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煙と灰のエアロスカール  作者: 犬山三郎丸


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下層の歪み

第9章 蒸気の歪み

朝の底はまだ冷たいのに、匂いだけが先に重かった

煤と油と湿った鉄、その上に甘い焦げの気配が薄く乗る

焦げが甘い時は、布じゃない、肉でもない、樹脂か皮か、どこかの継ぎ目が熱で焼けた匂いだ


工房の中は昨日の夜より静かだった

静かというより、音が整っている

棚の端の黒い缶は決めた場所にあり、レンチの置き場もずれていない

堂島はそれを一度だけ確かめ、余計に手を動かさない

増やさない、回る形だけにする


リコットは工具台の前で息を吐いた

「昨日の蒸気さ、止められてよかった」

笑いに寄せない言い方だ

「白い息ってさ、見た目は霧なのに、触れたら刃なんだよね、底の事故はだいたいあれで終わる」


堂島は頷く

「刃って言い方が一番近い」

「見えてるのに、距離を間違えると終わる」


入口の影でシルビィが外套の縁を押さえている

目が少しだけ遠い

底の朝は、安心の顔をしない


リコットが言う

「で、今日は中層行きの札、来ると思う」

「昨日の受領票が通ったら、向こうも遠慮なく急かす」


堂島は短く返す

「了解」

それだけで段取りの骨が固まる


扉が小さく叩かれて、煤の薄い男が顔を出した

底の人間にしては靴が新しい、匂いが違う

中層側の使い走りだと、リコットの目が先に判断する


男は息を整えきらないまま言った

「中層の工業側から急ぎだ」

薄い金属片を差し出す、擦れた刻印、短い記号と数

「弁の小物と継手、今夜までに外窓口へ預けてくれって」


リコットは札を受け取り、刻印を指でなぞった

「数、いつもより多いね」

男が肩をすくめる

「向こうの現場が止まってるらしい、止まると上がうるさいってさ、だから今日中」


男はそれだけ言って出ていった

門の内側の事情は語らない、境目の外はそれ以上を言う場所じゃない


リコットが吐き捨てる

「止まってるのは向こうの都合なのに、急ぎだけはこっちに飛んでくる」

「こういう時に雑な封を作ると、門で止められて、結果こっちが損する」


堂島は札を見て言う

「封を崩さない」

「崩れたら、止められるのは箱じゃなくて順番だ」


リコットが横目で堂島を見る

「段取り頼むよ、おじさん」

確認じゃない、任せる言い方だ


堂島は短く返す

「了解」

それから言葉を足す

「手順は増やさない、札と形で回す」


リコットは少しだけ笑う

「それが一番助かる」


堂島は作業台を空け、木箱を三つ並べた

中層へ出すもの、今日の修理で使うもの、迷うもの

迷う箱を先に作る、迷いを流れに混ぜない、それだけで止まる確率が下がる


リコットが弁の小物を並べながら言った

「控えって言ってたけど、何を残すつもり」

「帳面は増やさないって言ったよね」


堂島は太さの揃った紐を一本取り出す

「帳面じゃない」

「封の形を揃える、結び目の位置も長さも同じにする」

「それと札を、刻印が見える向きで必ず添える」

「ほどけたら結び直す、って考えが一番危ない、封が変わった瞬間に疑われるからだ」


リコットが頷く

「なるほど、封を直した時点で詰む」

「直さない形にするってことね」


堂島は頷く

「……ああ」


入口の影のシルビィが札と紐を見ている

堂島は線を踏まずに声をかける

「今日は工房にいるか」


「いる」


「匂いが変だったら言ってくれ」

「蒸気の匂いは、俺より君の方が早い」


シルビィは一拍置いて

「匂い、言う」

短いが役割が決まる音だった


昼の工房は詰まった

蒸気漏れ、締め直し、欠けた歯車、止まったら終わる修理が続く

リコットは客を回しながら直し続ける、速い、強い、迷いがない

その速さがあるから工房は回る、でも速さは勢いにもなる

勢いは戻し忘れの入口になる


堂島は邪魔しない形で止める

声を上げず、置き方で止める

外した部品は左、戻す部品は右、締める前は手前、締めたら奥

紙に書かない、手の届く範囲に順番を作るだけ


夕方前、急ぎの分が揃いかけた、その時だった


外から音が来た

ヒィ、と高い笛みたいな音

工房の中じゃない、もっと遠い、でも昨日と同じ種類の音だ


シルビィの肩が一瞬で固くなる

「音」


リコットが顔を上げる

「今の、蒸気だな」

声の調子が変わる、遊びが消える


次の瞬間、ドン、と鈍い衝撃が底を叩いた

遠くで誰かが叫ぶ声

走る足音が増える、増え方が嫌だ、逃げる足音だ


堂島はもう迷わない

「行く」

声が低く落ちる

「リコット、道が分かるな」


リコットはレンチを掴みながら言う

「分かる、でも近づき方を間違えると焼ける」

「白い息の前に立ったら終わり」


シルビィが一歩だけ前に出る

「近い」

一拍置いて続ける

「角、二つ、避ける」

「人、多い所、通らない」


堂島は頷く

「了解」

それだけで役割が決まる


外へ出ると、朝の底が詰まって見えた

蒸気の唸りに荷車の軋みが重なり、人の声が上擦っている

角を曲がるたびに白い息が濃くなる、匂いが熱くなる

工房の熱とは違う、制御されていない熱だ


シルビィは走らない

走らないまま歩幅だけを変える

人の流れの端、壁の影、配管の下を選ぶ

堂島はそれに合わせる、勝手に前へ出ない

底では、前に出た者から削られる


角を二つ曲がった先で景色が切れた

路地の真ん中を白い刃が横に走っている

蒸気だ

配管が裂けて、細い一本が真っ直ぐ噴き出している

触れたら皮膚が持っていかれる温度、息を吸うだけで喉が焼けるやつだ


人が止まっていた

止まっているのに近すぎる

叫び声が上がる

「動けない」

「誰か引っ張れ」

「熱い、熱い」


リコットが反射で踏み込む

「まず止める」


堂島の声が鋭くなる

「止まれ」

短く強い

「その線の前に出るな」

「先に止める、助けるのはあとだ」

「順番を間違えるな」


リコットが一拍止まる

止まったことで目が戻る

勢いが引っ込む

その瞬間だけ、彼女の表情が別の影を映す

昔、工房で背中を押さえられて足を止めさせられた感覚

父親の声に似た厳しさが、今は腹じゃなく手を落ち着かせる


堂島は周りへ声を通す

怒鳴らない、でも押し切る

「聞け、走るな」

「壁に寄れ、白い息の前には立つな」

「子どもを先に下げろ、荷は捨てろ」

「ここは通路だ、止まったら全員巻き込む」


誰かが言い返しかける

「でも中に人が」

堂島が切る

「死ぬ」

短い断定が刺さる

刺さるから人が動く


堂島は近くの鉄板を拾い、盾にする

刃の射線を切る角度に合わせて構える

それからリコットに言う

「元栓はどっちだ」

「上流、どこで止まる」

「枝か本か、外したら全体が止まるのか」


リコットは周りを見る

路地の上、配管の曲がり、結露の跡

「この路地、枝だ」

「赤い印の弁が一本ある、そこが枝の元」

「閉めればこの通りだけ落ちる、他は生きる」


堂島は頷く

「シルビィ」

声は厳しいまま

「ここから動くな」

「人が近づいたら止めろ、言葉でいい」

「白い息に近づくな」


シルビィは短く

「止める」

それだけ言って影に戻る

線を守る


堂島とリコットは盾を前に出し、射線を避けて壁沿いに進む

熱が頬に当たる

喉がざらつく

それでも止まらない

今止まると、刃の前に人が残る


赤い印の弁は見えた

だが取っ手がない

折れたわけじゃない、抜かれた形だ

そこだけが妙に綺麗で、金属の切り口が新しい

削れて鈍くなるはずの角が、まだ立っている


リコットが息を呑む

「……これ、抜かれてる」

「折れたなら歪む、でもこれは歪んでない」

「抜いて持ってった形だ」


堂島の声がさらに低くなる

「盗まれた可能性もある」

「でも、切り口が新しすぎる」

「道具で抜いたなら、誰でも出来る事故じゃない」


リコットが言葉を飲み込む

「……くそ」

それだけで怒りが分かる


堂島が言う

「レンチを貸せ」

「軸を回せば閉まる、取っ手が無くても閉められる」


リコットがレンチを渡す

手が震えている

怖さより先に、腹の底が冷えている

止める場所が、止められない形にされている

それが一番悪い


堂島はレンチを弁の軸に噛ませ、最後まで回す

半端に止めない

回し切る

配管の唸りが一段落ちる

路地の白い刃が少しだけ細くなる


それでも止まらない

残圧がある

裂け口がまだ吐く


堂島は即座に次を指示する

「逃がす」

「風を作れ」

「蒸気は逃げ道がないと暴れる」


周りの住人が迷う

関わりたくない距離が出る

堂島はそこで言い切る

「今開けなきゃ、次に誰かが焼ける」

「開けた家は、あとで工房に繋ぐ、段取りは俺がつける」

「責任はこっちが持つ」


責任という言葉が底では重い

重いから通る

扉が一つ開く

冷たい空気が流れ、蒸気が外へ逃げる

視界が少し戻る


堂島は盾を持ち直し、裂け口の位置を目で追う

近づくのは今だ

刃が細くなった一拍の隙

そこを逃せばまた太くなる


堂島はリコットに言う

「助けるのは俺が合図してからだ」

「勝手に突っ込むな」

「勢いが先に出たら、今度はお前が焼ける」


リコットが噛みしめるように頷く

「……了解」

返事が短いのは焦ってるからだ、短いほど危ない


白い刃の向こうで、倒れた男が動けずにいる

荷車の一部が足を挟んでいる

周りの二人が引っ張っているが近すぎる

熱で手が止まりかけている


堂島は声を通す

「離れろ」

「今離れろ」

「押すな、引くな、立たせるな」


二人が下がる

堂島は盾を前へ出し、射線を切りながら荷車の角へ手をかける

熱が布越しに刺さる

でも角度は取れている

持ち上げるのは一瞬でいい

浮いた瞬間に、男の足が抜ける


堂島は男の襟を掴み、壁側へ引きずる

引きずるほうが速い

立たせない

立たせると転ぶ

転べば刃の前に戻る


壁の影へ押し込んだところで、ようやく息を吐く

男が咳き込み、喉を押さえる

生きている

顔は真っ白で、煤じゃなく蒸気の熱で白い


周りの空気が一段ゆるむ

そのゆるみが次の事故を呼ぶ

堂島はすぐ締め直す

「まだ終わってない」

「白い息の前に出るな」

「見物するな、見物は刈られる」


刃は細くなっている

だが止まっていない

裂け口の周りから微細な白が漏れる

見えない刃がまだ残っている


リコットが裂けた継ぎ目を見る

顔が硬い

「この裂け方、古さじゃない」

「古いなら歪む、錆が割れ目に噛む」

「でもこれ、割れたっていうより、押し出された形だ」


堂島も見る

疲労で割れた形じゃない

逃げ道が塞がれて圧が乗って、弱いところから吐いた形だ

吐く前に止めるべき場所が、止められない形にされていた


路地の端に薄い金属片が落ちている

札みたいな形だが、煤で汚れて刻印が読み切れない

誰のものか、今は断言できない

断言した瞬間に、話が勝手に走る


リコットが唇を噛む

「……これ、何だよ」

「嫌な落ち方してる」

「事故の場所に、わざわざ残るもんじゃない」


堂島は拾わない

拾うと手が汚れる

汚れると証が曖昧になる

ここは現場だ

現場は触った瞬間に変わる


堂島は声を落として言う

「触るな」

「今の段階で、誰のものか決めるな」

「決めたら次の動きが相手の都合になる」

「材料が揃ってからだ」


リコットの怒りが一度、喉まで上がって止まる

噛みつきたくなる癖が顔に出る

でもさっきの厳しい声が頭の奥に残っている

父親に重なる厳しさが、今は自分を止める


リコットは低く言う

「……おじさん、親父みたいに止めるな」

刺す言い方のくせに、目は頼っている

「止められると腹立つのに、今は助かったって分かる」

「私、突っ込むって分かってて止めたでしょ」


堂島は視線を逸らさず返す

「分かってる」

「だから止めた」

「現場で一番危ないのは、勢いが正しいと勘違いする瞬間だ」


入口の影でシルビィがこちらを見ている

遠いのに目が逃げない

堂島は手で合図する

近づくな、でも見ておけ

シルビィは短く頷く

こういう時だけ、目が強い


蒸気がさらに弱まる

上流を止めたのが効いている

誰かが布を持ってきて裂け口に当て、応急の覆いになる

白い刃が消えていく

路地に残るのは濡れた煤の匂いと、人の息だけだ


堂島は周りへ言う

「今は離れろ」

「怪我人は壁の影に置け」

「誰が最初に見たか、あとで聞く」

「今は散れ、ここに立つな」


人は散る

底の距離に戻る

関わると面倒が来る

それでも、今の声に押されて散る


リコットは取っ手の無い弁を見上げる

新しい切り口

止めるべき場所が、先に壊されている


「……事故に見えるのが一番いやだ」

声が低い

「直せば終わる話にされる」

「直して終わりにしたら、また抜かれる」


堂島は頷く

「直すのは必要だ」

「でも終わらせ方を選ぶ」

「今夜、門へ出す荷はいつも通り出す」

「段取りを崩さない」

「崩した瞬間に、止める理由が増える」

「それと、取っ手の保管場所を変える、手が届く場所に置かない」


リコットが目を細める

「取っ手って、金になるの」

堂島が答える

「金にもなるし、止められない事故の元にもなる」

「止められないほうが、もっと金になるやつがいるかもしれない」

言い切らない、でも含みは残す

ここで決めるのは早い


リコットは一拍黙ってから言う

「……了解」

軽口じゃない

決めた線の返事だ

「今夜はいつも通りに出す、こっちは崩さない」


シルビィが小さな紙を出す

危険が引いた瞬間だけ

単語を二つ書く


『弁 取っ手なし』

『蒸気 笛』


すぐしまう

震える手じゃない

必要な分だけの記録だ


工房へ戻る道すがら、堂島の耳の奥にまだ笛の音が残っている

ヒィ、という音は危険の合図だ

合図を聞ける者だけが、順番を守れる


今日の裂け方は、順番を崩すために置かれた形に見えた

誰がやったかはまだ決めない

決めるのは材料が揃ってからだ

堂島はその材料を、段取りとして集めるしかないと思った

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