日常の錘
第12章日常の錘
夜の底は、昼の底より音が少ない
少ないぶん、残る音がよく聞こえる
配管の唸り、どこかの蒸気抜き、板が軋む乾いた鳴り、遠い足音
門の灯りの白さも、格子の冷たさも、まだ頭の奥に貼りついている
シルビィの家に戻ると、部屋の中は外より暗い
暗いのに落ち着くのは、ここが彼女の範囲だからだ
堂島は靴を揃え、袖口の煤を払う
払っても落ちない匂いが残る、でも今日はそれが嫌じゃない
残っているのは、戻ってきた証だ
鍋に火が入って、薄い湯気が上がる
シルビィは器を出し、いつもの手順で注ぐ
堂島は受け取り、少しずつ飲む
喉の奥が温まると、昨日までの緊張が少しだけほどける
ほどけると同時に、別の重さが入ってくる
借りが増えていく重さだ
堂島は器を置き、声を落とした
「今日も助かった」
「俺が勝手に動いて、君に面倒が行くのは嫌だ」
「だから一つだけ決めておく」
「門には近づかないでいい、あの辺りは俺が見る」
シルビィは鍋を片づけながら、短く、でもはっきり返す
「近づかない」
「影、出ない」
それで線が引かれる
堂島は頷く
「……ああ」
少し間が空く
その間に、堂島の頭の中で昼の札と夜の列が並ぶ
上で何かが起きている
でも下には降りない
降りないのに、門は硬くなる
硬くなると、下の流れが詰まる
詰まると、底の暮らしが削れる
堂島は息を整え、鞄の代わりに畳んで置いてある作業着の上着を引き寄せる
ポケットの奥から、小さな手帳を出した
見せるためじゃない
自分が迷わないための道具だ
書くのは長文じゃない
単語だけでいい
忘れたくない順番だけ残せばいい
『中層 事故 隠す』
『門 硬い 夜勤増』
『手口 共通点』
『外で渡す 中で話さない』
そこまで書いて、手帳を閉じる
これ以上は今夜の仕事じゃない
ここで増やしたら、段取りが重くなる
堂島は背中を壁に預け、天井の暗さを見る
そして、頭の中だけで自分に聞く
戻る気はあるのか
戻れる道はあるのか
戻れたら、それで終わりに出来るのか
答えはすぐには出ない
出ないのに、今日の自分は一つだけ確かだった
門の外で、エリックに頼まれた
公じゃなく、個人として
あれは軽い頼みじゃない
断ったら、事故は事故で終わる
隠されて、薄められて、いつもの音に沈む
沈んだまま同じ手口が繰り返される
堂島は、もう一度自分に聞く
なぜ自分がそれを拾う
借りを返したいからだ
それだけなら単純だ
シルビィに助けられた
リコットに仕事を回してもらった
住む場所をもらった
息を整える時間をもらった
でも、借りを返すって言葉は便利すぎる
便利すぎるから、時々、逃げになる
堂島は目を閉じて、もう一つの自分を思い出す
元の世界での自分だ
会社の廊下、蛍光灯の白さ、冷めた缶コーヒー
机の上に積まれた報告書
事故にならなかった事故の紙
誰も読みたがらない紙
それを読むのが自分の役目だった
ヒヤリハット、再発防止、水平展開
言葉だけは立派で、現場は疲れていて
面倒だ、余計だ、と言われながら、結局は誰かが拾わなきゃいけない
拾うのはいつも遅い
事故が起きてからだ
起きる前に拾えたら、一番いい
分かってるのに、いつも後回しになる
忙しいからだ
止まったら死ぬ種類の仕事があるからだ
ここも同じだ
リコットの工房は止められない
シルビィは拾うのをやめられない
だから、拾える場所にいる人間が拾うしかない
堂島は静かに息を吐く
自分が拾う理由は、もう一つある
戻ることだけ考えている間は、ずっと居候のままだ
返す順番を作れない
返す順番を作れないと、守りたいものも守れない
門の硬さが増えたら、二人は先に削れる
それが分かった以上、見ないふりは出来ない
堂島は心の中で自分に言う
戻れないから頑張るんじゃない
頑張る理由が出来たから、戻ることだけに縛られなくなる
それは逃げじゃない
段取りだ
自分が潰れないための段取りでもある
外の音が一段小さくなる
夜が深くなる合図だ
シルビィが布を整え、扉の掛け金を確かめる
いつもの手順
いつもの確認
この家の安全は、こういう小さな順番で出来ている
堂島は喉の奥が詰まる
寝台は一つ
言い出す前から答えは分かっている
それでも一応、言う
「俺は端でいい」
シルビィは布の端を指で叩く
「端」
「動かない」
堂島は頷く
「了解」
二人が横になる
布が擦れる音がして、距離が固定される
暗さの中で、呼吸と蒸気の唸りが混ざる
堂島は、声を落として言う
「明日、少し外を見てくる」
「危ない所には行かない」
「変だと思ったら戻る」
シルビィは一拍置く
そして短く、でも分かりやすく返す
「見に行くなら」
「目立つこと、しない」
「声、大きくしない」
「揉めない」
堂島は小さく息を吐く
その忠告は、子どもの言葉じゃない
底の生き方の言葉だ
「分かった」
「揉めない」
「順番だけ守る」
少し間が空く
堂島は天井の暗さを見たまま、もう一度だけ心の中で自問する
ここでやっていけるのか
やっていくのか
答えは一つに寄っていく
やっていく
ただし、無茶はしない
巻き込まない
段取りで返す
堂島は最後に、声を落として呟く
「借りた分は返す」
「返す順番を作る」
シルビィの返事は短い
でも今夜は、ただの許可じゃない音が混じっていた
「いい」
堂島は息を整え、返事を選ぶ
「……ああ」
言葉を増やさない
増やすと距離が崩れる
守るべき線は、彼女が引いている
やがてシルビィの呼吸が深くなる
堂島はまだ眠れない
でも焦らない
焦らないことも段取りだ
門の外で拾う
共通の手口を拾う
拾ったら外で渡す
中には入らない
例外は作らない
その順番を頭の中で一度だけなぞって、堂島はようやく目を閉じる
灰色の底で、夜は静かに沈んでいった




