忘れられた森のルビー
父の許可を得てから数日後。
わたくしは、護衛兼お目付け役として、兄のフェリクスを(「兄様も次期当主として、領地の現状をその目でご覧になるべきですわ」という、反論のしようのない正論で言いくるめて)伴い、クライフェルト公爵領へと向かう馬車の中にいた。
王都の、息が詰まるほどに整然とした街並みが遠ざかっていく。
窓の外には、どこまでも続く黄金色の麦畑や、煙突から細い煙が立ち上る、のどかな村の風景が広がっていた。
一度目の人生では、移動中の馬車の中で、ずっと小難しい書物を読んでいたものだ。けれど、今は違う。わたくしは、まるで初めて世界を見る子供のように、窓ガラスに顔を寄せ、流れていく景色の一つ一つに、目を輝かせていた。
「本当に、菓子作りのためだけに行くのか? お前のことだから、何かまた面白いことを企んでるんじゃないだろうな」
向かいの席で、兄様が面白そうににやにやしながら尋ねてくる。
「ええ、もちろん。わたくしの、食に対する飽くなき情熱の赴くままに!」
わたくしが大真面目な顔でそう答えると、兄様は「はっ、情熱か。お前といると、本当に飽きないな」と、楽しそうに喉を鳴らして笑った。
数日かけて、ようやく領地の中心にある代官の館に到着した。
領地は、確かに豊かだった。畑はよく耕され、家畜も丸々と肥えている。
けれど、どこか空気が停滞しているのだ。人々の顔にも、生活の安定と引き換えに失われたような、活気というものが見られない。
年老いた代官は、公爵令嬢であるわたくしの突然の訪問に、恐縮しきっている。
「ようこそお越しくださいました、アリアンナ様。当領地は、今年も例年通り、豊作でございます。ご覧の通り、何の問題もございません」
「(問題がない…ですって?)」
わたくしは、内心で静かに反論する。
「(違う。問題がないのではなく、問題に気づこうとしていないだけ。豊かであることにあぐらをかき、新しい挑戦を、変化を、恐れている。それが、このクライフェルト領が抱える、見えざる本当の問題なのよ)」
一度目の人生で、ただの文字情報として頭に詰め込んだだけの領地報告書のその行間から、わたくしはこの土地が抱える病巣を、はっきりと読み取っていた。
代官との、中身のない退屈な面会を終えた、その夜。
わたくしは自室で、一度目の人生で得た膨大な記憶の糸を、慎重に手繰り寄せていた。
そしてついに、ある一点にたどり着く。
それは埃をかぶった記憶の書庫の、最も隅にあった、本当に些細な、誰も気に留めないような記述だった。
分厚い領地報告書の、欄外に書かれた、小さな小さな注釈。
『――領地南部の森に自生する野生のベリー。酸味が極めて強く、また収穫後すぐに傷むため、商品価値は皆無。鳥の餌にしかならず』
その、何の変哲もない一文を思い出した瞬間。
わたくしの頭の中で、全く別の記憶が、まるで雷に打たれたかのように、鮮やかに結びついた。
それは一度目の人生の後半、隣国から嫁いできた、物静かな王妃陛下とのお茶会でのこと。
その王妃は、故郷からわざわざ取り寄せたという、宝石のように真っ赤なジャムを、ブリオッシュに塗りながら、懐かしそうに、そして少しだけ寂しそうに、こう言っていたのだ。
「私の国では、この『森のルビー』のジャムがないと、一日が始まらないのですよ。エルムガルドには、ないのかしら。こんなに、美味しいのに」
「(商品価値なし…ですって? 鳥の餌…?)」
わたくしの唇から、笑みがこぼれる。
「(冗談じゃないわ! あれは、食べ方を知らないこの国では、ただ忘れ去られているだけの、本物の『宝物』に違いない!)」
わたくしの瞳に、探求とそして確信の炎が、強く燃え上がった。
翌朝、わたくしは機能的な乗馬服に身を包み、厩舎から一頭の栗毛馬を借りて、南の森へ向かおうとした。
代官や護衛たちは「アリアンナ様、危険です!」「森には魔獣こそ出ませんが、道に迷われたら…!」と、顔を真っ青にして止めようとする。
その時だった。
「まあまあ、そう固いことを言うな。可愛い妹の、ささやかな『社会勉強』だ」
同じく乗馬服に身を包んだ兄様が、颯爽と現れ、彼らの前に立ちはだかった。
「俺が、責任を持って傍についているから、何も問題ないさ」
彼は、わたくしがまた何か面白いことを見つけたと、その直感で察し、面白がって協力してくれるのだ。
兄様という最強の味方を得て、わたくしたちは、誰にも止められることなく、忘れられた南の森へと馬を進めた。
森の中は、深く、そして神秘的な空気に満ちていた。
幾重にも重なる木々の葉の隙間から、木漏れ日がキラキラと地面に落ち、まるで緑色のビロードの上に、金貨をばらまいたかのようだ。
小鳥のさえずりが、教会の聖歌のように、静かに響き渡る。
そして。
森の奥深く、ひときわ陽光が降り注ぐ、開けた場所で、わたくしはついに、手綱を引いて馬を止めた。
わたくしの視線の先には、朝露に濡れて、まるで無数のルビーを、緑の絨毯の上に散りばめたかのように、真っ赤な真っ赤な果実をつけた低木の群生が、どこまでも広がっていた。
「…あった」
わたくしの唇から、確信に満ちた呟きが、静かに漏れた。
わたくしはまだ知らない。
この、誰からも忘れ去られていた小さな赤い実が、わたくしの、そしてこの領地の運命を、これからどれほど大きく、そして劇的に、変えることになるのかを。




