動き出す運命
商人ルークと秘密の契約を結んだ、まさにその翌朝のことだった。
わたくしは今後の『女神のルビー』の生産計画について、頭を悩ませていた。まずは少しずつ生産量を増やし、品質を安定させなくては…などと堅実なことを考えていた、その時である。
窓の外が、にわかに騒がしくなった。
地響きのような、馬のいななきと、車輪の軋む音。
わたくしが何事かと窓から外を覗くと、信じられない光景がそこに広がっていた。
クライフェルト公爵家の、荘厳な正門の前。
そこにはおびただしい数の屈強な男たちと、山のような荷物を積んでもびくともしなさそうな、頑丈な大型の荷馬車が、まるでどこかの国の軍隊のように、整然と寸分の隙間もなく列をなしていたのだ。
仰天するわたくしと、屋敷の使用人たちの前に、その集団の隊長らしき、一際体格の良い男が進み出てきた。
彼は窓辺に立つわたくしを見つけると、その場に恭しく片膝をつき腹の底から響くような朗々とした声で、言った。
「――商人ルーク様の命により、参上いたしました! アリアンナ様!」
「え…!?」
「『女神のルビー』を、ここに、あるだけ全て、お預かりせよ、とのことでございます!」
わたくしは、そのあまりの規模と、そして、契約からわずか半日という、常識では考えられないスピードに、もはや言葉を失っていた。
「(…話が、早すぎる! まるで、こうなることが、昨日から分かっていたかのような、完璧な手際の良さ…! あの男、ルーク…いいえ、ルシウス様は、一体、何者なの…!?)」
ただならぬ事態に、兄フェリクスが、部屋に駆け込んでくる。
彼は、窓の外の光景を一瞥すると、顔を真っ青にした。
「アリアンナ! いったい、お前は、誰と契約したんだ!? あれは、ただの商人の護衛じゃないぞ…! 動きに、一切の無駄がない。まるで、どこかの国の、精鋭騎士団だ…!」
兄様の心配も、もっともだった。
しかしわたくしの瞳には、もはや一片の迷いもなかった。
わたくしは、兄様に向き直ると静かに、しかし心の底からの揺るぎない確信を込めて告げた。
「兄様、心配はご無用ですわ。わたくしは、ただの商人と契約したのではありません」
「わたくしは、わたくしの夢を、わたくし自身が想像していた以上の、遥かに大きなスケールで実現してくれる…そういう、『可能性』そのものと、契約を結んだのですから」
わたくしの瞳に宿る、揺るぎない覚悟を見て、兄様は、それ以上何も言わなかった。
彼はわたくしの肩に、ぽん、と力強く手を置くと、「…分かった。お前が信じた男なら、俺も信じよう。だが何かあったら、絶対に、何があっても、この兄に言うんだぞ。お前の、世界でたった一人の、兄なのだからな」と、少しだけ潤んだ目で、笑ってくれた。
あれから、数週間が過ぎた。
クライフェルト家の屋敷は、ジャムの増産体制に入り、かつてないほどの活気に満ちていた。
わたくしは、ルークからの、最初の報せを、今か今かと、待ちわびていた。
そして、ある晴れた日の午後。
ついに、その報せは、一羽の鷲によって、東の空から届けられた。
差出人は「ルーク」。
しかし、その封筒は、最高級の羊皮紙でできており、封蝋には、わたくしが見たこともない、猛々しい獅子をかたどった、精緻な紋章が、誇らしげに押されていた。
わたくしは、震える手で、その封を切る。
中には簡潔な報告と、そして、信じられないほど分厚い、注文書の束が入っていた。
「――拝啓、我が麗しのパートナー殿。
君の『ルビーの涙』(こちらでは、そう呼ばれている)は、東の都の食通たちの間で、瞬く間に評判となり、第一便は、市場に出回る前に、貴族たちの予約だけで、即日完売した。皆、次の到着を、赤子のように泣きわめいて、待ちわびている。
同封したのは、追加の注文書だ。せいぜい、腕によりをかけてくれたまえ」
わたくしが、その注文書に目を通すと、そこには、これまでの生産量の、実に数十倍というとんでもない数が、美しい筆記体で、記されていた。
それは、もはや個人の商売ではない。国家規模の、巨大な交易と呼ぶべきレベルだった。
そして。
手紙の最後には短い、しかしわたくしの運命を決定づける、追伸が添えられていた。
「追伸:
我が国の、食いしん坊で、少しだけわがままな姫君や、美意識の高い貴婦人方が、この奇跡のジャムを作ったという『女神』に、一目会って、直接お礼がしたい、と聞かないのだ。
近いうち、君を、我が国へ『正式に』お迎えするための使者が、クライフェルト公爵家を、公式に訪問することになるだろう。
――心の、準備をしておくように」
「正式な、使者…?」
その言葉を読んだ瞬間、わたくしの頭の中で、これまでバラバラだった、全てのピースが、カチリ、と音を立てて、一つにはまった。
軍隊のような護衛たち。
桁違いの資金力と、実行力。
東の都との、あまりに太いパイプ。
そして、あの気品と、隠しきれない威圧感。
「(…まさか。あの男は、ただの商人どころか、大貴族ですらない。シュヴァルツェンベルク大公国の…?)」
わたくしは、自分が、知らず知らずのうちに、とんでもない大渦の中心に、足を踏み入れてしまったことを、悟った。
わたくしの運命の歯車が、今、わたくし自身の想像を、遥かに、遥かに超えるスケールで、大きく、そして力強く、回り始めたのだった。




