ゲリラ試食会と黒い影
「――無謀だ! アリアンナ、お前は正気か!?」
屋敷に戻る馬車の中、兄フェリクスが頭を抱えて叫んでいた。
「ギルドを敵に回すなど、自殺行為だぞ! これで、王都の商人は、誰一人としてお前のジャムを扱ってくれなくなる!」
その悲痛な叫びに、しかし、わたくしは全く動じていなかった。
窓の外、賑わう王都の通りを眺めながら、にっこりと悪戯っぽく微笑んでみせる。
「兄様。考え方を、少しだけ変えてみるのですわ」
「は?」
「大きな商人様たちが、わたくしの商品を『売ってくれない』というのなら。わたくしが、自らの手で『直接お客様に、この味を届ければいい』。ただ、それだけのことですわ」
「直接…お客様にだと? 馬鹿を言え! どうやって!」
わたくしは、人差し指をすっと立てると、王都で最も人が集まる場所を、指し示した。
「決まっておりますでしょう? あそこで、ですわ」
兄様が指の先を追って見たのは、王都の心臓部、大きな噴水が目印の、中央広場だった。
わたくしが提案したのは、王都のど真ん中で、当局の許可も取らずに試食会を開くという、前代未聞の、そしてあまりに常識外れな、ゲリラ作戦だった。
「公爵令嬢が、路上で物売りだと!? 父上が知ったら、今度こそ卒倒するぞ!」
「あら、父上には黙っていれば、よろしいのではなくて?」
わたくしが悪びれもなく言うと、兄様は天を仰いで「ああ、もう知らん!」と叫んだが、その口元は、明らかに「面白そうじゃないか!」と、笑っていた。
翌日、作戦は決行された。
わたくしは、再びあの灰色のワンピースに着替え、顔がばれないように、フードを目深にかぶる。
兄様も、顔を隠すためにマントを羽織り、護衛兼荷物持ちとして、わたくしに付き従う。
そして、領地から連れてきた、わたくしの忠実なる共犯者、料理人たちも、腕によりをかけて焼いた大量のパンと、朝日を浴びてキラキラと輝く『女神のルビー』の瓶を、荷車に満載して、わたくしたちの後についてきてくれていた。
わたくしたちは、広場の中央、大きな噴水の前という、最も目立つ場所に、小さなテーブルを設置した。
周囲の商人たちが「なんだ、あいつら?」「見ない顔だな」と、訝しげな視線を送ってくるのが、肌で感じられる。
深呼吸を、一つ。
そして、わたくしは、これまでの人生で出したこともないような、しかし、どこまでも通る、凛とした声を、張り上げた。
「――さあさあ、皆様、お立ち会い! こちらは、クライフェルト領が誇る、奇跡のジャム『女神のルビー』にございます!」
「一口食べれば、たちまち幸福になること、間違いなし! なんと、本日に限り、この絶品の試食が、無料でございますよーっ!」
その、淑女にあるまじき呼び声は、広場の喧騒の中でも、不思議と人々の耳に届いたらしい。
最初は、遠巻きに見ていた人々も、「クライフェルト」という高貴な名前と、「無料」という抗いがたい言葉、そして何より、パンに塗られたジャムの宝石のような輝きと、食欲をそそる甘い香りに誘われて、一人また一人と、わたくしたちのテーブルの前に、集まり始めた。
「なんだこれは!」
「うめぇ! 甘いのに、後味がすっきりしてる!」
「こんな美味いジャム、いままで食べたことがねえぞ!」
驚きの声が、最高の宣伝文句となった。
美味しいものを食べた人々の、純粋な笑顔は、何より雄弁な魔法だった。
噂は、瞬く間に広場中を駆け巡り、わたくしたちのテーブルの前には、あっという間に、黒山の人だかりができていた。
用意したパンは、まるで翼でも生えているかのように、飛ぶようになくなっていく。
その、熱狂的な人だかりを。
少し離れた、建物の影から、一人の男が静かに、そして興味深そうに、観察していた。
黒い外套を、目深にかぶっている。その顔は、窺えない。
しかし、外套の隙間から覗くその瞳は、紛れもなくあの鮮烈な紫電の色をしていた。
――ルシウスは、部下から「先日腕を捻り上げられた、あの灰被りの女が、広場で何やら奇妙なことをしております」という報告を受け、半ば興味本位で、見に来たのだった。
そして彼は、目の前で、信じられない光景を目撃する。
あの時、路地裏で出会った、誇り高い瞳を持つ、ただの貧しい少女が。
今、驚くべき商才と、誰もが惹きつけられるカリスマ性を発揮して、百戦錬磨の商人たちですら舌を巻くようなやり方で、大衆の心を、鷲掴みにしている。
『(…面白い。実に、面白い女だ)』
彼の心が、ざわめく。
『(貴族の令嬢かと思えば、護身術の達人。かと思えば、今度は、百戦錬磨のやり手の商人か。あいつは一体、いくつの顔を持っているんだ?)』
彼の心の中で、侮蔑から始まった微かな興味は、今やはっきりと、「この女をもっと知りたい」という、抗いがたいほどに強い、灼けるような欲求へと、姿を変えていることを、彼自身、自覚していた。
彼は、人混みの中で、楽しげに、そして誇らしげに、ジャムを配り続ける彼女の姿から、目を離すことができないでいた。
彼はまだ知らない。
このささやかな衝動が、やがて彼の計画を、彼の人生を、そして彼の国の運命すらも、根底から大きく揺り動かすことになるということを。
彼は、ゆっくりと被っていた外套のフードを取ると、その美しい顔を白日の下に晒し、彼女の方へと、確かな足取りで、歩き出すのだった。




