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どうせ悪役令嬢なら、二度目の人生は自分ファーストで! ~冤罪で断罪された完璧淑女、時間を遡って好き勝手に生きてたら、なぜか周りがひれ伏し始めました~  作者: ヲワ・おわり
第2章:自分ファースト宣言と最初の反逆

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真夜中のコンフィチュール

 オペレーション・ミッドナイトの決行は、その日の深夜。

 屋敷の者たちが寝静まるのを待ち、わたくしは音を立てないよう、素足に柔らかなガウンという軽装で、そっと自室を抜け出した。長いプラチナブロンドの髪は、邪魔にならないよう、ベッドサイドにあったリボンで無造作にきゅっと結ぶ。気分は、これから始まる大冒険におもむく、おてんばなお姫様だ。


 月明かりだけが差し込む、薄暗い廊下。

 わたくしは、ここで一つのスキルを発動させる。王妃教育スキル――『気配遮断サイレント・ステップ』。

 夜会で目立たず、しかし優雅に移動するために、何千回と練習させられた歩法。体重を足の指の付け根で吸収し、まるで床の上を滑るかのように、音もなく進む。


『まさか、あの忌々しいダンスのレッスンが、こんなところで役に立つなんて。人生、何が幸いするか分からないものですわね』


 自分の状況に内心でツッコミを入れながら、わたくしは無事に最終目的地である厨房の扉の前へとたどり着いた。

 しかし、扉の隙間から、煌々と明かりが漏れている。

 …先客がいる?


 わたくしが息を殺して中を覗くと、そこには、腕組みをしながら火の前に立つ、屈強な男の背中があった。

 間違いない。公爵家の厨房を三十年間守り続けてきた、鬼の料理長、ゲルトナーその人だ。


 絶体絶命…? いいえ、好都合だわ。

 ゲルトナーは物音に気づき、ギロリとわたくしを睨みつけた。「…お嬢様。このような夜更けに、厨房で何を?」。その威圧感は、そこらの騎士など足元にも及ばない。


 わたくしはここで、第二のスキルを発動する。王妃教育スキル――『人心掌握術(ゴシップ偏)』。

 一度目の人生で、わたくしは主要な使用人全員の性格、経歴、趣味、そして弱点を、試験問題のごとく暗記させられていたのだ。

『ゲルトナー料理長。年齢、六十二歳。頑固一徹、職人気質。しかし、新しいレシピの開発に命を懸けており、特に最近試作中のハーブスコーンの評価を、喉から手が出るほど気にしているはず…!』


 わたくしは、怯えるどころか、完璧な淑女の笑みを浮かべてみせた。

「眠れなくて、少し夜風にあたっていたの。あら、ゲルトナー。その香ばしい匂いは、もしかして噂の新作スコーンかしら? ローズマリーの香りが、ここまで漂ってきてよ。少しだけ、焼きが強いように感じるけれど、それが逆に、力強い香りを引き立てているのかしら…?」


 料理人でもない令嬢からの、あまりに的確すぎる批評。ゲルトナーの厳つい顔が、驚きに見開かれたのを、わたくしは見逃さなかった。


「一口、味見させてくださる?」

 わたくしは、彼から焼きたてのスコーンを受け取ると、その場で完璧な食レポを展開してみせる。

「…素晴らしいわ。外はカリッと小気味よい歯ざわりなのに、中は驚くほどしっとり。バターの豊かな風味を、ローズマリーの僅かな苦みがきりりと引き締めているのね。これに合わせるなら、濃厚な花の蜂蜜より、少し酸味のある果実のコンフィチュールの方が、互いの魅力を引き立て合うかもしれないわ…」


 わたくしの食への深い洞察力と、隠しきれない情熱に、頑固な料理長の心の砦は、ガラガラと音を立てて崩れ落ちた。

「お、お嬢様…! あなた様こそ、我が輩のスコーンの、真の理解者でございます…!」

 彼は感涙にむせびながら、焼きたてのスコーンを一皿と、棚の奥から秘蔵の、黄金色に輝く蜂蜜漬け(コンフィチュール)の小瓶を取り出し、わたくしに恭しく差し出した。

「これは、我が料理人生の全てを懸けて作った、最高の蜂蜜漬けでございます! どうか、お納めくださいませ!」

 わたくしは、「仕方ありませんわね」と優雅に微笑みながら、全ての戦利品を、ありがたく頂戴したのだった。


 自室のテラスに戻ったわたくしは、小さなテーブルに、ささやかな晩餐の準備を整えた。

 月明かりが、黄金色の蜂蜜漬けをキラキラと照らし、スコーンからはまだ、温かい湯気が立ち上っている。

 わたくしは、スコーンを半分に割り、たっぷりのクロテッドクリームと、宝石のように輝く蜂蜜漬けを、これでもかというくらい山盛りに乗せた。

 そして、一度目の人生では、決して、決してできなかった、大きな口を開けて、それを、一気に、頬張った。


 ――サクッ。

 最初に、小気味よい音が響く。

 ――ふわっ。

 次に、バターの香りが鼻に抜ける、温かく柔らかな生地。

 ――とろり。

 最後に、クリームの滑らかさと、蜂蜜の濃厚で、しかし上品な甘さが、口の中いっぱいに広がっていく。


 暴力的なまでの、幸福感。


「……おいしい…」


 その一言を漏らした瞬間、わたくしの瞳から、一筋の涙が、静かにこぼれ落ちた。

 それは、断罪の夜に流した、冷たい悔し涙とは全く違う。

 温かくて、少しだけしょっぱくて、そして、どうしようもなく甘い、幸せの味がする涙だった。


『ただ、美味しいと感じる。わたくし、こんな当たり前の感情も、忘れてしまっていたのね』


 空っぽだったわたくしの心が、温かいスコーンと、甘い蜂蜜で、ゆっくりと満たされていくのを感じる。

 それは、わたくしが失っていた人間性を取り戻し、自分自身を少しだけ、愛し始めるための、甘くて優しい、最初の儀式だったのかもしれない。

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