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殿下より刺繍糸

 幸福な真夜中の晩餐会の翌朝。

 わたくしは、窓際の日当たりの良い椅子で、淹れたてのミルクティーを嗜んでいた。心も、お腹も、満たされている。これほど穏やかな朝は、人生で初めてかもしれない。


 その静寂を破るように、侍女のエマが、少し緊張した面持ちで、王家の紋章が入った一通の手紙を差し出してきた。

 差出人は、アルブレヒト殿下。

「『婚約を祝して、二人きりでお茶会を』…とのことでございます」


 その手紙を見た瞬間、わたくしの脳裏に、一度目の人生の記憶が鮮やかに甦った。

 この手紙を受け取り、天にも昇る気持ちで胸をときめかせ、三日三晩かけて着ていくドレスを選び、当日は緊張で食事も喉を通らなかった、健気で、そして愚かだった十六歳の自分の姿が。

「(あの頃のわたくしにとって、あなたからのお誘いは、世界の全てだった。けれど…)」


 わたくしは、ふっと息を吐くと、その手紙を優雅な手つきで受け取った。

 一度目の人生では、神の言葉か何かのように、大切に胸に抱いたそれを、今はただの紙切れのように扱う。


 わたくしは、近くにあった裁縫箱から、鳥の形をした小さな金のハサミを取り出すと、こともなげに、その手紙をチョキチョキと切り抜き始めた。

 驚くエマに、わたくしは悪戯っぽく微笑みかける。

「エマ、殿下にお返事を差し上げてちょうだいな」


 そして、切り抜いた蝶々の形の紙片をひらひらさせながら、こう続けさせた。


「『――本日は、先日購入いたしました、春色の刺繍糸の美しい組み合わせを、一日中考えていたいと思うほどに、素晴らしい気分でございますので、大変申し訳ございませんが、お茶会は辞退させていただきます』…とね」


「し、刺繍糸、でございますか!?」

 エマが、信じられないものを見る目でわたくしを見つめている。

 ええ、そうよ、刺繍糸。

 王太子殿下からの、初めてのお二人きりのお茶会のお誘いを、刺繍糸を理由に断る令嬢など、この国の五百年の歴史上、一人もいなかったに違いない。

 それは、完璧な淑女の作法に則った、最も辛辣で、最も優雅な侮辱だった。


 ――同時刻、王宮。

 アルブレヒト王子は、侍従からアリアンナの返答を聞き、最初、その意味が理解できなかった。

「…何だと? 刺繍糸…? 何かの聞き間違いではないのか。もう一度申してみよ」

 侍従が、震える声で、しかし正確に言葉を繰り返すと、王子の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。


「し、ししし…刺繍糸だとぉ!? この僕が! 次期国王たるこのアルブレヒトが! たかが糸ころに負けたというのかぁあああっ!」


 ガシャーン! と、近くにあった高価な磁器の花瓶が、床に叩きつけられて粉々になった。

 侍従たちは、青ざめて床にひれ伏している。

 怒りが嵐のように吹き荒れた後、彼の心に初めて、奇妙な感情が芽生えた。

「(あのアリアンナが…? いつも僕の言うことを、黙って微笑んで聞いていただけの、あの完璧な人形が…?)」

 彼の知るアリアンナは、初めて彼の理解を超えた行動に出た。それは、彼にとって、怒りであり、屈辱であり、そして、ほんの少しの、未知の生物に対するような戸惑いであった。


 ――その報せは、当然、父であるクライフェルト公爵の耳にも、瞬く間に届いた。

 公爵は、文字通り「怒髪天を衝く」という様子で、わたくしの部屋に怒鳴り込んできた。

「アリアンナ! 貴様、一体何を考えている! 王太子殿下を、クライフェルト家を、侮辱する気か!」


 しかし、わたくしは怯えるどころか、淹れたての紅茶を優雅に一口飲むと、静かに父を見つめて、問いかけた。

「お父様。教えてくださいまし。未来の国母たる者にとって、最も大切な資質とは、一体何ですの?」

 あまりに突飛な問いに、公爵は一瞬、言葉に詰まる。

「そ、それは…民を愛し、国を思う、慈愛に満ちた心に決まっているだろう!」


 その答えを聞き、わたくしは、にっこりと、完璧な淑女の微笑みを浮かべた。

「その通りですわ。では、お父様。自分の心すら満たすことができず、刺繍糸を選ぶという、ささやかな楽しみすら我慢しなくてはならない人間に、どうして、民を愛し、国を思う、大きな慈愛の心が育つと、本気でお思いですの?」


 それは、父が、そしてこの国の誰もが、これまでわたくしに叩き込んできた「王妃教育」の論理そのものを使った、完璧なカウンターだった。

 正論中の正論に、公爵は「ぐっ…」と息を呑み、何も言い返せなくなる。


 わたくしは、言葉を失った父に、慈悲深く、しかしダメ押しの一言を、そっと添えて差し上げた。


「わたくしは今、未来の良き国母となるべく、自分の心を豊かにするための、非常に重要な『公務』に励んでいる最中ですの。…お分かりになりましたら、お父様。わたくしの『公務』の邪魔は、どうか、なさらないでくださいましね?」

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