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3/7

脚本家は、私だ

 意識が、ゆっくりと浮上する。

 最初に感じたのは、頬に触れる最高級の絹のシーツの、滑らかな感触だった。次に、瞼の裏を透かす、窓から差し込む朝日の穏やかな暖かさ。

 冷たい大理石の床で倒れたはずなのに、と、ぼんやり霞む頭で思う。


 身体を起こすと、そこは紛れもなく、見慣れたわたくしの部屋の天蓋付きベッドの中だった。

 あの夜会の喧騒も嘲笑も、何も聞こえない。あまりの静けさに、胸が安堵で満たされていく。


『ああ、全ては、あまりに惨めで、長い悪夢だったのね…』


 そう。きっと、疲れていたのだわ。婚約者という重圧に、心が少し、疲れてしまっていただけ。

 わたくしが安堵の息をついた、まさにその時だった。


「お嬢様、お目覚めでございますか」


 ノックと共に、侍女のエマが部屋に入ってきた。その顔には、心配の色ではなく、晴れやかで、幸福に満ちた笑顔が浮かんでいる。

 そして、彼女は、わたくしの儚い安堵を木っ端みじんに打ち砕く、あまりにも無邪気で、あまりにも残酷な一言を告げた。


「本日は、アルブレヒト殿下とのご婚約が王宮より正式に発表される、記念すべき日でございますわ! おめでとうございます、アリアンナお嬢様!」


 ――ごこんやくの、はっぴょう…?


 その言葉が、わたくしの頭の中で、意味を結ばない。

 違う。悪夢ではなかった。これは、悪夢よりもさらに残酷な、現実。

 神は、わたくしをあの地獄から救い出してはくださらなかった。

 それどころか、あの地獄が始まる、まさにそのスタート地点に、わたくしを叩き戻したのだ。


 わたくしは、エマの制止も聞かず、よろめきながらベッドを降りると、吸い寄せられるように姿見の前へと向かった。

 そこに映っていたのは、16歳の、まだ絶望を知らない、自分自身。

 肌には一点の曇りもなく、空色の瞳は未来への純粋な希望に輝き、そして唇には、誰からも愛される「完璧な淑女」の、穏やかな微笑みが浮かんでいる。


 それは、これから2年間、自分を殺し、心をすり減らし、その果てに、愛した男に無様に捨てられる運命の、「完璧な人形」の姿だった。


 その顔を見た瞬間、あの夜会での絶望、王子への憎しみ、リゼットへの侮蔑、そして何より、こんな愚かな結末のために人生の全てを捧げた自分自身への、燃えるような激しい怒りが、堰を切ったように蘇ってきた。


 わなわなと、身体が震える。

「お嬢様、どうかなさいましたか!? お顔が真っ青ですわ!」

 エマが心配そうに駆け寄ろうとした、その時だった。


「……くくっ」


 わたくしの震える唇から漏れたのは、悲鳴でも、嗚咽でもなかった。

 最初は、押し殺したような、か細い声。

 やがてそれは、はっきりと、「くくくっ、あはははははっ!」という、狂おしいほどに楽しげな、甲高い笑い声へと変わっていった。


 侍女が怯えて後ずさるのも構わず、わたくしは笑い続ける。

 ああ、なんて滑稽なのかしら!

 あんなに尽くしても、わたくしは悲劇のヒロインではなく、ただ捨てられるだけの「悪役令嬢」にしかなれなかった! なんて、陳腐で、つまらない脚本なのかしら!


 ひとしきり笑いがおさまると、わたくしは鏡の中の自分を、射抜くような強い瞳で見つめた。

 そこにはもう、穏やかな微笑みを浮かべた人形はいない。

 唇の端を妖艶に吊り上げ、瞳の奥に、全てを焼き尽くすかのような、冷たい復讐の炎を宿した、見知らぬ「誰か」が立っていた。


 わたくしは、鏡の中の自分に、そしてこれからの自分に言い聞かせるように、静かに、しかしはっきりと呟いた。

「けれど、神様も、なかなかどうして粋なことをしてくださる。もう一度、このつまらない舞台を、演じ直す機会をくださるなんて」


 そう。

 筋書きは、もう全て知っている。

 登場人物も、黒幕も、結末も。


 ならば。


 わたくしは、鏡の中の自分に向かって、最高の笑みを浮かべると、高らかに、そして華麗に、宣言した。


「――いいでしょう。どうせ演じるなら、最高の悪役ヒロインになってさしあげますわ。ただし」


「今度の脚本家は、このわたくしよ!」


 その言葉は、わたくしの華麗なる復讐劇と、自分ファーストで生きる新しい人生の、高らかな開幕宣言だった。

 部屋に差し込む朝日は、まるで、新しい物語の主役ヒロインとなったわたくしを祝福する、まばゆいスポットライトのように、きらきらと輝いていた。

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