遠い国の黒い騎士
王子との鮮やかなる対決があった夜会の翌日。
わたくしは、少しだけ疲れた心身を癒すように、自室の書斎の日当たりの良いソファに深く身を沈めていた。
勝利の爽快感は、確かにある。
けれど、あの時の王子の瞳に宿っていた、理性を失くした獣のような昏い光が、心の隅に小さな棘のように引っかかっていた。
その時だった。
「お嬢様、東の国からの定期便でございます」
侍女のエマが、差し出してくれたのは、見慣れたシュヴァルツェンベルクの獅子の紋章が、誇らしげに押された、一通の手紙だった。
差出人は、もちろん商人ルーク――いえ、わたくしだけの秘密の王子様、ルシウス様から。
その手紙の存在だけで、心の棘がすっと溶けていくような気がした。
手紙の前半は、いつも通りの簡潔で、しかし愛情のこもったビジネスの報告だった。
『女神のルビー』の売れ行きは、東の都で社会現象と化していること。新たに、南の大陸への販路も開拓したこと。次回の輸送計画について、いくつか確認したいことがあること。
その、信頼に満ちた文字を追うだけで、わたくしの心は温かいもので満たされていく。
しかし、わたくしの心を、本当に鷲掴みにしたのは、手紙の最後に添えられていた、いつもよりずっと長い追伸だった。
「――追伸:
君が夜会で、新しい概念のドレスをお披露目し、王都の淑女たちの凝り固まった心を鮮やかに鷲掴みにしたという実に愉快な噂は。
この海を越えた遠い都にまで、瞬く間に届いている。
聞けば、そのドレスは『リバティ』と、名付けられているそうだな。
…君らしい、最高の名前だ。
身体の自由、心の自由、そして雁字搦めだった過去からの自由。
君は、それをたった一人の力で掴み取り、今度はそれをかつての君と同じように、美しい鳥籠の中にいた鳥たちにも分け与えようとしている。
そのあまりに気高く、そしてどうしようもなく強い君の魂の在り方に、この俺は改めて心からの感嘆を禁じ得ない。
君は、ただの商人ではない。世界を変える、革命家だ」
その言葉は。
わたくしの心の棘を、優しく抜き去ってくれた。
王子のように、わたくしを自分の所有物として見下すのではなく。
わたくしの行動のその本質を、誰よりも深く理解してくれる存在がいる。
その、どうしようもないほどの事実が、わたくしの胸を温かい幸福なもので満たしていった。
しかし、手紙にはまだ続きがあった。
「追伸2:
とはいえ、革命には常に愚かな抵抗がつきものだ。輝かしい光には、必ず醜い影が寄り添う。
特に、一度手にした玩具を失ったと思い込んでいる、どうしようもなく愚かで、そしてどうしようもなくプライドの高い子供には、くれぐれも注意した方がいい。
――心配はするな。
こちらで少しばかり面白い釘を刺しておいた。
だが、君も決して油断はしないように。
もし君のその身に万が一のことがあれば、この俺はおそらく、国を一つ焦土に変えてしまいかねないほど、我を忘れるだろうからな」
あまりに物騒で、しかしあまりに甘い文面に、わたくしは全てを察した。
ルシウス様は、遠い国にいながらにして、この王都で起きていること、アルブレヒト王子の哀れな動向すらも全てその掌の上で把握しているのだ。
そして、わたくしの知らないところで、既に何らかの形で王子に、警告を送ってくれていたのだ。
『あの人はいつだってそうなのだわ。わたくしが、自由に心のままに羽ばたけるように、見えないところで行く手を阻む嵐を払い、わたくしを狙う敵を牽制し新しい道を作ってくれている。わたくしだけの遠い国の黒衣の騎士…』
彼への信頼と、そして愛情が、もはや抑えきれないほど大きくなっているのを、わたくしは自覚していた。
――その頃、王宮の一室。
アルブレヒト王子は、シュヴァルツェンベルク大公国の大使から、丁重だが内容はほとんど脅迫に近い抗議文を突きつけられ、屈辱にわなわなと震えていた。
「あの男…! 遠い国からこの僕に指図する気か…!」
そこへリゼットが、まるで計算し尽くしたかのように、怯えた小動物のふりをして現れた。
「殿下…お気をつけくださいませ。アリアンナ様は、隣国のあの恐ろしい男の力を使い、この国を内側から乗っ取ろうとしているのかもしれませんわ…」
彼女の毒のような囁きは、王子の嫉妬と被害妄想に満ちた心に染み込んでいく。
「そうだ…そうに違いない…! アリアンナは、俺をこの国を裏切ったのだ!」
光を失った昏い瞳で、王子はリゼットと顔を見合わせる。
二つの醜い影が、アリアンナを今度こそ完全に陥れるための、より卑劣でより危険な次の陰謀を企て始めていた。
わたくしは、ルシウス様からの手紙を、宝物のようにそっと胸に抱きしめる。
心は温かい幸福感に満たされていた。
しかし、わたくしの知らないところで。
もはや警告などでは、到底止められないほどに歪みきった執着と純粋な悪意が。
わたくしの足元に、濃くどこまでも暗い不吉な影を落とし始めていることに。
この時のわたくしは、まだ気づいてはいなかった。




