脚本家は、私だ
意識が、ゆっくりと浮上する。
最初に感じたのは、頬に触れる最高級の絹のシーツの、滑らかな感触だった。次に、瞼の裏を透かす、窓から差し込む朝日の穏やかな暖かさ。
冷たい大理石の床で倒れたはずなのに、と、ぼんやり霞む頭で思う。
身体を起こすと、そこは紛れもなく、見慣れたわたくしの部屋の天蓋付きベッドの中だった。
あの夜会の喧騒も嘲笑も、何も聞こえない。あまりの静けさに、胸が安堵で満たされていく。
『ああ、全ては、あまりに惨めで、長い悪夢だったのね…』
そう。きっと、疲れていたのだわ。婚約者という重圧に、心が少し、疲れてしまっていただけ。
わたくしが安堵の息をついた、まさにその時だった。
「お嬢様、お目覚めでございますか」
ノックと共に、侍女のエマが部屋に入ってきた。その顔には、心配の色ではなく、晴れやかで、幸福に満ちた笑顔が浮かんでいる。
そして、彼女は、わたくしの儚い安堵を木っ端みじんに打ち砕く、あまりにも無邪気で、あまりにも残酷な一言を告げた。
「本日は、アルブレヒト殿下とのご婚約が王宮より正式に発表される、記念すべき日でございますわ! おめでとうございます、アリアンナお嬢様!」
――ごこんやくの、はっぴょう…?
その言葉が、わたくしの頭の中で、意味を結ばない。
違う。悪夢ではなかった。これは、悪夢よりもさらに残酷な、現実。
神は、わたくしをあの地獄から救い出してはくださらなかった。
それどころか、あの地獄が始まる、まさにそのスタート地点に、わたくしを叩き戻したのだ。
わたくしは、エマの制止も聞かず、よろめきながらベッドを降りると、吸い寄せられるように姿見の前へと向かった。
そこに映っていたのは、16歳の、まだ絶望を知らない、自分自身。
肌には一点の曇りもなく、空色の瞳は未来への純粋な希望に輝き、そして唇には、誰からも愛される「完璧な淑女」の、穏やかな微笑みが浮かんでいる。
それは、これから2年間、自分を殺し、心をすり減らし、その果てに、愛した男に無様に捨てられる運命の、「完璧な人形」の姿だった。
その顔を見た瞬間、あの夜会での絶望、王子への憎しみ、リゼットへの侮蔑、そして何より、こんな愚かな結末のために人生の全てを捧げた自分自身への、燃えるような激しい怒りが、堰を切ったように蘇ってきた。
わなわなと、身体が震える。
「お嬢様、どうかなさいましたか!? お顔が真っ青ですわ!」
エマが心配そうに駆け寄ろうとした、その時だった。
「……くくっ」
わたくしの震える唇から漏れたのは、悲鳴でも、嗚咽でもなかった。
最初は、押し殺したような、か細い声。
やがてそれは、はっきりと、「くくくっ、あはははははっ!」という、狂おしいほどに楽しげな、甲高い笑い声へと変わっていった。
侍女が怯えて後ずさるのも構わず、わたくしは笑い続ける。
ああ、なんて滑稽なのかしら!
あんなに尽くしても、わたくしは悲劇のヒロインではなく、ただ捨てられるだけの「悪役令嬢」にしかなれなかった! なんて、陳腐で、つまらない脚本なのかしら!
ひとしきり笑いがおさまると、わたくしは鏡の中の自分を、射抜くような強い瞳で見つめた。
そこにはもう、穏やかな微笑みを浮かべた人形はいない。
唇の端を妖艶に吊り上げ、瞳の奥に、全てを焼き尽くすかのような、冷たい復讐の炎を宿した、見知らぬ「誰か」が立っていた。
わたくしは、鏡の中の自分に、そしてこれからの自分に言い聞かせるように、静かに、しかしはっきりと呟いた。
「けれど、神様も、なかなかどうして粋なことをしてくださる。もう一度、このつまらない舞台を、演じ直す機会をくださるなんて」
そう。
筋書きは、もう全て知っている。
登場人物も、黒幕も、結末も。
ならば。
わたくしは、鏡の中の自分に向かって、最高の笑みを浮かべると、高らかに、そして華麗に、宣言した。
「――いいでしょう。どうせ演じるなら、最高の悪役になってさしあげますわ。ただし」
「今度の脚本家は、このわたくしよ!」
その言葉は、わたくしの華麗なる復讐劇と、自分ファーストで生きる新しい人生の、高らかな開幕宣言だった。
部屋に差し込む朝日は、まるで、新しい物語の主役となったわたくしを祝福する、まばゆいスポットライトのように、きらきらと輝いていた。