紫電の瞳は侮蔑の色
クレープを食べ終え、幸福な満腹感と少しだけ罪を犯したような、甘い高揚感に包まれていたわたくしは、どこかふわふわとした足取りで広場へと向かって歩いていた。
次にどの露店を冷やかそうかしら。あの、赤いリボンの店も素敵だったわね。
そんなことを考えて、少しだけ、本当に少しだけ、前方への注意が疎かになっていたのだ。
大通りへと続く角を曲がった、まさにその瞬間だった。
「きゃっ!」
壁のように硬く、そして大きな何かに、真正面から勢いよくぶつかってしまった。衝撃で、わたくしはみっともなく、ぺたんと尻餅をついてしまう。
「い…った…」
ぶつけたお尻をさすりながら顔を上げると、そこには、見上げるほど長身の男が、わたくしを見下ろして立っていた。
上質な黒い外套を、まるで自分の身体の一部のように自然に着こなし、その体躯は、鍛え上げられていることが服の上からでもはっきりと分かる。
けれど、何よりも印象的だったのは、その瞳だった。
夜の闇を溶かし込んだような、艶やかな黒髪の下で、二つの紫色の宝石が、雷光を宿したかのように、鮮烈な光を放っていたのだ。
紫電の瞳。
そんな非現実的な色を、わたくしは初めて見た。
しかし、その美しい瞳に宿る色は、決して美しいものではなかった。
彼は、尻餅をついたわたくしに手を差し伸べるでもなく、ただ冷たく侮蔑の色をありありと浮かべて、言い放った。
「…邪魔だ。どこに目をつけて歩いている」
その声は、チェロのようによく響く抗いがたい魅力のある美声だったが、冬の氷のように温度というものが一切感じられなかった。
「(なんて…なんて、傲慢な男。けれど、この瞳…まるで魂を射抜かれるようだわ)」
彼の無礼さに腹を立てながらも、その圧倒的な存在感と、吸い込まれそうな瞳の色に、わたくしは一瞬、心を奪われる。
いけない、いけない。すぐに気を取り直し、まずはぶつかった非を認めようと、自力で立ち上がりながら、口を開いた。
「申し訳ありませ…」
同時に、汚れたスカートの裾を払いながら、兄から貰った大事な小銭袋が無事か、懐にそっと手をやろうとする。
その何気ない仕草を。
男は、全く違う意味に解釈したらしい。
彼はわたくしが懐から何かを盗もうとしたか、あるいは物乞いをしようとしたのだと、勘違いしたのだ。
「フン…」
男は、侮蔑を隠そうともせずに鼻で笑うと、さらに冷酷で鋭利な言葉をわたくしに投げかけた。
「その汚い手を仕舞え。貴様のような路傍の石ころから盗られるものは、何も持ち合わせていない。時間の無駄だ」
――汚い手。
――路傍の石ころ。
その言葉が、引き金となった。
わたくしの脳裏に、あの夜会の光景が、鮮やかにフラッシュバックする。
『嫉妬深い女』
『氷の人形』
『お前など、リゼットの足元にも及ばない』
根拠もなく投げつけられた、数々の心無い言葉。理不尽な断罪。
――ぷつん。
その瞬間、わたくしの中で何かがはっきりと切れる音がした。
好奇心に輝いていた少女の瞳から光が消え、かつて「氷の貴婦人」と呼ばれた頃の、絶対零度の静かな怒りの光が宿る。
わたくしは、ゆっくりと、本当にゆっくりと、顔を上げた。
わたくしの唇から漏れた声は、もはや、か弱く震えてはいなかった。
それは冬の朝の空気のように、どこまでも澄み渡り、しかし聞く者の背筋を凍らせるほどに、冷たい響きを持っていた。
「――今、何と、仰いましたか?」
「(許さない。誰であろうと、わたくしの魂を、わたくしの誇りを、根拠もなく侮辱することは、絶対に許さない)」
平民の少女の灰色のワンピースの仮面は、音を立てて剥がれ落ちた。
そこに立っていたのは、クライフェルト公爵家の血と、二度の人生で培われた不屈の誇りをその身に宿した一人の令嬢だった。
この最悪の出会いが、やがて二人を、そしてこの国を分かちがたく結びつける、運命の始まりであることなど、まだ、誰も知る由もなかった。




