王妃教育(物理)
覚醒の翌朝。
わたくしの新しい人生は、侍女エマの明るい声と共に始まった。
「お嬢様、朝でございます。本日から、王妃教育の新しい講師として、歴史学の権威であるバルトリ教授がいらっしゃいますわ」
エマが、晴れやかな顔で差し出してくる。
一つは、わたくしの身体を鉛のように重くする、コルセット付きの豪奢なドレス。
もう一つは、わたくしの心を鉛のように重くする、分厚く退屈な専門書。確か、『王妃のための帝王学』とかなんとか。
それは、わたくしの「これまで」の日常を象徴する、二つの枷だった。
わたくしは、ベッドから起き上がろうともせず、高級な絹の布団に繭のようにくるまったまま、一言だけ、告げた。
「……やめた」
「へ?」
きょとんとするエマに、わたくしは続ける。
「気分が優れないの。今日の講義は、全てお断りしてちょうだい」
完璧な淑女であったお嬢様の、初めてのサボタージュ宣言。エマが「し、しかし、クライフェルト公爵様がなんとおっしゃるか…」と食い下がると、わたくしは布団の中で足をばたつかせ、子供のように駄々をこねてみせた。
「聞こえなーい、聞こえないわー。わたくしは今、重い病なの。そう、『退屈だと死んでしまう病』よ」
呆然と立ち尽くすエマが、半泣きで部屋から退出していくのを見届けると、わたくしは「ふぅ」と満足げに息をつき、極上の二度寝を決め込むのだった。
ああ、なんて背徳的で、なんて甘美な朝なのかしら!
昼過ぎに、ようやく重い腰を上げてベッドから這い出すと、わたくしは部屋を見渡した。
そして、その視線は、壁一面を埋め尽くす、壮麗な作りの書棚――これまでわたくしの血肉となり、同時にわたくしを縛り付けてきた、忌々しい書物の群れ――に注がれた。
『淑女の立ち振る舞い百選』
(ああ、この本のせいで、何度、背中を鞭で叩かれたことか)
『国母たる者の心得』
(この本のせいで、何度、自分の心を殺すよう言い聞かせられたことか)
『王家伝統の刺繍図案集』
(……刺繍は嫌いよ。本当は、剣を振り回す方が、ずっと好きだったのに)
もう、うんざりだわ。
わたくしは、決然とした足取りで書棚に向かうと、その忌々しい本たちを、一冊、また一冊と、床に引きずり出していく。
そして、その全てを、部屋の隅にある大理石造りの暖炉の前へと、恭しく運んでいった。
まるで、これから始まる神聖な儀式のために、生贄を祭壇に捧げる神官のように。
わたくしは、最初に、最も分厚く、最も退屈だった『王妃のための帝王学』を手に取った。
そして、何のためらいもなく、暖炉の燃え盛る炎の中へと、それを放り込んだ。
ぱちぱち、と。
上質な羊皮紙が、小気味よい音を立てて、美しい炎に包まれていく。
その、赤く燃え上がる炎を見つめながら、わたくしは静かに、しかし力強く、宣言した。
「――清純なヒロインを演じて捨てられるくらいなら、自分の欲望に忠実な悪役令嬢の方が、万倍マシですわ!」
燃え上がる本は、まるで、過去の自分との決別を祝い、新しい自分の誕生を祝福する、炎の王冠のようだった。
ああ、なんて美しいのかしら。これこそが、本当の意味での「王妃教育」というものよ。物理的な、ね。
その時だった。
「お嬢様、何をなさって――ひぃぃぃ! 火事ですわ!」
物音に気づいたエマが、慌てて部屋に飛び込んできた。
わたくしは、そんな彼女に悪びれもせず、にっこりと微笑んでみせる。
「あら、エマ。見てちょうだい、とてもよく燃えるわ。きっと、質の良い紙を使っているのね。さすがは王家御用達だわ」
「そういう問題ではございません!」
エマの悲鳴をBGMに、ひとしきり過去の残骸を燃やして満足したわたくしは、ふと、自分のお腹が「くぅ」と、可愛らしい音を立てるのを感じた。
これまで、王妃教育のために食事は常に腹八分目。甘いものなどは、毒物かのように厳しく制限されてきた。空腹なんて、はしたない感情だと思っていた。
けれど、今ならわかる。
これは、わたくしが「生きている」という、何よりの証拠なのだと。
その瞬間、わたくしの脳裏に、一度目の人生でずっと憧れ続けていた、禁断の味が甦った。
それは、夜会の厨房から漂ってくる、甘くて香ばしい、あの香り。
鬼のゲルトナー料理長が、特別な日にだけ作るという、黄金色の蜂蜜漬けと、バターを惜しげもなく使った、罪深いほどに美味しそうなスコーン。
わたくしは、にやりと、悪役令嬢にふさわしい笑みを浮かべた。
「決めたわ。わたくしの治世、最初の勅令は――」
「『真夜中の厨房を、征服せよ』、よ!」