女神様の厨房
わたくしは馬から降りると、ルビーベリーの低木に駆け寄った。そして朝露に濡れて輝く、血のように鮮やかな赤い実を一粒、そっと指で摘み取る。
陽光にかざすと、それはまるで、心臓を持った小さな宝石のようだった。
意を決して、それを、おそるおそる口に含む。
――衝撃。
最初に脳天を突き抜けるような、鮮烈な酸味が、舌の上で炸裂した。思わず、顔をしかめてしまうほどの酸っぱさ。
しかしそのすぐ後に、ベリー系の果実が持つ、芳醇でどこか花の蜜のような華やかな香りが、鼻腔をくすぐるように駆け抜けていく。そして最後に、凝縮された太陽の光のような、濃厚でしかし品の良い甘みが、舌の上にいつまでも残るのだ。
「――これは、宝物よ!」
わたくしの唇から、確信に満ちた声が漏れた。
「(この強烈な酸味は加熱することで、深いコクと旨味に変わる。この華やかな香りは、砂糖の甘さと合わさることで、何十倍にも膨れ上がる。そして、この最後に残る上品な甘みは、その全てをまとめる、黄金の蜜となる…!)」
一度目の人生で得た、膨大な食に関する知識が、わたくしに、まだこの世に存在しない「完成形」の味を、はっきりと幻視させていた。
わたくしは、兄フェリクスに手伝わせ、持てる限りの袋に、山のようなルビーベリーを詰め込むと、一目散に、代官の館へと馬を走らせた。
そして、昼食の準備でてんてこ舞いになっている厨房の扉を、バン! と、淑女にあるまじき勢いで開け放つと、そこにいた全員に向かって、高らかに宣言した。
「――これより、この厨房は、わたくしが使わせていただくわ!」
厨房にいた料理長をはじめとするスタッフたちは、一斉に、ぽかんとした顔でこちらを見た。
泥だらけの乗馬服姿の公爵令嬢が、鳥の餌にしかならないと誰もが見向きもしなかった、酸っぱい実を山ほど持ち込み、厨房を乗っ取ろうとしているのだ。
誰もが、「ああ、お姫様の気まぐれが始まった」と、呆れと困惑の表情を浮かべていた。
兄様が、「まあまあ、可愛い妹の社会勉強に付き合ってやってくれ。何かあったら、俺が全責任を持つからさ」と、必死に間に入って、料理人たちをなだめてくれる。本当に、頼りになる兄だ。
こうしてわたくしの、生まれて初めての商品開発は始まった。
大きな銅鍋に、ベリーと砂糖を入れ、火にかける。
しかし知識と実践は、全くの別物だった。
「あら、火が強すぎたかしら。少し焦げてしまいましたわね」
「まあ、今度は砂糖が少なすぎたようね。ただ酸っぱいだけの、赤いお湯になってしまったわ」
失敗、失敗、また失敗。
けれど不思議と、少しも嫌ではなかった。
完璧主義者だったはずのわたくしが、失敗を全く恐れていないのだ。
エプロンはベリーの紫色の汁で汚れ、額には汗が浮かび、頬には煤がつき、もはや公爵令嬢の見る影もない。
しかしその瞳は、子供の頃に兄様と秘密基地を作った時のように、キラキラと輝いていた。
「あら、この焦げも、少しビターで、これはこれで大人の味ね!」「次は、庭から摘んできたハーブを入れてみましょうか!」
心から、この作業を楽しんでいた。
最初は、「やれやれ」と、遠巻きに見ていた料理人たちも、そんなわたくしの姿に、次第にその見る目を変えていった。
失敗を恐れず、ただ純粋に、「美味しいもの」を追求するわたくしの姿に、彼らは、いつしか忘れかけていた、料理人としての熱い初心を、思い出していたのかもしれない。
ついに、見かねたベテランの料理長が、口を開いた。
「…お嬢様。火加減は、鍋肌の泡が、ふつふつと、宝石のように輝き始めた時が、潮時でございます」
その一言を皮切りに、他の料理人たちも、堰を切ったように、助言を始めた。
「お嬢様、その強すぎる酸味を和らげるなら、隠し味に、ほんのひとつまみ、岩塩を入れると、味が締まりますぜ」
「香り付けなら、そのミントの葉も良いが、こっちのレモンバームの方が、ベリーの香りを殺さずに、爽やかさを加えてくれるはずだ」
わたくしも、彼らのプロとしての知識に、素直に耳を傾ける。
「まあ、さすがはプロフェッショナルね! 教えてくださって、ありがとう!」
わたくしの、何のてらいもない素直さと、底なしの情熱が、頑固な職人たちの心を、ゆっくりと一つにしていった。
いつしかそれは「お嬢様の道楽」から、「全員で、この領地で最高のジャムを作り上げる」という、熱い共同作業へと、姿を変えていた。
そして。
わたくしの持つ、未来の「知識」と、料理人たちが持つ、長年の「経験」が、銅鍋の中で、完璧に融合した、その時。
奇跡は、起こった。
それまで、どこかくすんだ赤色だった鍋の中の液体が、ふっと、光を放つように、鮮やかな、吸い込まれるようなルビー色へと変わったのだ。
そして厨房中に、これまで誰も嗅いだことのない、濃厚で甘く、そしてどこか気品のある芳醇な香りが、満ち満ちていく。
完成したジャムを銀の匙でそっとすくい、味見をした料理長のその皺だらけの目から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。
「…こ、これは…。ジャムなどという、ありふれたものでは、断じてない。まるで、我々を見守ってくださる、この土地の女神様が、我々にだけ、そっとお与えくださった、奇跡の味だ…!」
その、心からの賛辞を聞き、わたくしは、煤で汚れた頬のまま、満面の笑みを浮かべた。
「ええ、そうね。ならば、このジャムの名前は、こう名付けましょうか」
「――『女神のルビー』、と」




