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 痛い。

叩かれた衝撃の後、追いかけるように痛みを感じ、思わず左頬を押さえた。

 こんな時は耐えるしかない。

 ぼんやりとお父様が読むために置かれていた新聞を見つめた。

 華族の離婚と大きな見出しが見える。北条家をでて、城之内に戻ったと女性の写真が載っている。

 私が間違っていなくても、私の意見は通らない。

 無にならなくてはいけない。自分の気持ちを殺すのだ。

「私のご飯は、固めと言っているのに。いつまでたってもできないのね」

「お義母様、申し訳ありません」

 馨は美しい姿勢で頭を床につけた。

 整った顔立ちをひと房の黒髪が覆った。

そっと利発そうな瞳を伏せるのは、この後の衝撃を和らげるためだ。

義母の三保子は、父である芳川健三の後妻である。

父の健三と三保子は元々結婚の約束をしていたが、家の都合で馨の母・寿美礼と結婚することになった。

それから寿美礼が数年前他界した後、三保子が後妻に入ったのだ。

佳子は三保子の連れ子である。

三保子に苦労させたこともあり、健三は滅多なことで三保子と佳子を怒ることはなかった。

「私は柔らかめのご飯がいいの。何度言ったらわかるのかしら。それでは、誰とも結婚してもらえないわよ。私なんか同じ華族の、北条様と縁談が調いそうなのに。本当に愚図なお姉様」

 佳子が笑う。

 結婚? 縁談? 何のことだろう。

 ちらりとお父様を見る。

 お父様は居心地が悪そうな顔をしていた。

 妹の佳子は柔らかめのご飯が好きなので、いつものように柔らかく炊いたはずだから、いちゃもんである。

「あなた、馨は地味で愚図だもの。外に恥ずかしくて出せないわ。本当に平野家にやるんですか? あのお金持ちの華族に?」

 義母の三保子が眉根を寄せた。

「じゃあ、佳子をやるか?」

 健三が抑揚のない声で聞く。

「とんでもない! あそこには既に子どもがいるっていうじゃありませんか」

 三保子はすぐに否定した。

「私だって嫌よ。自分の子どもでもないのに育てるなんて」

 佳子が眉根を寄せた。

「芳川家の存続がかかっている。まだ、佳子の縁談相手である北条氏とは、話がそんなに進んでいない。別に嫁ぐのは、佳子でもいいんだぞ。馨のお相手は、立派な実業家の平野晃政様だ。佳子が子どもさえ目をつぶれば、いい縁談なんだ。私は、どちらがどっちに嫁いでもよいと思っている」

「そんなあ、ひどいわ。お父様」

「佳子には連れ子がいないほうがいいに決まっているじゃありませんか」

「お前たちが散在しなければ一番いいんだが……」

 健三はため息をつく。

「何がいけないというのですの? この前買った着物も、ネックレスも、舶来物の化粧品も必要なものですわ」

 現状がわかっていない佳子はむっとした。

 芳川家は一応華族ではあるが、時流に乗ろうと投資をすればうまくいかず、商売をしようと起業すれば倒産し、かなり財政が苦しいのだ。

 我が儘ばかりいう義母や佳子のせいで召使たちはとうにやめてしまい、長女の馨が家事をしていた。

 三保子と佳子は季節ごとに新しい着物をたくさん作る。あれがどれだけ家計を圧迫しているのかわからないのだ。要らない着物と家財道具を売って、何とかやりくりをしているのに。

 袖を通していない着物やドレスがタンスにしまってあるのを知っている馨はそっとため息をつく。

 家事、特に料理は実母の寿美礼から教わった。

 芳川家は江戸幕府の御広敷膳所台所頭おひろしきぜんしょだいどころがしらであった。御広敷膳所台所頭おひろしきぜんしょだいどころがしらとは、将軍の調理を行う責任者のことである。そのため、家人は味覚が鋭く、一度食べた料理が再現できるように厳しく教育されていた。

 馨も例外ではなかった。

 お母さまに料理のイロハを教わっていたから、この家の食事を担うことができたのに……。私が居なくなった後はどうなるのだろうか。

 三保子と佳子は、白い米と肉を使った料理が好きで、青物などの野菜が嫌いという、偏食の持ち主だ。

 誰か料理人を雇うのだろうか。その料理人の作った料理を食べて勉強したい。

 馨はぼんやりと考えていた。

「平野家には、お姉様がぜひ嫁ぎたいそうよ」

 佳子は意地悪な笑みを浮かべている。

 ああ、ご飯が冷めていく。もったいない。

 残ったものは、私が食べられるから別にいいんだけどね。

 きょうのメインディッシュはメンチボー。つまりハンバーグだ。

 お義母様たちの舌にあわなかったのかと不安になったけれど、お父様、お義母様、佳子の皿からもメンチボーは綺麗になくなっていた。

 美味しかったみたいでよかった。

 馨は胸をなでおろす。

 このメンチボーは、カフェー・シャンゼリゼから教わったものである。

 先日、カフェー・シャンゼリゼのシェフとコロッケ勝負をした。

馨はコロッケの下味に牛乳を入れたことで勝利をおさめ、新メニューのメンチボーを試食させてもらったのだ。

 美味しいものが好きで、自分の舌で味わったものは再現できる馨は、自分の家の台所でメンチボーを作ったのだった。

 さすがカフェー・シャンゼリゼのメンチボー、美味しかったんだな。

 嬉しくなって笑みがこぼれる。

 テーブルの皿の様子をうかがっていると、

「何を笑っているの? 私は怒っているのよ。この汚れは何? 皿の縁が汚れているじゃない。皿は綺麗にして出すべきでしょ」

 ソースが一滴、たしかに佳子の皿の端に垂れている。でもそれは、食べるときにソースが落ちたのではないか。私は料理を出すときにきちんと確認した。

 言い返そうかと思ったが、折檻が長くなるだけだ。面倒だわ。

三保子と佳子は抗えば抗うほど罰を与える。

 早く終わらせてほしい。夕飯の仕込みも終わっていない。皮むきと下茹では終わっているが、裏ごしがまだだ。

 馨は台所にある食材たちを思いだす。

しかし、一滴の汚れで殴るとは、よほど機嫌が悪いのね。もう一発、平手で叩かれれば、この場も終わるかしら。

 それよりも平野様って誰?

 買い出しに行く以外外出しないからなあ。

「お姉様は何もご存じないのね。平野様っていったら、石鹸で有名でしょ?」

「はあ……」

平野石鹸とは高級石鹸である。美しいポスターと包装紙なら見たことがある。

 うちの石鹸は泡立たない、質の悪い安い石鹸しか使っていないのだが……。

「そんなところにお嫁にいけるなんてうらやましいわ」

 え? お嫁? 誰が?

 思わず瞬きして健三を見る。

 健三は目を合わせてくれなかった。

「本当は佳子にピッタリの相手なんですけどね、佳子は優しいから馨に譲るって聞かなくて」

 お義母様と佳子は高笑いする。

「平野様は実業家として成功している。食うに困らないはずだ。よかったな、馨。ぜひ今日家に来てほしいと言われている。急いで支度をしなさい」

「え?」

 どういうこと?

 今すぐ平野家へ行けってこと?

「ここにはもう馨の帰る場所はありませんからね」

 三保子が意地悪な笑みを浮かべた。

「平野様にはお子様がいらっしゃるのよ。それはそれは大変みたいでね。何回も婚約破棄されているんですって。でも、お姉様は出戻ることはできないみたいね。せいぜいがんばって」

 佳子は愉快そうな顔をする。

「お金の心配はなくなったけれど、これからは誰を叩けばいいのかしら」

「もうお姉様をしつけて差し上げることができないなんて本当に残念」

 お義母様と佳子は意地悪そうな顔をしてつぶやいた。

 そっか。もう叩かれなくていいのか。お義母様と佳子に気を使うこともない。

 馨は聞こえないふりをして、そっと下がった。

 もうこの家に帰ることはないのね。

あ、そうだ。

 急いで台所に入り、手拭いに包丁を包んだ。

 この包丁はお母様と一緒に料理をした思い出のもの。この家にあった、お母様の宝石や着物はすべてお義母様や佳子に奪われてしまった。この包丁がお母様の唯一の形見、そして御広敷膳所台所頭おひろしきぜんしょだいどころがしらであった芳川家の魂のようなもの。

 大事に抱え、自室に足早に向かった。

 昼間でも暗い離れの物置が馨の部屋だ。

 もうこの部屋とはさようならか。

 包丁にレシピ帖、幾ばくかの着替えだけが荷物だ。どれくらい時間がかかるかわからないので、念のために竹筒の水筒と昨日のおやつの残りのクッキーを持つ。

 風呂敷包みを背負うと、玄関の扉を開けた。

 母屋では楽しそうな話し声が聞こえてくる。

 馨を見送るものは誰もいない。

 本当のお母様が生きていたら……。

 芳川家は名ばかりの華族だ。

 平野家は華族と縁がほしい、成金なのかもしれない。

 もしかすると、旦那様となる平野晃政様はだいぶ年寄りなのかもしれないし、私が後妻となるのかもしれなかった。訳ありでなければ、好条件の縁組を私によこすわけもないだろう。

 やっぱりお父様は……。考えるのはやめよう。もうここを出て行くのだから。

 いずれにせよ、ここよりはましであってほしい。

 馨はため息をつく。

母が生きていた頃は良かった。

大勢の使用人がいて、お父様もお母様もいつも笑っていた。

母が亡くなってお父様は変わってしまった。

馨は袖で涙を拭いた。


 ジャリ道を早いスピードで人力車は進む。

土埃が舞い上がり、時折大きく揺れる。

大きなお屋敷が立ち並ぶ界隈を走ってしばらくして、ある屋敷の車寄せに人力車は入っていった。

「馨様、着きましたよ」

 車夫が馨に声をかける。

「え? ここが平野家?」

「はい、そうでございます」

 車夫は笑顔で答えた。

ここが平野家の洋館らしい。

スクラッチタイルと三角の屋根。美しい石造りの大きな建物だ。

馨は門の前で見上げた。

こんなにすごいお屋敷に私が嫁ぐの?

佳子やお義母様が面白くないはずだわ。

納得した。

馨が呼び鈴を鳴らそうとすると、小さな男の子が柱の陰から顔を出しているのに気が付いた。

賢そうに輝く瞳に小さな鼻と口。今は愛らしいが、もう少し大きくなると整った顔立ちが目立つに違いない。

 気になるのは、手足が泥だらけで、膝小僧から血が出ていることだ。

 擦り傷を作った足が痛々しい。

 大丈夫なのかしら?

 馨は心配になる。

「お姉ちゃん、どこから来たの?」

「芳川の家から参りました。芳川馨と申します」

「馨お姉ちゃんはうちのお客様なの?」

 男の子は首を傾げた。

「お客様ではないと思うわ。これからこちらで暮らすことになりますから」

 きっとこの子が平野晃政の子どもなのだろう。

 服に泥がついているが、身なりの良さで分かる。

 馨はどこまで話すべきか迷った。

「ぼくは平野進。五歳だよ。お姉ちゃんといっしょに暮らすの、楽しみだな」

「進さん、ちょっと足をこちらに出して?」

 まだ幼いから、細い脚だ。

血が足首に向かって流れている。

手当てしてあげないと。傷が悪化してしまう。

まだ口をつけていない水筒を持っていたことを思い出た。

 馨は竹筒の水筒の水を少しずつ傷口にかける。

「いたたた」

「ばい菌が入ると大変ですからね。後できちんと手当してもらってくださいね」

 馨は手ぬぐいを裂いた。

「元気なのはよいことです。でも、ケガを放っておくと、病がやってきます。これでとりあえず応急処置しておきますからね」

 馨は手拭いを進の足に巻いた。

「お姉ちゃん、ありがとう。おじさんと同じことを言うね。石鹸で手を洗えってよくいうんだよ。転んだら、丁寧に水で傷を洗えとかね」

「よいおじさまですね?」

「うん、優しくなんでも知っているおじさんだよ」

「素敵ですね」

 おじさん? お父様ではなくて?

 馨は首をひねった。

「池にね、大きな蛙がいたの。捕まえたかったんだけど、逃げられちゃったんだ。すっごく大きいんだよ。今度一緒に見ようよ。ねえ、お姉ちゃん、蛙って食べられるの? 新聞に出ていたよ」

 進は両手を広げた。

「そんなに大きな蛙がいたんですね。冬眠から覚めたんでしょうかねえ。東京帝国大学の先生が亜米利加から持ち帰ったという食用蛙のことですか? あら、髪に葉っぱがついていますよ」

 馨がとってあげようと手を伸ばす。

「そうそう。亜米利加の蛙さん。うちにも来たのかな」

「どうでしょうね」

 馨はほほ笑んだ。

 そういえば、義妹の佳子も小さい時は、とてもお転婆だったっけ。どろ遊びが大好きで、でも蜘蛛や蛙が嫌いで、見つけると騒いでいたわね。

 あの頃は、私たち義姉妹は仲が良かった。

 大きくなるにつれて、互いの立場に気が付いて……、今は仲が悪くなってしまったけれど。

きっと佳子やお義母様にも言い分はあるのだろう。

だから馨は恨んではいない。むしろ先妻の子だからと言って、追い出さずにいてくれたことを感謝していた。

「坊ちゃま! 坊ちゃま!」

 年配の女性の声が聞こえた。

「怒られちゃう。お姉ちゃん、またね」

 進はさっと茂みに入っていった。

「坊ちゃま、外に出てはいけませんよ。あれ? 坊ちゃまは?」

「先ほどこちらにおりましたが……」

 馨は茂みを指さした。

「まあ、坊ちゃまったら、逃げたんですね。あら、ところで、貴方様は?」

「芳川馨と申します。平野晃政様と婚姻を結ぶために参りました」

 馨は深々と頭を下げる。

「あら! そんな時間でしたか。失礼しました。私は平野家の乳母兼使用人頭をしております、多田史恵と申します。さあ、さあ、こちらに」

 よく手入れされ、黒光りしている重い扉が開いた。



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