これは、私の事業ですわ
領地での試食会は、熱狂的な成功を収めた。
『女神のルビー』は、瞬く間に「幸福を呼ぶジャム」として領民たちの間で評判となり、代官の館には、あの味をもう一度と、ジャムを分けてほしいと願う人々が、毎日長い列を作るようになっていた。
領地は、わたくしが来た時とは比べ物にならないほど、活気に満ち溢れている。
その熱狂をわたくしは、冷静に見つめていた。
領民たちの笑顔を見て、もちろん心は満たされていた。けれど、わたくしの頭脳は、もっと先の世界を見ていたのだ。
「(この喜びを、この一口の幸福を、この領地だけのものにしておくのは、あまりにももったいない)」
「(王都の人々にも、いいえ、いずれは海を越えて、大陸の全ての人々に、この味を届けられたなら…!)」
わたくしの中に、単なるパティシエの夢を超えた、新しい、そしてもっと大きな野望が、炎のように燃え上がっていた。
それは、「経営者」としての野望。
この『女神のルビー』を商品化し、一大事業を興す。
そして経済的な自立を完全に果たし、誰にも何にも依存しない、わたくし自身の足で立つ、本当の人生を手に入れるのだ、と。
数日後、わたくしは兄フェリクスと共に、王都の屋敷へと帰還した。
旅立つ前とは明らかに違う、自信と、そして揺るぎない覚悟に満ちたオーラを、わたくしは纏っていたに違いない。
その足で、わたくしは、父クライフェルト公爵の書斎の扉を叩いた。
そして恭しく、しかし堂々と、一つの小瓶を、彼の前に差し出した。
わたくしと、領民たちの情熱と、そしてこの土地の女神の恵みの結晶、『女神のルビー』を。
公爵は、わたくしが持ち帰った「ただのジャム」に、最初は興味も示さなかった。
しかし、わたくしに促され、銀の匙で、ほんの少しだけそれを舐めた、その瞬間。
彼の常に厳格で、ポーカーフェイスを崩さないその表情が、驚愕に目に見えて変わった。
「…こ、これは…! なんという、味だ…!」
彼がこれまで、王宮の食卓で味わってきた、どんな高価な菓子よりも、複雑で、芳醇で、そして衝撃的な味が、その舌を襲ったのだ。
父は、娘の未知の才能に驚きつつも、しかし古い貴族としての価値観から、抜け出すことはできなかった。
「…見事なものだ、アリアンナ。王宮にこれを献上すれば、お前の評判も、少しは上がるだろう。良い『趣味』を、見つけたものだな」
――趣味。
そのたった一言が、わたくしの心に、静かに、しかし強く、火をつけた。
わたくしは、父の目を、射抜くように、まっすぐに見据える。
そして一言一句に、わたくしの全ての意志を込めて、反論した。
「――いいえ、お父様。これは『趣味』や『道楽』などでは、断じてございませんわ」
わたくしは、すっと背筋を伸ばす。
もはや父の庇護を求める、か弱い娘としてではない。
これから新しい時代を創り上げる、一人の事業家として、高らかに宣言した。
「これは、わたくしの『事業』です。わたくしはもう、誰かの付属物としてただ嫁ぐ日を待つだけの、空っぽの人生は送りません。自分の足で立ち、自分の力で富を生み出し、そして自らの手で、自らの未来を切り拓いていくと、そう決めたのです」
わたくしは、そこで一度言葉を切る。
そして父に、最後の最も重要な宣言を告げた。
「――クライフェルト家の人間として、ではなく。アリアンナ・クライフェルト、という、ただ一人の個人として」
その言葉と、わたくしの瞳に宿る、揺るぎない意志の光に、父である公爵は、完全に圧倒されていた。
目の前にいるのは、もはや、自分の言うことを聞くだけだった、従順な娘ではない。
自分と同じか、あるいはそれ以上の覚悟と広い視野を持つ、一人の対等な人間だった。
彼は反論の言葉を、何一つ見つけられないでいた。
その時だった。
こんこん、と扉がノックされ、兄フェリクスが入ってきた。
「父上、お話は聞かせていただきました。俺も、妹の事業に、全面的に協力するつもりです。これは、妹個人の夢であるだけでなく、我がクライフェルト家にとっても、必ずや、大きな利益となるはずですから」
兄様の、力強い援護射撃。それが父の背中を、最後の一押しした。
この瞬間クライフェルト家の、古く凝り固まったパワーバランスは変わったのだ。
わたくしは、もはや「支配される娘」ではなく、この家の未来を担う、「新しい時代の旗手」となったのである。
わたくしは言葉を失った父に、深々と一度だけ淑女の礼をすると、静かに部屋を後にした。
わたくしの次なる戦場は、王都。
古い慣習と、既得権益に守られた、保守的な商人ギルドが牛耳る、鉄壁の市場だ。
わたくしはまだ知らない。
この、手のひらに乗るほど小さなジャムの瓶が、やがて、このエルムガルド王国の経済を根底から揺るがし、そして、遠い国で、わたくしの奇妙な噂を耳にした、あの紫電の瞳の男との運命を、再び、力強く、引き寄せることになるということを。




