路地裏のチーズは罪の味
夢中で街を散策するうち、わたくしは自分が朝から何も口にしていないことを、ふと思い出した。
その瞬間だった。
「くぅぅ~…」
わたくしのお腹が、これまで鳴ったこともないくらい、正直でそして可愛らしい音を立てたのだ。
思わず顔が熱くなり、とっさに両手でお腹を押さえる。
ちょうどその時、どこからか抗いがたいほど魅力的な匂いが、風に乗って漂ってきた。
香ばしくて少しだけ甘くて、そしてわたくしの空腹を猛烈に、そして容赦なく刺激する匂い。
「(なんて…なんて、はしたない匂いなのかしら! でも…!)」
未来の王妃たるものという理性が、頭の片隅で警鐘を鳴らす。けれどわたくしの胃袋は、もっと正直に「食べたい!」と、可愛らしい悲鳴を上げていた。
匂いの元をたどると、そこには人々が楽しげに列を作っている、一軒のクレープ屋台があった。
わたくしは列の後ろから、屋台の店主のその鮮やかな手際に、釘付けになった。
じゅわぁ…と心地よい音を立てて、熱した丸い鉄板の上にとろりとした乳白色の生地が、トンボと呼ばれる道具で、魔法のように薄く、完璧な円形に広げられていく。
ぷつぷつと気泡が浮かび始めると、その上にたっぷりの刻みベーコンと、陽の光を閉じ込めたかのような黄金色のチーズが、惜しげもなく振りかけられた。
生地が焼ける香ばしい匂いと、ベーコンの脂が溶けてぱちぱちと弾ける匂い、そしてチーズが熱で溶けて、端の方が少しだけ焦げる匂い。
それらが混ざり合った芳香の暴力は、わたくしのけなげな理性を、いとも容易く麻痺させてしまった。
前の客が注文しているのを見て、それが「ベーコンチーズクレープ」という、率直で、何のひねりもない、しかし最高に美味しそうな名前であることを知る。
貴族の食事のように、詩的な名前などついていない。けれど、その方が、ずっとずっと、魅力的に思えた。
ついに、わたくしの番が来た。
ドキドキしながら、兄から渡された小銭を強く握りしめ、まるで秘密の合言葉でも告げるかのように、小さな声で注文する。
「…べーこんちーず、ひとつ、くださいな」
熊のように大きな、強面の店主は、わたくしの緊張した様子を見て、にかりと意外なほど優しい笑顔を見せた。
「あいよ、お嬢ちゃん! 今日のはチーズもベーコンも、特別に増量サービスだ! 持ってきな!」
そして手渡されたのは、熱い蒸気を上げる紙に包まれた宝物。ずっしりと幸福な重みが、わたくしの両手に伝わってきた。
「(お金を払って、食べ物を買う。なんて当たり前のこと。けれど、これまで全てが完璧に用意される人生だったわたくしにとって、これは初めて、自分で『勝ち取った』食事だわ)」
その重みに、わたくしは、ただの食欲以上の、誇らしいような気持ちを感じていた。
人前でこんなものを食べるのは、さすがにはしたない。
わたくしの中に残っていた最後の理性が働き、近くの静かな路地裏に駆け込むと、古びた石段にちょこんと腰を下ろした。
そこは、わたくしのためだけの、ささやかな晩餐会場。
意を決して、大きな口を開けて、熱々のクレープにかぶりつく。
その瞬間、幸福の爆弾が、口の中で炸裂した。
熱い!
もちもちとした、ほんのり甘い生地。
とろりと、糸を引いて伸びる、濃厚なチーズの塩気。
じゅわっと、肉汁が溢れ出す、香ばしいベーコンの旨味と脂。
そしてそれら全てを、黒胡椒のピリリとした刺激が、完璧に引き締めている。
「…っ、おいしい…!」
その一言を漏らした瞬間、わたくしを縛り付けていた、公爵令嬢の完璧な淑女の仮面は、ぱりんと音を立てて砕け散った。
今のわたくしはもう、アリアンナ・クライフェルトではない。
ただ目の前の、最高に美味しい食べ物に夢中になる、一人の空腹な少女だった。
行儀も作法も、何もかも忘れて、わたくしは夢中でクレープを頬張った。
口の周りが、ソースでべとべとになるのも、全く気にならない。
あっという間に食べ終えた時、わたくしの頬には、ソースだけでなく、一筋の涙も伝っていた。
それは一度目の人生で、美味しいものを美味しいと感じる心すら殺してきた、愚かな自分への憐れみと。
今こうして、本能のままに生きていることへの、どうしようもないほどの、喜びの涙だった。
「(これが、自由の味。これが、生きている味なのね…)」
これが、罪の味だというのなら。
「(わたくしは、喜んで罪人になりましょう)」
この小さな路地裏での食事が、わたくしの魂を、真に、そして完全に解き放つ、甘くてしょっぱい、革命の始まりとなったのだ。




