面白がりな共犯者
父上が、嵐のように部屋から出て行った後。
わたくしは、ふぅ、と小さく息をつき、勝利の余韻を味わうように、冷めかけた紅茶を一口飲んだ。
その時だった。
父と入れ替わるように、ドアの影からぬっと現れた人影があった。
「――ブラボー、アリアンナ。実に見事だった」
ぱちぱち、と、こらえきれないといった様子の拍手と共に現れたのは、わたくしの兄、フェリクスだった。
彼は、わたくしの淹れた紅茶を、まるで自分の物であるかのように勝手に飲むと、心から楽しそうな顔で言った。
「父上をあそこまで完璧に黙らせた人間を、僕は生まれて初めて見たよ。いや、驚いた。昨日は厨房の鬼を手懐け、今日は王子と父上を手玉に取る。一体全体、どうしたっていうんだ? お前、そんな面白い性格を、どこに隠していたんだい?」
わたくしは、兄様の真意を測りかねて、黙って彼を見つめた。
『お兄様は、父様とは違う。けれど、この人も、クライフェルト家の人間…。わたくしの変化を、面白がっているだけかもしれない』
まだ、誰かを完全に信じることは、怖かった。
そんなわたくしの警戒心を、見透かしたのだろう。
フェリクス兄様は、ふっと、いつもの軽薄な笑みを消すと、少しだけ真剣な顔になった。
「…冗談はさておき。俺は、嬉しいんだよ、アリアンナ」
「嬉しい、ですって?」
「ああ。お前が、やっと『完璧な人形』でいるのを、やめてくれたみたいでな」
その言葉に、わたくしは息をのんだ。
兄様は、どこか遠い目をして、続けた。
「俺は、ずっと見ていた。お前が、どれだけ自分を殺して『完璧な令嬢』を演じてきたか。そして、いつも思っていたんだ。そんなお前が…もし、誰かに理不尽に傷つけられるようなことがあった時、俺はきっと、何もできずに、ただ見ていることしかできないんじゃないかって。その無力感を思うと、胸が張り裂けそうだった」
『お兄様…? あなたは、見ていてくれたの? わたくしが、ただの人形ではなかったことを、知っていてくれたの?』
わたくしの心の壁に、初めて、温かい光が差し込んだ気がした。
兄様は、わたくしの肩に、ぽん、と優しく手を置くと、力強い、そして最高の笑顔で、宣言した。
「だから、決めたんだ。今度こそ、俺はお前の味方でいようと。いや、味方なんて生易しいものじゃないな」
「――共犯者だ」
「お前がこれから、どんなとんでもないことを仕出かそうと、この兄が、全部、面白がって手伝ってやる。だから、もう、一人で抱え込むな」
共犯者。
その、少しだけ悪戯っぽくて、どうしようもなく頼もしい言葉に、わたくしの瞳から、こらえていた涙が一粒、静かにこぼれ落ちた。
孤独な戦いの中に、初めて差し込んだ、一筋の、確かな光だった。
わたくしは、一度目の人生では、決して誰にも言えなかった、小さな、しかし、ずっと心の中にあった、本当の「お願い」を、掠れた声で、兄様に伝えた。
「……お兄様」
「ん?」
「わたくし、王都のサヴォイア洋菓子店の、ザッハトルテが、食べてみたいのです…」
それは、わたくしが、生まれて初めて、他人に自分の欲望を打ち明けた、記念すべき瞬間だった。
わたくしの、あまりにささやかな願いに、兄様は一瞬、きょとんとした顔をしたが、すぐに、太陽のように破顔した。
「なんだ、そんなことか! あはははっ! 任せておけ! 今夜、お前の部屋に、世界で一番美味しくて、世界で一番背徳的なチョコレートケーキを、届けてやる!」
その夜。
兄様は、宣言通り、厳重な警備をかいくぐって、見事なザッハトルテをわたくしの部屋に運び込んできた。
わたくしたちは、まるで秘密基地に集う子供のように、床に直接座り込んで、頭を突き合わせる。
そして、銀のフォークで、その黒く艶やかなケーキを、一口。
――濃厚なチョコレートの、暴力的なまでの甘さ。
――それを、きりりと引き締める、アプリコットジャムの、上品な酸味。
「…おいしい…」
わたくしは、人生で一番美味しいと感じたそのケーキを、大好きな兄様と分け合って食べる。
それは、わたくしたちの間に結ばれた、甘くて、秘密の、「共犯関係」の味がした。
ケーキに夢中になりながら、わたくしは、無邪気に呟いていた。
「こんなに美味しいものを作れるなら、王妃になるより、お菓子屋さんになる方が、ずっと幸せかもしれませんわね」
兄様は、それを冗談として、からからと笑っていた。
けれど彼の心に、妹のその一言が、なぜかとても強く焼き付いたのをこの時のわたくしは、まだ知る由もなかった。




