風の音
第8章 風の音
工房の朝は灰色のまま始まった、蒸気の唸りに金属の擦れる音が混じり、扉の隙間から入る空気だけが少し冷たい
昨日の門の詰まりが頭に残っているせいか、音がいつもより詰んで聞こえる、流れているのに、どこかで引っかかっている感じがする
棚の端に黒い缶がある、点検印の置き場として決めた場所だ
置き場が決まるだけで探す手が減る、探す手が減れば戻し忘れが減る、門でも工房でも同じだと堂島は思う
リコットはレンチを回しながら言った
「おじさん、昨日の門の話さ、封が崩れたら止まるってやつ、あれ工房でも同じこと起きるよね」
堂島は頷く
「起きる、途中で流れが切れると次が詰まる」
「詰まった時に困るのは、戻す材料が無いことだ」
リコットが口元だけで笑う
「材料って言い方、分かりやすくてちょっと腹立つ」
扉が小さく叩かれた、入ってきたのは底の匂いが薄い男で、服の煤が少ない
中層側の使い走りだと、リコットの目が先に判断する
男は息を整えきらないまま言った
「中層の工業側から急ぎだ」
薄い金属片を差し出す、擦れた刻印、短い記号と数
「弁と継手、今夜までに外窓口へ預けてくれって」
リコットは札を受け取り、刻印を指でなぞった
「数がいつもより多いね」
男が肩をすくめる
「向こうの現場が止まってるらしい、止まると上がうるさいってさ」
男はそれだけ言って出ていった、門の内側の事情は語らない、境目の外はそれ以上を言う場所じゃない
リコットが吐き捨てる
「止まってるのは向こうの都合なのに、急ぎだけはこっちに飛んでくるんだよ」
堂島は札を見る
「今夜までに外窓口、なら封を崩さないのが一番大事だ」
「崩れたらまた止められる」
リコットが堂島を横目で見る
「段取り頼むよ、おじさん」
確認じゃない、任せる言い方だ
堂島は短く返す
「了解」
それから言葉を足す
「面倒な手順は増やさない」
リコットが頷く
「うん、それが一番助かる」
堂島は作業台を空け、木箱を三つ並べた
中層へ出すもの、今日の修理で使うもの、迷うもの
迷う箱を先に作る、迷いを流れに混ぜない、それだけで止まる確率が下がる
リコットが弁の小物を並べながら言った
「控えって言ってたけど、何を残すつもり」
堂島は太さの揃った紐を一本取り出す
「封の形を揃える」
「数と札の刻印も、頭の中に置かないで手元で見える形にする」
「ほどけたら結び直す、って考えが一番危ない、封が変わった瞬間に疑われる」
リコットが眉を上げて、すぐ理解した顔になる
「なるほどね、封を直した時点で詰む、だから直さない形にする」
堂島は頷く
「……ああ」
入口の影にシルビィがいる、外套の縁を押さえたまま札と紐を見ている
堂島は線を踏まずに声をかける
「今日は工房にいるか」
「いる」
「匂いが変だったら言ってくれ、すぐ止める」
堂島は言う
「俺の鼻も当たることはあるけど、君の方が早い」
シルビィは一拍置いて
「匂い、言う」
短いが役割が決まる音だった
昼の工房は詰まった
蒸気漏れ、締め直し、欠けた歯車、止まったら終わる修理が続く
リコットは客を回しながら直し続ける、速い、強い、迷いがない
その速さがあるから工房は回る、でも速さは勢いにもなる、勢いは戻し忘れの入口になる
堂島は邪魔しない形で止める
声を上げず、置き方で止める
外した部品は左、戻す部品は右、締める前は手前、締めたら奥、手の届く範囲に順番を作るだけ
夕方前、急ぎの分が揃った
箱の中で乾いた音がする、使える金属の音だ
リコットが汗を拭き、堂島を見る
「封、お願い」
堂島は紐を通し、結び目を作る、同じ位置、同じ長さ、同じ締め
札は刻印が見える向きに添える
紐の余りを切らずに折り返し、箱の側面に挟む、ほどけていない証になる形だ
リコットが箱を持ち上げる
「これなら、変な止め方されにくい」
堂島は返す
「止められても戻せる形にしてある、それだけだ」
リコットが笑う
「その言い方、好きだよ」
夜、工房の音が細くなった頃に二人は門へ出た
外窓口で札を出し、箱を出し、受領票を取る
役人の目は冷たいが、止める理由が見当たらない時の目は退屈だ
受領票に印が落ちる、金額欄は空欄のまま
堂島はそこを見て頷き、紙をしまう
勝ち誇らない、勝ち誇った瞬間に次が来る
帰り道、リコットが小さく言った
「今日、楽だった」
堂島は短く返す
「封が崩れてないからだ」
工房に戻ると、熱と匂いが迎える
扉を閉めた、その瞬間だった
ヒィ、と笛みたいな音がした
次の瞬間、白い息が棚の裏から噴いた、霧じゃない、芯のある白だ
リコットが反射で動く、勢いで止めに行く癖が出る
「締めれば止まる」
堂島の声が鋭く落ちた
「動くな」
短く、強い
「そこに入るな、顔を出すな」
リコットが一瞬止まる、その一瞬が生死の幅になる
白い息が太くなった、噴き出す角度が変わる、勢いが上がる
締めに行っていたら真正面だった
堂島は踏み込む、体が持つかは考えない
近くの鉄板の蓋を掴んで盾にする、蒸気の射線を切る角度を取る
声を落とさず命令する
「元栓の位置、今すぐ言え」
「赤い印のやつか」
リコットが息を詰めたまま顎で示す
「奥、赤い印、でも重い」
堂島は盾を滑らせるように置き、白い息の射線から体を外して奥へ行く
元栓を回す、重い
重い理由は今いらない、半端が一番危ない
堂島は最後まで回し切る
回し切った瞬間、噴きが乱れた、止まらない、残圧が残っている
堂島の声がさらに厳しくなる
「次、逃がす」
「扉を開けろ、風を作れ」
「リコット、そこに立つな、影に下がれ」
リコットがはっとして扉を押し開ける
冷たい空気が一気に入って白い息が外へ流れる、視界が少しだけ戻る
入口の影からシルビィが一歩だけ出る
何も言わずに水の入った桶を引きずってくる、音を立てない、必要だけ運ぶ
堂島は一瞬だけ目で合図する、声を使わない、線を守るためだ
棚の下に小さな逃がし弁がある、普段は触らない、詰まった時だけ使う場所
堂島は布を巻き、素手で触れないようにして弁を少しだけ開ける
いきなり抜かない、暴れさせない
細く抜く、白い息が別の方向へ逃げる、工房の奥から外へ流れる
噴きの芯が弱くなる
堂島は盾を持ち直し、棚裏へ近づく
ここからが一番危ない、焦って締めると噛む、割る、また噴く
堂島の声が短く切れる
「締める前に、浮いてる場所を見る」
「レンチを寄こせ、今は俺がやる」
リコットがレンチを渡す、迷いが消えている
白い息の向こうにいる堂島の背中が、誰かと重なる
昔、工房で一度だけ聞いた声
勢いで突っ込もうとした自分を止めた声
父親の声に似ている、似ているから腹が立つはずなのに、今は腹が立たない
棚裏、ねじが一本、半分だけ浮いている
締めたつもりで締まっていない
昼の詰まりのどこかで止まった場所だ
堂島はレンチを当て、ゆっくり回す
一気に締めない
少し締める、息が弱くなる
もう少し締める、白が薄くなる
最後は止める、止め過ぎない、割ると終わる
白い息が止まった
笛の音も消えた
工房の音が戻る、蒸気の唸りが低いまま整う
堂島は逃がし弁を閉じ、元栓の印を目で確認する
閉まっている、位置が合っている
それから息を吐く、ここで初めて吐く
リコットが言った、声が少し震えている
「……今のさ」
「私、勢いで締めに行ってたら、顔やってたよね」
堂島は厳しいまま短く返す
「やってた」
それから少しだけ落とす
「だから止めた」
リコットは堂島を見る
笑いが消えた目だ
「止め方がさ、怖いからじゃなくて、順番が先に出てた」
「元栓を閉めて、逃がして、風を作って、最後に締める」
「……あれ、うちの親父が言ってた」
堂島はレンチを返しながら言う
「順番を間違えると、速さが毒になる」
「門と同じだ、相手が蒸気になっただけだ」
リコットは一拍黙って、それから素直に言った
「……おじさん、すごい」
照れで誤魔化さない音だった
「今、背中が親父に見えた」
「私が突っ込もうとした瞬間に止める声も、先に風を作れって言うところも」
リコットは自分の手袋を見た
「私、直すのは速い」
「でも止めるのが雑になる時がある」
「今日のは、私だけなら事故ってた」
堂島は視線を落として返す
「止めるのも仕事だ」
「止めたら、また回せる」
リコットが頷く
「了解」
それから少しだけ笑う、でも笑い切れない
「明日から、危ない時はおじさんに頼る」
「私がムキになっても止めていい、絶対殴らない」
「親父にも同じこと言われたのに、やっと分かった」
堂島は短く返す
「了解」
入口の影で、シルビィが小さな紙を出す
危険が消えた瞬間だけ
単語を一つ書く
『止める』
すぐしまう
それがこの子の記録の仕方だ
リコットは桶の水を見て、シルビィに言う
「助かった、持ってきてくれて」
シルビィは短く
「必要」
それだけで影に戻る、線の位置に戻る
工房の熱が落ち着いて、ようやく呼吸が元に戻る
堂島は黒い缶を元の位置に置き直し、棚の端を一度だけ指で叩いた
置き場、順番、札、封、控え
言葉にしなくても、手が勝手に並べ替える
それでも耳の奥に残る
さっきの笛みたいな音
ヒィ、と上がった瞬間に、体の奥が先に冷えた
あれはこの底の音じゃない
もっと前に、一度聞いている
視界が別の灰色に切り替わる
蛍光灯の白い光、床の黄色いライン、油の匂いじゃなく消毒液みたいな匂い
深夜の工場の通路、配管の影、蒸気の熱、そして同じ音
ヒィ、と細く上がって、次の瞬間に白い息が刃みたいに跳ねた
堂島はその時も誰かに言った
いや、言ったというより命令した
動くな、近づくな、顔を出すな
年上の作業員が反射で手を出しかけて、止まった
止まったから、手が残った
堂島は元栓を探し、指差しで位置を確認させ、最後まで回し切った
止まらないのを見て、逃がしを開け、風の通り道を作って、盾になる板を持たせた
その順番だけが頭に残っていた
偉いからじゃない
現場の会議室で何度も叩き込まれたからだ
最初に止める、次に隔離する、最後に締める
締める前に圧を落とす
締めるのが一番簡単で、一番危ない
翌朝、上司に怒鳴られた
余計な手間だ、止めるな、記録が増える、何も言い返せなかった
でも怒鳴り声より、あの音のほうが残った
一歩踏み込んでいたら誰かの顔が焼けた、そういう音だったからだ
工房の棚裏で鳴った音が、それを全部引っ張り出した
だから今日の声は厳しくなった
優しく言う余裕がなかった
厳しく言わないと、勢いが先に行ってしまうと知っていた
堂島は小さく息を吐き、呟く
「……同じ音は二回聞きたくない」
言葉は工房の熱に吸われて消える
代わりに、順番だけが残る
底の夜は灰色のまま沈む
だが工房の中で、止める順番だけが一段固くなった




