨さんと結婚するよ。石鹼工場は三つあるから、昭一と話し合ってくれないか。兄妹は仲良くあるべきだと思うよ。こんなことで喧嘩別れするのはばかばかしいじゃないか」
「そういうことなら、お兄様、私に工場の一つをください」
「バカ言っちゃ困るよ。お前は工場経営に興味はないだろう」
「興味は……ないですけど。でも、だって、こうでもしないと、お兄様と絡むこともできないですし、晃政さんに会うこともできないじゃないですか。私は寂しいのです。お友達もおりませんから」
美智子の顔は再び泣きそうである。
「美智子さまは経営の手腕がおありで、缶詰工場を経営されているんですよ」
君代が説明する。
美智子さんも企業家として頑張っているらしい。
きっと誰にも頼れず、孤独にさいなまされていたに違いない。
北条さんにどう頼ったらいいのか、わからなかったのだろう。強い言葉で無理やりそばにいようとするとは、なんて、不器用な人なのだ。
私への脅迫状も、寂しさのあまり、おかしな形で噴出したといったところだろうか。
現に晃政さんが美智子さんを断っても、美智子さんはさほどダメージを受けた様子がない。
「あの、美智子さん、私とお友達になってくれませんか?」
馨は申し出た。
「はあ? あなたとですか?」
美智子は嫌そうな顔をした。
「美智子、いい加減、人見知りを直さないといけないよ。こちらの馨さんは、天才的な料理のセンスの持ち主なんだ。今度カフェー・シャンゼリゼのメニュー開発に携わってもらおうかと思っている。美智子も仲良くするといいよ」
昭一がにこりと笑った。
「本当にカフェー・シャンゼリゼのメニュー開発をするのですか?」
「晃政がいいと言ったらね。美智子にも新メニューができたら食べに来てほしいな」
昭一はほほ笑んだ。
「そう言われたらいいとしか言えないだろう。馨さんがやりたいなら、手伝ってあげてくれ。嫌なら断っていいよ。むしろ断ってほしい。そんな暇があったら、俺のそばにいてほしい」
晃政はまじめな顔で言う。
「ひどいなあ、晃政は。それは焼きもちだろう」
昭一は冷たい視線を送る。
「うるさい」
晃政はコホンと咳をした。
「あなた、料理ができるの?」
美智子が首を傾げた。
「ええ、少しですけれど」
「少しじゃありませんよ、進坊ちゃまのおやつを作ったり、料理長の隠し味をあてたり、本当に料理がお上手なんですから」
君代が説明する。
「それはすごい。あなた、缶詰めを食べたことはある?」
美智子が近づく。
「いいえ……。まだ食べたことがないです」
「今度感想を聞かせてくれない? 私、缶詰工場を持っているの。北海道でサケの缶詰をつくっているんだけど、日本で浸透させたくて、缶詰を利用したレシピを考えていたところなの」
美智子が目を輝かせた。
「素敵ですね!」
馨が口角を上げた。
「そう? そんなこと言われたことないわ。他にタケノコやグリンピースの缶詰もつくっているわよ」
美智子は照れる。
「サケとタケノコで……。缶詰のタケノコでタケノコごはん、サケの缶詰でサラダでもいいですね」
馨が提案した。
扉をノックする音が聞こえた。
「失礼します」
おじいさんが入ってきた。
「じいや! いいところに来た。馨さんに缶詰を出してあげて」
美智子が命じた。
「あの、先ほどは助けていただきありがとうございます。おかげで助かりました」
じいやが美智子に転んだ旨を説明する。
「馨さん、礼を言うわ」
美智子が頭を下げた。
「足は大丈夫ですか?」
「しばらく休んだら、だいぶ良くなりました」
おじいさんが風呂敷から缶詰を取り出す。
「これね、新作のサケの缶詰なの。うまくいったら輸出も考えているわ。今度アイデアを聞かせて」
美智子は君代に缶詰を手渡す。
「缶詰は非常食にもなりますよね。試食会を開いて、周知に努めたらどうかしら」
「さすがだわ。馨さんって、けっこういい人なのね。兄さんが褒め称え、晃政さんが惚れるはずだわ」
「ブーッ」
晃政と昭一が一斉にお茶を噴く。
「美智子さん……」
「おまえねえ」
晃政と昭一が苦情をいう。
結局、美智子は石鹼工場を諦め、北条昭一が晃政の石鹼工場をすべて買い取ることにし、その代わりに、缶詰のレシピを馨が考えると決まった。
「またね」
美智子は嬉しそうな顔で昭一と帰っていった。
君代は気を利かせたのか、用事があるので先に帰るといって、退散している。
晃政と馨は、社長室で二人きりだ。
「どうして石鹼工場を売ったのですか? 日本の衛生状況をよくしようとしているのですよね?」
馨は不思議に思ったことを聞いてみた。
「ああ、日本の衛生状況をよくして、いい国にしたいと思っているよ。でも、品質の良い石鹸だけあれば、日本は良い国と言えるかい?」
「言えないですね」
「マスクや消毒薬、薬もよいものが必要だ。質の良いものが日本の力を底上げするんだよ。だからね、軌道に乗った石鹼工場を売って、違うことをしようと思うんだ」
晃政は自分の考えを話し始めた。
たしかに石鹸だけあっても、病気はなくならない。
日本をよい国にするなら、日本で良い品物を生み出さなくてはいけない。
馨は頷いた。
「それにね、進のこともある」
「進くんですか?」
「進はこれから日本を背負う人間だ。今は両親を亡くし、傷ついている。できるだけ早く、大きくなるまで大切に見守ってあげたいんだ。できたら馨さんと一緒に」
「……はい」
まだ小さい進のために、仕事をセーブして両親の代わりになろうとしていたんだ。
晃政さんはお優しいわ。
馨は胸が熱くなった。
「だからね、日本をさらに良くして、進のそばにいる方法を考えたんだ。俺は、工場を売ったお金で銀行をつくる。そして、日本のものづくりを支援するんだ。作った品は進が後を継ぐ予定の貿易会社で輸出する」
晃政が語った。
「もう一つ。大事なこともある。俺は、君と仲良く、ずっと暮らしたい。進も含め、穏やかに生活がしたいんだ」
熱っぽい目で晃政に見つめられ、馨は目が離せなくなった。
顔がだんだん近づいてきたが、逸らすこともできない。
思わず目を閉じると、唇に柔らかいものが触れた。
馨の頬を優しく触る、晃政の指の熱を感じた。
幸せな瞬間だった。




