悪魔との契約
ルークと名乗る男に導かれるまま、わたくしは広場の喧騒から離れ、薄暗い路地裏へと足を踏み入れた。
彼が案内したのは、昼間から開いている、古びた一軒の酒場だった。
木の扉を開けると、むっとした酒の匂いと、燻製肉の香ばしい匂いが鼻をつく。中では、いかにも柄の悪そうな船乗りや、屈強な傭兵たちが、低い声で談笑していた。
貴族令嬢なら、悲鳴を上げて逃げ出しそうな雰囲気。
けれどわたくしは、少しも動じなかった。不思議と目の前の男が、わたくしに危害を加えるような人間ではないことだけは、その魂のどこかで、確信していたのだ。
わたくしたちは、店の最も奥まった薄暗いランプの光だけが届く、小さなテーブル席に向かい合って座った。
まるでこれから始まる密談に、これ以上ないほどふさわしい、秘密めいた舞台設定だった。
ルークは、懐から一枚の使い込まれた羊皮紙を取り出すと、テーブルの上に広げた。
それはこの大陸全体の、驚くほど詳細な地図だった。
そして、彼はそのしなやかな指で、シュヴァルツェンベルク大公国から、大陸の東の果てまで続く、一本の赤い交易路を、ゆっくりと、なぞった。
「俺には、ルートがある」
彼は、静かに、しかし絶対的な自信を込めて言った。
「君のそのジャムを、この大陸中に売り捌くための、完璧な販路がな。東の大動脈と呼ばれる、シュヴァルツェンベルクの商業ルートだ」
そして彼は、その紫電の瞳で、わたくしの心を射抜くように、真っ直ぐに見つめて、言った。
「お嬢さん。俺と、組まないか? 俺が、販路と輸送手段と、そして何より、お前の安全を完璧に保証する。君は、ただ世界で一番美味いジャムを、作り続けるだけでいい」
その提案は、破格という言葉では生ぬるいほど、魅力的だった。
ギルドという巨大な壁に門前払いされたわたくしにとって、それは天から差し伸べられた、唯一無二の、黄金の蜘蛛の糸のようだった。
「(けれど…)」
わたくしの心に、一度目の人生の、あの苦い記憶が、警鐘のように鳴り響く。
「(話が、うますぎる。この男の、本当の目的は、一体何…? また、信じて、裏切られるのは、もうたくさんだわ…)」
わたくしは意を決して、顔を上げた。
目の前の男は、胡散臭い。危険な匂いもする。
けれど、その瞳の奥にある光だけは、嘘をついていないように、見えた。
わたくしは、自分の新しい人生の、最初の大きな賭けに、出ることにした。
「…いいでしょう。あなたと、組みますわ」
そしてわたくしは、彼に三つの条件を提示した。
「ただし、条件が三つあります。これを呑んでいただけないのなら、この話は、今すぐ白紙です」
「第一に、わたくしは、あなたの下請けになるつもりは、毛頭ございません。あくまで、対等なビジネスパートナーとして、利益は公正に折半すること」
「第二に、商品の品質に関する、最終的な決定権は、全て、このわたくしが持つこと」
そしてわたくしは、一度息を吸い込む。
最後の条件は、彼の正体を暴くためのわたくしが仕掛けた、最大の罠であり、そして最大の賭けだった。
「そして第三に…これから交わす契約書には、お互いの『真名』で、署名をすること。偽りの名で結ぶ薄っぺらい契約など、わたくしは一切信用いたしませんから」
わたくしの、堂々とした条件提示を聞き、ルークは一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたが、すぐに心底楽しそうなまるで悪魔のような、獰猛な笑みを浮かべた。
「…はっ、ははははっ! 面白い! 君は、俺が思った以上に、最高に面白い女だ!」
彼は、その全ての条件を、いとも容易く、快諾した。
「いいだろう。その条件、全て呑もう。君は、俺の対等なパートナーだ」
彼は酒場の店主から、古びた紙とインクの壺を借りると、その場で驚くほど達筆な文字で、即席の契約書を書き上げていく。
そしてついに、署名の瞬間が訪れた。
わたくしは固唾をのんで、彼が持つペンの先を、見つめていた。
しかし。
彼が、そこにさらさらと記したのは、やはり。
「流れの商人 ルーク」という、偽りの名だった。
わたくしは一瞬、失望に唇を噛みしめる。
しかしすぐに、不敵な挑戦的な笑みを取り戻した。
「…今は、それで結構ですわ。いずれ、そのペンが、あなたの本当のお名前を記す日を、楽しみにしておりますから」
その言葉に、ルークもまた、挑発的に、そしてどこか嬉しそうに、笑い返した。
「その日を、無事に迎えられるかどうかは、君の作るジャムの、腕次第だな」
こうして。
互いに、腹に一物も二物も抱えたまま。
偽りの名で、しかし互いの才能への確かな信頼と、未来への期待を込めた、危険でそしてどうしようもなく甘い、秘密の契約が結ばれた。
わたくしたちが、固く握手を交わした、まさにその瞬間。
酒場の外で、遠雷がゴロゴロと低く長く鳴り響いた。
それはこれから始まる、わたくしたちの波乱に満ちた未来を祝福する、ファンファーレのようにも聞こえた。




