影の気配
第15章影の気配
朝の底は昨日より詰まっていた
蒸気の唸りに荷車の軋みが重なり、配管の鳴きに人の声が乗る
音が増えると通りは狭くなる
狭くなると止まった場所が目立つ
目立てば面倒が寄ってくる
工房の戸を開けた瞬間から列ができていた
配管が鳴く、弁が戻らない、歯車が欠けた
どれも今じゃないと困る顔をしている
困る顔が同時に来ると、工房は簡単に詰まる
リコットはレンチを握ったまま、堂島に目だけ向けた
「今日は荒い日だね、おじさん」
「中は私が回すから、外の入口を整えてほしい」
軽い言い方のまま、頼み方ははっきりしている
頼れる前提の声だ
堂島は頷く
「了解」
返事は短くしてすぐ外へ出た
外で揉めたら中の手が止まる
止まれば直らない
直らなければ漏れる
漏れれば死ぬ
底の段取りはそこが一番早い
入口の影でシルビィが外套の紐を結び直していた
今日は拾いに出る顔じゃない
工房の線を守る顔だ
堂島が声をかけると、シルビィは分かる言い方で返す
「外、人が多い」
「押される角、危ない」
「ここにいる、触らない」
堂島は頷く
「それでいい」
外の列は路地を塞ぎかけていた
塞ぐと通行が止まる
止まると苛立ちが増える
苛立ちはすぐ事故の種になる
堂島は声を通す
怒鳴らない、でも曖昧にしない
「並べ」
「荷は壁側に寄せろ、通り道を空ける」
「工房の入口は塞ぐな、塞いだら中が止まる」
「触るな、勝手に触ったら順番は最後になる」
若い男が口を尖らせる
「こっちは急ぎなんだよ」
堂島は視線を外さない
「急ぎなら余計に順番だ」
「割り込んだら中が止まる、中が止まったら誰の修理も終わらない」
言い切って、次の動きに移る
言葉で勝とうとしない
列が動けばそれでいい
煤の付いた布を取り、壁に小さな点を三つ付ける
入口から三歩、六歩、九歩
列の目印だ
紙は使わない
増やさない
でも迷わせない
「点まで下がれ」
「次は点が一つ前に動く、それだけ」
単純な規則にすると、人は従いやすい
従えば揉めない
揉めなければ工房が回る
列がゆっくり揃っていく
通りが戻る
戻った瞬間に、別の危なさが来た
路地の角で荷車が立ち往生していた
回り道を嫌って無理にねじ込もうとしている
荷を抱えた女が押され、壁際の配管に肩が触れそうになる
配管は熱い
触れたら火傷する
火傷したらその場が止まる
止まればさらに押される
堂島の口調が変わる
緊急の時の声だ
「止まれ」
「そこ下がれ、壁から離れろ」
女が一歩引く
それで角に空間ができる
堂島は荷車の男に言う
「ここは通れない、回れ」
男が反射で返す
「回ったら遅れるだろ」
堂島は切る
「遅れるほうがマシだ」
「ここで倒れたら、もっと遅れる」
「荷を守る前に人を守れ」
男の目が揺れる
損得を計算している
堂島は追い打ちしない
決める材料だけ置く
「この角は人が詰まる、詰まった時点で負けだ」
「回るか、荷を下ろして通路を空けるか、どっちかにしろ」
荷車が引く
角が空く
女が息を吐く
それで危険が一つ消える
工房の中からリコットが顔だけ出した
状況を見て、堂島を見て、一瞬だけ目が遠くなる
別の背中を重ねる目だ
それが戻ると、声は低くなる
「今の言い方さ」
「うちの親父みたいだった」
軽口に寄せない、でも硬すぎない
「危ない時ほど、ちゃんと止めるんだよね」
堂島は返事を短くする
緩むと次が来る
「……ああ」
入口の影でシルビィが、列を見ている
その視線が角へ滑る
シルビィの声が落ちる
「鳴き」
一拍置いて言い換える
「蒸気の音、いつもと違う」
「角の先、集まりそう」
堂島は即答する
「見る」
「でも近づかない」
リコットへ目を向ける
「中、回せるか」
リコットは頷く
「回す」
「おじさん、シルビィと行って」
「触らないで戻って、見るだけ」
堂島は頷く
「了解」
二人で路地を進む
シルビィは角の手前で歩幅を落とす
「ここ」
「ここから見る」
押される角を避ける位置だ
線の引き方が、今日もはっきりしている
角の向こうで、配管の継ぎ目が白く吐いていた
細い息
まだ小さい
でも止まらない音は人を呼ぶ
人が集まると誰かが手を出す
手が出ると事故になる
堂島は距離を詰めず、目だけで順番に追う
上流の弁の位置、継ぎ目の固定、留め具の形、床の濡れ跡
見る順番はもう体に入っている
この程度なら、慌てる必要はない
慌てると人を呼ぶ
呼んだら負ける
堂島の視線が床の一点で止まる
煤の中に短い針金の切れ端
切り口が妙にきれいだ
毛羽立ちがない
伸びがない
潰れがある
自然に切れた形じゃない
堂島はすぐ拾わない
先に周りを見る
足音、視線、近づく気配
今ここで拾うと、こちらが理由になる
シルビィが小さく言う
「足音、増える」
「見てる人、来る」
堂島は頷く
「戻る」
「ここで止まる理由を作らない」
二人は角を引く
引いた瞬間、背中に視線が刺さる
刺さるが振り向かない
振り向くと線が崩れる
線が崩れた側が損をする
底はそういう場所だ
工房へ戻ると、入口の影に入った瞬間だけ空気が戻る
外の面倒は外に置いてくる
置いてこないと中が止まる
リコットが工具を動かしながら聞く
「どうだった」
堂島は要点だけ言う
「小さい漏れ」
「人が集まる前に引いた」
「それと、同じ形の切れ端が落ちてた」
「今は拾わない、見られてた」
リコットの手が一瞬止まる
止まってすぐ動く
「うん、それでいい」
「追ったら相手の時間になる」
入口の影でシルビィが紙を出す
ほんの短い時間だけ
単語を二つ書く
『鳴き 角』
『針金 落ち』
すぐしまう
危険のない瞬間だけの記録だ
昼が過ぎ、列が薄くなり、工房の音が細くなる
ようやく息が入る
こういう隙に動く
例外は作らない
揉めないための順番だ
堂島は一人で行かない
リコットと目を合わせる
リコットが頷く
「二人で」
シルビィは工房の影に残る
「工房」
線を守る
角の先にはもう人がいない
漏れの音も薄い
それでも、さっきの視線の残りが空気に残っている気がする
堂島は余計なことをしない
地面だけを見る
煤の中に針金の切れ端
布で包み、持ち上げる
指で触らない
余計な理由を残さない
リコットが覗き込むだけで言う
「……切り方が同じ」
「ただ切れたんじゃない、潰してから落としてる」
堂島が小声で返す
「道具の癖か」
リコットが頷く
「癖だよ、力の入れ方も同じ」
「底の雑な手じゃない、狙って切ってる」
堂島は内ポケットへ滑り込ませる
そこで一拍だけ周囲を見る
角の幅、配管の位置、人が固まりやすい場所
そして門へ続く道
堂島が言う
「ここ、門へ行く荷が必ず通る」
「ただの事故なら、もっと奥で起きる」
「ここで鳴かせたら、人が止まる」
リコットの目が硬くなる
「止まったら、荷が詰まる」
「詰まったら、夜の搬入が遅れる」
堂島は頷く
「境目に寄せてる」
「事故を起こしたいんじゃない、止めたいんだ」
「止まった隙に、何かを抜くか、何かを通すか」
リコットが息を吐く
「嫌な筋道だね」
二人はすぐ引く
長居しない
長居すると、こちらが理由になる
夜、工房の音が細くなる
叩く音が減り、蒸気の唸りだけが残る
木箱を揃える
札を添える
封を結ぶ
数を控える
例外は作らない
それが崩れると、門で止まる
止まれば相手の時間になる
門灯の外側、影
エリックがいた
制服はきれいなのに目が疲れている
忙しさの疲れじゃない
何かを見ている疲れだ
堂島は影から出ずに言う
「今日、また落ちてた」
「同じ切り口の針金だ」
布包みを格子の外、見える位置に置く
エリックは自分の布で掴み、角度を変えて切り口を見る
一拍
呼吸が浅くなる
エリックが低く言う
「……増えてる」
「中層でも、今日、同じ止まり方が出た」
リコットが言葉を飲む
堂島が先に確認する
「下には降りないやつか」
エリックは頷く
「降りない」
「降ろしたら上が困る」
「だから俺が上で拾う」
「お前らは下で拾え」
堂島は分かりやすく言い直す
「俺たちは点だけ増やす」
「場所と時間と止まり方」
「切れ端があれば一緒に」
「追わない、揉めない、例外は作らない」
エリックは短く返す
「それでいい」
「次はもう一つだけ足せ」
「切れていた位置だ」
「どの継ぎ目の、どの留め具か、そこが揃うと線になる」
堂島は頷く
「了解」
エリックは最後に一言だけ落とす
「門に寄せている」
「それが分かったなら、次はもっと近い」
灯りの下へ戻る背中が硬い
法の側の背中だ
でも今夜は、その硬さが少しだけ怖い
怖いのはエリックじゃない
寄せてくる相手のほうだ
門を離れ、底の暗い路地へ戻る
リコットがぽつりと言う
「……近づいてるね」
冗談じゃない声だ
堂島は内ポケットの小さな重さを確かめる
点が増えた
そして点が境目へ寄ってきている
寄ってきているなら、止める場所も前に出る
堂島は息を吐く
「近づくなら、段取りも前に出す」
「止められる距離で止める」
シルビィが短く言う
「角、避ける」
一拍置いて足す
「でも門の近く、増える」
それだけで十分だった




