商人ルークの揺さぶり
試食会が、熱狂的な盛り上がりを見せる、その最中だった。
不思議なことが、起こった。
あれほどわたくしのテーブルに殺到していた人波が、すっと、まるでモーゼの奇跡のように静かに左右に分かれ、一本の道を、作り出したのだ。
その道の先から、一人の男が、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
上質な黒い外套を、少し着崩して纏い、その長身は、人混みの中でも一際、抜きん出て目立っていた。
そして、その顔を見て、わたくしは息をのんだ。
先日、路地裏で最悪の出会いを果たした、あの傲慢で美しい紫電の瞳の男だった。
わたくしは、一瞬身をこわばらせる。
しかし、すぐに気を取り直し、今はただの街娘のふりをしようと、警戒心を最大限に高めて、相手を真っ直ぐに見据えた。
男は、わたくしの前に立つと、先日とは打って変わって、人懐っこい、しかしどうにも胡散臭いとしか言いようのない、完璧な商人の笑みを浮かべた。
「やあ、お嬢さん。景気のいい商売をしているじゃないか。俺は、流れの商人、ルークと申します。以後、お見知りおきを」
彼は、わたくしが差し出した試食のパンを受け取ると、そこに塗られたジャムを、吟味するように、ほんの一口だけ、味わった。
そして、その紫の瞳を、満足げに細める。
「…ふむ。味は、文句なしの一級品だ。素晴らしい」
彼はそこまで言って、しかしわざとらしく言葉を切った。
そして、わたくしの目を、射抜くように、まっすぐに見つめて、続けた。
「だが、そのやり方では、ただの『美味しいおやつ』で終わる。小銭稼ぎにはなっても、本当の『商売』には、決してならない。もったいない。実に、実に惜しいことだ」
その言葉は、まるで冷たい水のように、わたくしの浮かれた心に、すっと染み込んできた。
図星だったのだ。
わたくしも、心のどこかで分かっていた。このままでは、ただの人気取りで終わってしまう、と。
この男は、わたくしが抱える問題の、まさに核心を、たった一言で、いとも容易く、突いてきたのだ。
「(この男一体何者…? 何が目的なの…?)」
わたくしは、負けじと、気の強い街娘の仮面を被って、言い返した。
「あなたに、一体何が分かるっていうのさ。見ての通り、大盛況じゃない。これ以上、何を望むって言うのよ?」
その猫のような挑発に、ルークと名乗る男は、心底楽しそうに喉を鳴らして笑った。
そして指を一本、すっと立てる。
「第一に、生産性。そのジャム、どうせ鍋で手作りだろう? この凄まじい需要に、供給が全く追いついていない。商機を逃しているぞ」
彼は、二本目の指を立てる。
「第二に、保存性。その可愛らしい瓶詰め、長期保存の工夫がまるで見られない。これでは、遠くの街へは運べない、ただの生菓子だ」
三本目の指。
「第三に、輸送コスト。これだけの量を、安全に、そして迅速に運ぶには、専門の護衛と、何台もの頑丈な馬車が必要になる。その莫大な費用を、君一人で、どうやって捻出するつもりだ?」
そして最後に、彼はまるで子供に言い聞かせるかのように、わたくしの額を人差し指で、とん、と軽く突いた。
「そして何より、致命的に欠けているのが、ブランド戦略だ。『美味しいジャム』というだけでは弱い。誰が、どんな思いでこのジャムを作り、それを食べることで、客はどんな幸福な体験を得られるのか。その『物語』がなければ、人々はすぐにもっと目新しいものに飛びついて、君のことなど、綺麗さっぱり忘れてしまうだろうさ」
彼の指摘は、全てが、わたくしがこれから考えなければならないと、漠然と分かっていた、まさに核心部分そのものだった。
わたくしは、目の前の男の、底知れない知識と、全てを見通すかのような慧眼に、もはや戦慄すら覚えていた。
言葉を失ったわたくしに、ルークはさらに踏み込んでくる。
「どうした、お嬢さん。図星かな?」
しかし、わたくしは、ここで引き下がるアリアンナ・クライフェルトではない。
わたくしは、彼を真っ向から睨みつけ、問いかけた。
「…あなた、一体誰なの? ただの流れの商人が、そこまで詳しいはずがないわ。本当の目的は、何?」
その魂からの問いに。
ルークは、初めてあの胡散臭い商人の笑みを、すっと消した。
そして、あの日の路地裏で見たような、全てを見透かす、本物の、紫電の瞳で、わたくしを、見つめ返した。
彼は、静かにしかしはっきりと告げた。
「わかるさ。俺は、本物を見抜く目には、少しばかり、自信があるんでね」
彼は、そこで一度、言葉を切る。
――このジャムという、商品の、まだ誰も気づいていない本当の価値も。そして、こんな無茶で、無謀で、しかし最高に面白い商売を、たった一人でやろうとしている、君という人間の、その底知れない才能もね」
その言葉に、わたくしの心が、大きくそして確かに揺れた。
彼は、わたくしの家柄でも、外見でもない。
わたくしの「才能」そのものを見抜き、そして評価している。
それは一度目の人生も含めて、わたくしが、誰からも一度も言われたことのない言葉だった。
彼は、再び、あの人好きのする商人の笑みを浮かべると、動揺するわたくしに、そっと、手を差し伸べた。
「少し、場所を変えて、話をしないか? 君のその素晴らしい『宝物』を、ただの道端の石ころで終わらせないための、とびきり面白い提案があるんだが」
その誘いは、まるで悪魔の囁きのように甘く、しかし、抗いがたいほどの、魅力に満ち満ちていた。




