その腕、捻り上げますわ
わたくしの、氷のように冷たい声と絶対零度の瞳。
それに射抜かれ紫電の瞳の男は、初めて目の前の少女が、ただの路傍の石ころではないことに気づいたようだった。彼の眉が、訝しげに微かに寄せられる。
けれど彼の傲慢さが、それを認めることを許さない。
「…戯言を」
彼は、短くそう吐き捨てると、わたくしを邪魔な障害物のように無視して、そのまま立ち去ろうとした。
彼の辞書に、身なりの貧しい少女に謝罪するという選択肢は、存在しないらしい。
『逃がさない。この侮辱を、なかったことになどさせてなるものですか』
彼、わたくしの真横を通り過ぎようとした、まさにその瞬間だった。
わたくしは電光石火の速さで動き、彼の屈強な右腕を、両手で、しかし確実に掴んだ。
「!」
男は、そのあまりに細い腕から繰り出された力の強さに驚き、反射的に腕を振り払おうとする。
しかしわたくしの手は、まるで鋼鉄の万力のように彼の腕に食い込み、びくともしない。
「失礼」
わたくしは静かにそう呟くと、王妃教育の一環として来る日も来る日も叩き込まれていた、あの忌々しい護身術――淑女の護身術を、実践で初めて繰り出した。
相手の力を利用し、その流れに逆らわず、最小の力で最大の効果を生む、優雅にして冷徹な関節技。
わたくしは掴んだ彼の腕を軸に、自分の身体を流れるように回転させテコの原理を使い、いとも簡単にその大柄な男の腕を、背中側へと捻り上げた。
「ぐっ…!? なんだ、これは…!?」
鍛え上げられた肉体を持つ彼が、初めて経験するであろう、関節の奥に響く鋭い痛み。
彼の顔が、驚愕と、そして純粋な苦痛に歪むのを、わたくしは満足げに確認した。
完全に動きを封じられた男。
そんな彼をわたくしは、先程自分がされたように冷ややかに、そして少しだけ愉しげに見下ろす。
逆転した力関係。
ああ、なんて心地よいのかしら。
そしてわたくしは、静かに、しかし一言一句が刃のように鋭い言葉で、彼に「教育」を施して差し上げた。
「見た目で人を判断し、根拠もなく侮辱し、己の非を認めず黙って立ち去ろうとする。あなたこそ、その魂の在り様の方が、よほど汚らわしいのではなくて?」
その言葉は、まるで女王が物分りの悪い愚かな臣下に、礼儀作法の初歩を教えてやるかのようだった。
わたくしは少しだけ力を込めて、彼の腕をきりりと締め上げる。
「まずは、『ごめんなさい』の一言から、お始めなさいな」
腕の痛みよりも、心の高慢さを真正面から打ち砕かれた衝撃の方が、大きかったのだろう。
彼は生まれて初めて、自分より明らかに格下の(と思われた)人間に、完膚なきまでにねじ伏せられたのだ。
彼は苦痛に歪む顔のまま、わたくしを見上げた。
その紫電の瞳から、侮蔑の色は完全に消え去っていた。
代わりに宿っていたのは、驚愕と、屈辱と、そして、焼け付くような、強烈な「興味」の光だった。
『(…面白い。この国の掃き溜めに、こんな気高い宝石が、まだ落ちていたとはな)』
わたくしは、彼が内心で反省した(と、勝手に判断し)のを確認すると、まるで興味を失くしたかのように、パッと、彼の腕を解放した。
「それでは、ごきげんよう」
何事もなかったかのように、優雅に、完璧な淑女の礼を一つ。
そしてスカートを翻し、呆然と立ち尽くす彼を尻目に、颯爽と人混みの中へと消えていく。
残された男――ルシウスは、捻られた腕をさすりながら彼女が消えた方向を、ただ呆然と見つめていた。
やがて彼の口元に、苦痛ではなく、獰猛な肉食獣のような、獰猛な笑みが浮かぶ。
彼は物陰から現れた屈強な部下に、短くそして楽しげに命じた。
「――追え」
「はっ」
「今、俺の腕を捻り上げていった、あの灰被りの女をだ。どこの誰で、何をしているのか。どんな些細な情報でもいい、全て調べ上げろ」
彼の紫電の瞳は、獲物を見つけた狩人のように、ギラギラと、そしてどこまでも楽しげに、輝いていた。
「…どうやら、この退屈な国で、ようやく面白い玩具が、見つかったらしい」




