血と涙で綴られた、努力の走馬灯
意識が、落ちていく。
冷たくて、暗くて、どこまでも深い場所へ。シャンデリアの光も、人々の嘲笑も、もう何も届かない、静かな闇の中へ。
『わたくしの人生は、一体、何だったのだろう…』
その、声にならない問いが引き金となったかのように、脳裏に、忘れ去っていたはずの過去の記憶が、堰を切ったように溢れ出した。
それは、血と涙で綴られた、わたくしの努力の走馬灯だった。
――最初に浮かんだのは、まだ幼い、8つの頃の自分。
重厚な書斎。厳格な父様の前で、わたくしは頭に分厚い本を乗せ、背筋を伸ばして歩く練習をしていた。何度も本を落とし、足は震え、膝には痣ができていた。涙がこぼれそうになるのを、必死に奥歯を噛みしめて堪える。
「未来の王妃が、その程度のことで涙を見せるな!」
父様の厳しい叱責が飛ぶ。
『痛くなかった。辛くなかった』
そう、自分に言い聞かせた。だって、父様が教えてくれたから。この辛い道の先に、アルブレヒト殿下の隣で微笑む、輝かしい未来があるのだと。
窓の外では、兄様が他の貴族の子息たちと、楽しそうに剣の稽古で汗を流していた。その光景が羨ましくないように、わたくしは必死に目に力を込めて、目の前の床の模様だけを見つめ続けた。
――次に浮かんだのは、12歳。令嬢たちが恋物語に夢中になる年頃。
深夜、侍女たちも寝静まった自室。わたくしは、揺れるロウソクの灯りを頼りに、他国の難解な経済学の文献を読みふけっていた。眠気に意識が遠のきそうになると、刺繍針でそっと指先を刺す。チクリ、という小さな痛みが、意識を現実に引き戻してくれた。
同年代の令嬢たちが、騎士との甘いロマンスが描かれた小説に胸をときめかせている間、わたくしは、古代語で書かれた法律書と格闘していた。
『いつか殿下が王になった時、ただ美しいだけの妃ではなく、その知識で彼を支えられる存在になりたかった』
あなたの隣に立つことが、わたくしの世界の全てだったから。
けれど、その記憶と重なるように、現在の光景が脳裏をよぎる。リゼットさんが「難しい本は、わたくし、頭が痛くなってしまって…」と殿下に甘え、殿下が「君はそのままでいいんだ」と、慈しむように目を細める姿が。
わたくしが、血を滲ませるような思いで得た知識は、彼にとって、邪魔なものでしかなかったのだ。
――そして、走馬灯は、16歳の、あの運命の日へ。
アルブレヒト殿下との婚約が、王宮から正式に発表された日の夜会。
わたくしは、誰からも称賛される完璧な微笑みを貼り付け、寸分の狂いもない、完璧な淑女の礼を披露した。その時、殿下はわたくしの手を取り、こう言ってくださったのだ。
「君は、本当に完璧な婚約者だ」
胸が、張り裂けそうなほど嬉しかった。
『嬉しかった。その一言のために、わたくしは全てを捧げてきたのだから』
でも、本当は、心のどこかで分かっていた。あなたが褒めてくれたのは、本当のわたくしではなく、クライフェルト家という名門が、その威信をかけて作り上げた「完璧な人形」だということを。
この日から、わたくしは本当の自分――甘いものが大好きで、本当は馬を駆って風になるのが好きな活発な自分――を、心の奥底にある小さな箱に、固く鍵をかけて閉じ込めた。
その箱の鍵を開けてくれるのは、きっと、いつか王子様が…と。
そんな、あまりにも甘く、愚かな夢を、抱いていたのだ。
走馬灯が、終わる。
意識が、ゆっくりと現在に戻ってくる。
目の前には、リゼットさんを庇い、わたくしを、まるで道端の汚物でも見るかのような、冷たい目で見下す、かつての婚約者の姿。
『…ああ、そうか』
全てを、悟った。
『わたくしが、10年という歳月をかけて、血と涙で築き上げた全てのものは、この女の、たった数滴の嘘の涙に、いとも容易く、負けてしまったのか』
その、絶対的な絶望が。
かろうじて繋ぎ止められていた、わたくしの心の最後の糸を、ぷつりと、断ち切った。
「アリアンナ!」
兄様の悲痛な叫びが、遠くに聞こえる。
けれど、もう、わたくしの耳には届かない。
まるで糸が切れたマリオネットのように、身体から全ての力が抜け、わたくしの意識は、冷たい大理石の床へと、静かに、そして深く、沈んでいった。