十
十 佳子のグラタン
どうして私は不幸なのかしら。
床に這いつくばった馨を見る。
姉はボロを着ていても、無様な恰好をしていても美しかった。
涙を浮かべた顔にドキッとした。
どうしてそんなに綺麗なの?
悔しい。
私が、デパートで一番高い着物を買っても、パーマネントをあててドレスで着飾っても、決して姉はうらやましそうな顔をしない。
私のことが眼中になかった。
腹立たしかった。
だから、私は難題を吹っ掛けてみた。
「一週間以内にグラタンが食べたいから作りなさいよ」
最近洋食を出すレストランで、グラタンというものがあるのを聞いた。
「洋食でございますね。グラタンとはどんなものですか? 味は? 中に何が入っているのですか? 詳しく教えてください」
馨はしつこく聞いてきた。
「グラタンとは、グラタンよ。白くてとろりとしているらしいわ」
答えに困ってしまった。
美味しいという噂しか聞いたことがなかった。
「一度でもいいので、少しだけ頂けたら、家で作れると思うのですが」
馨は申し訳なさそうな顔をした。
「うちにはあんたにレストランで食べさせるお金なんかないわよ」
はっきり言ってやると、馨は悲しそうな顔をした。
数日後。食堂からチーズの香ばしい匂いがした。
もうすぐ夕食の時間だ。
食堂に行くと、馨がテーブルの準備をしていた。
「今日のメニューは何なの?」
「グラタンでございます」
馨はしれっとした顔で答えた。
「本当にこれがグラタンなの? 誰かに作らせたの?」
「私が作りました」
馨は小さく返事をする。
「勝手にレストランへ食べに行ったのね! 黙って、うちのお金を使ったのね!」
ムカッとしたので、大騒ぎしてやった。
「ち、違います」
「うちにはそんなお金がないのに、勝手なことをして。ただでさえ、あんたのことを置いてやっているのに」
お母様が馨の頬を叩く。
「違うんです」
馨は涙を浮かべた。叩かれた頬が赤くはれている。
ざまみろと思った。
「何が違うのよ。じゃあ、なぜグラタンの作り方を知っているのよ」
「洋食店の皿洗いや掃除を一週間する代わりに、グラタンを一口いただくことができまして……」
「は? バッカじゃないの?」
お姉様は平民の店の手伝いをしたのか?
華族として誇りはないの?
呆れてものも言えなかった。
「馨、勝手に家の外に出たわね」
お母様はもう一度馨の頬を叩く。
勢いよく馨は倒れ、動かなくなった。
うわ、痛そう。
お母様に逆らうなんて、信じられないわ。
「もういいわよ、お母様。いただきましょうよ。このグラタン、美味しいわよ」
こんがりと焼いたチーズにとろりとした白いソース。
お肉も入っている。
今まで食べたことがない、ハイカラな味。
どうしてお姉様は料理がうまいんだろう。
華族は料理をつくることはないから、無駄な能力だけれど。
佳子は肩をすくめた。
「何を騒いでいる? 夕食の時間だろう? これは馨が作ったのか? うまそうじゃないか。どれ、食べてみよう」
お父様がお母様を宥める。
「これは美味い。私は一度グラタンをご馳走になったことがあるが、その時よりもうちのグラタンのほうが美味いぞ」
「そうでございますか」
お母様はお姉様を虐めるのをやめた。
「へえ、初めての味だわ。なめらかなソースがとてもおいしい」
お母様が感心した。
お姉様が婚約者の家に花嫁修業に行ってしまってからは、町の料理人を雇ったんだけど、大味で美味しくなかった。
洋食はまったく作れず、毎日焼いた魚と煮物だ。
うちの食卓テーブルは茶色になった。
お姉様がいたらもっと美味しいものを作ってくれるのに。
お父様もお母様も言わなかったけれど、同じことを考えているようだった。
かといって、お姉様の支度金も結納金もすでに全部使ってしまっている。
私とお母様の新しい着物をいくつか買ったり、雨漏りをしていた三カ所の屋根を直し、床を張り替え、庭の手入れをしたら、なくなってしまった。
立派な料理人は雇えなかった。
そして、お姉様を取り返すこともできない。
味気ない食事で我慢するしかなかった。
ある日、お母様の機嫌がよく、鼻歌を歌っていた。
「佳子、よかったわね。縁談のお話があるのよ。同じ華族で、有名な北条様」
「ええ? 喫茶店を何店舗も経営されているという北条様?」
「そうよ。あなたは華族なのですからね」
お母様はほほ笑んだ。
お金のある華族はなかなかいない。
北条様ってどんな方かしら。結婚したら、美味しい洋食にドレスを着て、鹿鳴館でダンスとかできちゃうかしら。
夢がどんどん広がった。
「嫁入り道具も買わないとね」
「ええ、お母様」
「この縁談をまとめるためにはお金がいるのよ」
「でも、もうお金はないのでは?」
「あなたは何も心配いらないわ。お金はあるところからもらえばいいのよ。そのための姉妹でしょう?」
お母様が笑った。
「きっとお姉様はくださいますわ」
大きく頷く。
なければ、もらいに行けばいいのよ。
姉は優しいから、私やお母様が怒鳴って、叩けばくれるにちがいない。
だって、馨だもの。
お母様と二人で人力車に乗り込んだ。
ジャリジャリと音を立てながら、土埃がたつ。
お尻が少し痛くなってきたころ、平野家に着いた。
見たこともないくらい、大きな洋館だった。
こんなところに馨が住んでいると思ったら、腹が立った。
「馨、佳子の嫁入りの支度金と家を建て直すお金を用立てなさい。できるわよね? 妹の幸せのためですよ」
お母様が説明する。
「そんなことできません。帰ってください」
珍しくお姉様が抵抗した。
生意気な……。
お姉さまのくせに、私と同じくらい、いや、それよりも綺麗な着物を着ている。
顔色もよく、お姉様は前よりも美しくなっていた。
「あなたを育てたのは誰? 嫁ぎ先を決めたのは誰? どの口がそんなこというの?」
「やっぱり私が嫁げばよかったかしら。そうしたらこの家は私のものだったのに」
なんて豪奢な作りなの。
キラキラと煌めくシャンデリア。
素敵な洋画に、大きな生け花。
馨がすべてを手にしたのかと思うと、許せなかった。
「お金は差し上げることはできません。帰ってください」
「きょうは少しで構わないんだよ。晃政様から何か買ってもらったりしただろう? それを融通してくれるだけでもいい」
「できません。そんなこと、したくないです。晃政様からもらったものをまわすなんてとんでもありません」
「なんですって?」
お母様が眉間にしわを寄せた。
「早くよこしなさいよ。急いでいるのよ」
お姉さまは叩いて思い知らせないと、わからないのよ。
「痛い」
馨の頬から一筋の血が流れた。
バカな女。さっさと金を出せばこんな目に合わなかったのに。
もう一回叩いてやれば、考えも変わるだろう。
大きく手を振りかぶる。
「ちょっと、何するのよ」
いつのまに晃政が来ていた。
私の腕を握っている。
「平野家の嫁に何をする!」
晃政が大きな声を出した。
面倒なことになった。
お母様の顔色が悪くなった。
ふと見ると、晃政の後ろに美丈夫がたっている。
どなたかしら。素敵な人だわ。
うっとりとみていたら、お母様が私の袖を引っ張った。
あまり見ては失礼ってことかしら。
恥ずかしくなって俯いた。
「北条昭一様……。なんて素敵なのかしら」
佳子は帰り道何度も昭一のことを思い出していた。
「あれが佳子の見合い相手です。なんであそこにいたのかしら。佳子、帰ると言ったらすぐに帰るのですよ」
お母様がうるさいけれど、知ったことではない。
日に焼けたがっちりとした体つき。洋装がよく似合っていた。
精悍な顔立ちに賢さがにじみ出ていた。
完璧な人。
「あの人が私の将来の旦那様なんて、幸せだわ」
「佳子? 聞いているの?」
お母様がしつこい。
「はいはい。私の見合い相手なんでしょ。早くお見合いしたいわ」
「そうね、この前買った着物を着て行きましょうね」
お母様が勝手にいろいろ計画していた。
数日後、北条家から使いが来た。
「お見合いの日にちが決まったのかしら」
佳子は胸が高鳴っていた。
黒塗りの車がすぐに帰っていく。
佳子は応接室に駆け込んだ。
「今のは北条家からの使いよね。お見合いはいつになったの? 私、早く北条様と結婚したいわ」
「……」
お母様もお父様も黙っている。
「ねえ、何とか言って。いつなの?」
「見合いはなくなったよ」
健三は冷たい視線で佳子を見る。
「なくなったって、どういうこと? ねえ、お母様?」
「佳子……」
三保子は泣き始めた。
「なぜ泣くの?」
「この前平野家で北条昭一さんに会ったんだね? その時のことをよく思い出してごらん。馨に乱暴をし、金をむしり取ろうとしたんだろう。あれほどもう平野家に関わるなと言ったのに。お前たちは、私の命令に背いた。なんて取り返しのつかないことをしてくれたんだ」
健三はため息をつく。
「だって、お姉さまのものは私のものだもの。平野家の財産だって、少しくらいわたしにくれたっていいでしょ」
「お前は何を言っているんだ。馨は婚約と言っても、もう嫁いだようなものなんだぞ。この家の者ではない。三保子と佳子で追い出したんだろう」
「それが何なのよ」
佳子は眉をしかめる。
「北条さんはお前たちの狼藉を見て、苛烈な娘とその実家とは付き合いたくないと言ってきた。縁をつなぎたくないと。つまり縁談はなしだ」
「ええ?」
馨ほどではないが、自分だって美しいし可愛いのだ。どうして断るの?
佳子は驚いた。
「人間の美醜はいずれ衰える。そんなものは一文にもならない。それよりも人格だ。そんなこともわからないなんて。三保子、お前の教育はどうなっているんだ? 馨の支度金や結納金は何に使った? お前たちは着物やドレスなど着飾ることしか能がないのか」
健三の説教は続く。
「お父様、じゃあ、私の旦那様は?」
「そんなものはいない。このことが噂になったら、お前は永遠に嫁ぐことができなくなる。少しは自重しろ!」
佳子は健三に現実を突きつけられた。
「北条さんと結婚できないなんて、信じられないわ。ちょっとお母様、なんとかしてちょうだい」
佳子が三保子を揺さぶるが、三保子は俯いて黙っていた。
どうしてこうなったの?
どうして……。
だんだん頭が真っ白になっていく。
佳子はふらっと倒れた。




