第57話 ─国境の城塞─ 森は今 花さきみだれ 艶なりや 五月たちける 神よ 擁護をたれたまへ あまりに幸のおほければ*
何の意味もない行為だとはわかっていた。だが、この場に満ちた異様なまでの沈黙…… まるで劇の開幕を待つ客席であるかのような奇妙な期待感が、俺に何らかの相応しい演出を強いているように感じさせた。
ゆっくりと立ち上がり周囲を見回し、徐に呟く。
「[魔力感知]」
マヤ・ロミナ・リン・神官。4人からは反応があったが、バックヤード内も含めて他に反応はない。あの女店主はマジックアイテムを持っていないのか……
俺は内心で首を傾げたが、すぐに視線を鋭くして続けた。
「[邪悪感知]」
これにも反応はない。少なくとも現時点では俺に悪意を持つ者は周囲にいないらしい。
振り返って、入ってきたドアを背にして立つ。この部屋の出入り口は俺の左側にもう1カ所あるが、そちら側の立ち聞きは警戒しない。どうせ神官が話すだろう。
話している最中にこの面子を害そうとする者が来るかもしれないので、保険の意味で「[危険感知**]」も唱える。
「[腹話術]」
部屋の反対側。マヤ達と神官の中間辺りを基点として設定する。意図的に普段より低音で威圧的な声を出すことにした。
「最初に確認するが、この世界では病気の動物を増やして、その病んだ動物を敵国に追いやったという事例はあるのかな?」
アドリブに弱いマヤは混乱しているのか、声の聞こえる方向と俺の顔を何度も確認している。リンは少し驚いたようだが、声のする方向ではなくて俺の顔を見据えた。ロミナと神官は俺の顔から視線を外さない。
「わたくしは存じません」
俺が警戒しているせいだろうか、ロミナの声は普段より小さかった。
小さくともロミナの澄んだ響きのある声の華やかな印象はかわらない。
「俺の世界で確認できる一番古い記録だと、三千年以上前にヒッタイトと呼ばれる帝国がそれをやったとされている。文献によると『羊が突然現れ、アルザワ人はそれを自分たちの村に持ち帰った』この時にアルザワ人の村々で集団罹患したのが野兎病」
ロミナが小さく息を呑む音が、聞こえた。それとはっきりわかる程に感情を表にだしている。俺の言葉にこれ程強く反応するのはこれが初めてかな。
「どういう風に翻訳されたのかわからないけれど、この病気は兎だけではなくて、豚・羊・馬といった動物からも感染する。この病気は人から人に感染することは基本的にないけれど、感染力の強さで特に警戒されている」
神官が目を細め値踏みするように俺を観察している。口元の皮肉な笑みは消え、手に持っていたはずのグラスは何時の間にか脇の台に置かれている。彼女は俺の言葉を真剣に聞いているように見えた。
「例えば外から持ち込んできた野兎をそこの台の上に一時的に置いておく。暫くしてから調理のためにこの部屋から誰かが持ち出したあと、リンがこの部屋に入ってきて、さっきまで野兎の死体が置かれていた台の上に手をつくと、病気の元は台上からリンの手の平の皮膚を通して感染してしまう。皮膚に傷がなくても、健康な皮膚から侵入して感染できるのが、他の病気には見られない最大の特徴」
3人は反射的に台から離れようと丸椅子をずらした。椅子の脚が床を擦る嫌な音が静まり返った部屋に響く。リンが露骨に嫌そうな顔をしている。
「但馬さん。感染する病気とは、悪い土地や悪い水・空気によって齎されるものなのではないのですか?」
「そうよ。悪い土地にある悪い空気を吸ったり悪い水を飲んだ人間が、体液のバランスを崩して病気になるのよ。そうやって病気になった人が悪い空気をだすようになるから感染するのよ。あたしたちはそう教わってきたし、実際に見てきたわ」
リンが刺すような視線を向けてくる。
ロミナは俺を見据えるだけで何も言わない。『賢者は正論を言わず』で何も言わないのか、『知る者は言わず、言う者は知らず』で何も言わないのか……
「それを『瘴気』と名付けて病気の原因だと考えた人が俺の世界にもいたし、二千数百年前から数百年前まではそういう理解のされ方もしていた。まぁ大きな括りで言えば間違いではない。でも俺が気にしている『野兎病』は、人から人に感染することは基本的にない。感染病と大雑把に纏めず、言葉を厳密に定義している現在の観点から言えば、そういう考え方は部分的に正しくとも全体が間違っている」
「その『野兎病』ってのはどんな病気なんだい?」
神官も抑えた声で聞いてきた。口元は再び皮肉げに歪んでいるが、目つきが明らかに変わっている。この人も空気を読めるのかと、ちょっと驚いた。
「人が感染すると重い風邪のような症状になって高熱と平熱を繰り返す。皮膚から感染した場合は接触した辺りの皮膚が腫れ上がる。兎は感染すると直ぐに死ぬ。体の部位に通常見られないような腫れがあるのが特徴。羊ぐらいの大きさの動物であれば下痢や運動失調だったかな」
「おやおや大先生が随分と頼りないねぃ。はっきりとわからないのかい?」
「悪いね。医者に成ろうと思ったことは1度もないから。ざっくりとした知識しかないよ」
神官は俺の返事を聞くと座る姿勢を少し変え、後ろの壁に凭れかかると足を組んだ。わざとらしく肩を竦め、不敵な笑みを浮かべる。
「もういい。お前のことは大体わかった」
「相互理解が得られたようで何よりだ」
「へっ! わかっていないようだから教えてやるよ。道化。自分を利口だと思っているが頭の中は空っぽ。それがお前の本質だ。お貴族様は小賢しく振舞うお前の物言いを聞くことで楽しんでいるのさ。猿が人語を話しているってね。全く! 酔狂だねぃ」
「そんなことはありません! わかっていないのは貴女です」
マヤが立ち上がって神官を指差し、憤る。
マヤを宥めるためにドアから離れようとしたとき、ドアの向こうから俺を探す若い男の声が聞こえた。
荒い靴音が近づいてくる。
俺が振り返ってドアに正対したのでマヤも口を閉じたようだ。
ノックもせずにドアが開いた。
若い近衛が正面にいる俺を一瞥し、中に誰がいるのか確認しようと部屋に1歩踏み込む。
隠す理由もないので、左に移動して半身になった。正面に店主が出入りしたドアが見える。
「失礼します。リン・グリンプトン殿はいらっしゃいますか?」
近衛は部屋の中程にかたまっている少女達に話し掛けた。
「リン・グリンプトンはあたしだけれど、何かご用かしら?」
リンは警戒した表情で立ち上がると前に出た。
「総司令官からの要請です! 名高いグリンプトン家の魔弓{エクスプローシブアロー}にて、ゴブリン共の攻城兵器を破壊していただきたい!」
「嫌よ!」
リンが同意して後ろに続くと思い込んでいた近衛は、部屋を出ようと体の向きを変えかけていた。その肩が、不意打ちされたかのようにぴくりと震えた。
近衛は改めてリンと向き合う。
「状況がわかっていないのか! それともグリンプトン家の残党はサナタ教徒に身を落としたか!」
近衛は目下を相手に叱責するような口調で怒鳴りつけた。
リンには完全に悪手だろう。
「寝ているあたし達を兵舎から追い出しておいて何を言っているのよ! あたしに何かを望むなら謝罪と説明が先よ!」
近衛は何か言い返そうとしたが思いとどまり、俺に視線を向けてきた。お前がなんとかしろ。目がそう言っている。
「攻城兵器を潰したいのなら、そいつにやらせなさい! 1発だけなら[ファイヤーボール]で攻撃できるわ。雨の中で火がつき難くても、但馬は{ファイヤーボール}のワンドを持っているのだから何発でも放てるわよ!」
「貴方は魔法使いだったのですか」
近衛は右手を伸ばすと俺の左腕を掴んだ。
マヤがリンより前に出たが、近衛に害意がないのを見て取るとそれ以上近づいてこなかった。
「ご同行願えますか?」
掴まれた左腕が痛い。どうやら城塞に籠っていれば安全という雲行きではなさそうだ。
[腹話術]と声が被らないか気になったが、口を開けて話すことにする。
「歩きながらでも状況を話してくれる気はあるの? それとも俺は犯罪者のように有無を言わせず連行されるの?」
近衛は何を言っているのかという表情を見せたが、俺の問い掛けで漸く我々が事態を全く把握していないという可能性に行き当たったようだ。
「はい! もちろんご説明いたします。では参りましょう!」
「わたしも行きます! 2人で行かないでください」
マヤが俺の隣に寄り添う。
「マヤ。俺には[対射撃戦防御]があるから城壁に登っても怪我をすることはないよ。でも、[対射撃戦防御]は1人しか守れない。ついてこられたら俺が困る」
傭兵達の不満の理由もわからないのに女連れで行きたくない。
「その…… 但馬殿。向かう先は城壁ではありません。騎乗して城外に出ていきます。ですから近接戦での防御魔法も使用した方が安全です」
「……もしかして、攻城兵器って破城槌ではなくて投射器の類?」
「はい。投石機を破壊してください」
乗馬って硬オーブ(橙)で何とかなるのだろうか? 硬オーブ(黄)は出来れば使いたくない。
「但馬さんは馬に乗れるのですか?」
マヤが気づかわしそうに尋ねる。
「これから硬オーブ(橙)で乗馬のスキルを取るよ」
「今までに騎乗したご経験は一切ないのですね?」
マヤは顔を近づけながら詰め寄る。
「ないよ」
俺がそう答えると、マヤの後ろにいるリンが俺を見て鼻で笑った。元貴族のお嬢様らしさなんぞ欠片もない。下品な笑い方だ。
下品繋がりになるが、神官もどういう表情で事の成り行きを見守っているのだろうかと視線を向けると、真剣な顔でこちらを見ていた。目が合うと、グラスを呷ることで表情を読み取られないよう逃げやがった。
「オーブにだけ頼って行き成り実戦だなんて考えられません。私と共に騎乗してください。近接戦では必ず但馬さんを守ります」
マヤは息が俺の顔にかかるのも構わず機動隊の旧型ツナギを掴んで、神官を見ている俺の顔を引き寄せる。
決して引かないという迫力に押され、思わず頷いた。
マヤの瞳に頷いている俺の顔が映る。
3人の内、1人座っていたロミナも立ち上がろうとする。
「あっロミナ。君は戦場に出ないで」
立ち上がりかけたロミナは表情をかえることなく座り直した。その所作は流れるようで、感情の類を一切見せなかった。
「あたしも残るわよ」
そう言うとリンはロミナの隣に座る。
ロミナに見惚れている近衛は俺の視線に気がつかない。
「硬オーブ(橙)を取りに宿へ戻るけれど、ついてくるの? それとも城門前で待ち合わせをした方がいいのかな?」
若い近衛は不満そうに俺へと視線を向ける。話し掛けられたことには気がついたが何を言われたのかわからない。そんな顔をした。
先程、リンに向かって状況がわかっていないのかと怒鳴りつけていなかったか、君。
俺は同じ言葉を繰り返す。
残念な者を見る俺の視線を受け、近衛は自身の失態を取り繕うように姿勢を正した。
「お待ちください」
3人で宿に向かうこととなり部屋を出ようとするとロミナが呼びとめる。
「但馬様は近接戦用の防御魔法・アイテムをお持ちですか?」
「ないよ」
「では、この指輪をお使いください」
ロミナは左手に嵌めていた指輪を抜き取ると椅子から立ち上がり、俺の前まで歩いてきて指輪を差し出す。労働を知らない、白く美しい指が俺の眼前で舞う。
「これは?」
「{プロテクション フロム ノーマル ウエポンズ}を日に1度だけ使えます。有効時間は数十秒しかありませんが、但馬様を中心に半径150cmの範囲への非魔法武器による攻撃を完全に防ぎます」
「ありがとう。助かるよ」
舞うように差し出されたロミナの白い手から零れ落ちるように渡された指輪。鈍い光を放つ指輪を受けとる。部屋を満たす沈黙と時折り強くなる雨音。俺はそれをゆっくりと左手の中指に嵌めた。機動隊のツナギという異世界では場違いな装束に、似合うことの無い魔法の宝飾。金属なのに俺の指の先に中てるとサイズが大きく変わっていく。指輪が俺の身体の一部になった。
「お礼の言葉は不用です。但馬様をお守りするようにわたくしは命じられております」
俺に指輪を渡した後もロミナは席に戻らず、振り返ってリンを見下ろしている。
「何かしら?」
リンの問い掛けにロミナは答えず、視線をリンが右手に嵌めている指輪へと向ける。
部屋には6人もいるのに誰も動かず言葉を発しない。
「わかったわよ!」
肩を竦めたリンは、第4層で得たばかりの指輪{呪文反射}を抜き取ると右手を前に突き出した。
リンの前に歩いていって指輪を受け取り、右手に通す。
「貸しただけよ! 必ず返しなさい!」
顔を背けてこちらを見ようとしないリンにもお礼の言葉を言っておく。
部屋を出ると、何事かと注目していた10数人の客がこちらを見ている。
鎧を装備している者は1人もいない。傭兵が戦時にこういう店へ食事に来ることはないのだろう。
3人で宿屋に向かう途上、状況を聞いた。
城門前に傭兵隊の内B・C・D分隊の24名と25頭の馬が待機していて、襲撃隊全体の指揮は傭兵隊副隊長が執る。
A分隊の7名と民兵全体の中から抽出した30名が、出撃直前に城壁上から援護射撃をしてくれる。
だがゴブリンの数が多いのと、城壁上から90m以内に近づくゴブリンに対しての射撃は時折行っているので、大半のゴブリンは盾を持っているから限定的な効果しかない。
但し、騎乗突撃していく襲撃隊にゴブリン達は気を取られるであろうから、命中率は下がるが90m以上離れた場所にいても、側面や背中を見せたゴブリンに射撃を加えることで少しだけ数を減らすことが出来るかもしれない。
目標の投石機が組み立てられているのは城壁から5・600mぐらい先の場所なので、襲撃隊が帰城するまで城門は開放されている。
襲撃隊出撃中の城門守備は民兵全体の中から抽出した30名が槍衾で守る。城門前で槍隊の指揮を執るのは近衛の1人。
「躍進距離はわかったけれど、時間にするとどれくらいなのかな?」
若い近衛はそんなことも知らないのかと思ったことを隠そうともせず、マヤに視線をちらちら向けながら、バカに教えてやるという口調で答えた。
「突撃に2分。射撃に30秒。帰還に2分。5分以内に帰って来いというのが、グラブ隊長からの厳命です」
考えを纏めるために俺が沈黙すると、近衛はマヤに積極的に話し掛けはじめた。時折「なんちゃら家の三男」「ゆくゆくは出世して」「いつまで城塞に滞在しているのか」という声が耳に入ってくる。
宿に到着し宿泊部屋へと3人で入って行く。
俺が他の4人と同室であることを知った近衛は、マヤに胡乱な視線を向けた。
収納箱の鍵を開けて帆布製のバックパックを持ち上げ、ベッドの上に置き直す。
雑念を抱かぬように集中し、硬オーブ(橙)を取り出し乗馬のスキルを取った。
次に、バックパックの中身の大半を収納箱に移しかえる。
手元に残ったオーブは直ぐに取り出せるサイドポケットに入れた。
バックパックの主荷室背中側に夏用毛布を置きエアーマットを突っ込む。毛布とエアーマットの間に中身の入った缶詰を詰め込み、ガムテープで缶詰の位置を固定させる。
イメージとしては、戦国時代に戦場を駆け回った騎乗兵が矢避けのために背負った母衣と、異なる素材を組み合わせることで貫通力を低下させる複合装甲だ。
背中全体を覆うには缶詰の数が足りなかったので、マヤに用途を説明して融通してもらった。
「意図はわかりますが、[プロテクション フロム ノーマル ミサイル]は2時間持続するのですよね? 本当に必要ですか?」
「第4層にいたドラウの貴族だったかな? 向こうが使った[深闇]を俺の[光球]で打ち消したように、[対射撃戦防御]を打ち消す魔法を使われるかもしれないからね」
「それでも、ロミナ様からお借りした{プロテクション フロム ノーマル ウエポンズ}があるではないですか?」
「それは持続時間が短いし俺が狙われるのは戦場だけとは限らない。リンの{呪文反射}は常時対応できるけれど、ロミナの{通常武器防御}はこちらから発動させなければ不意打ちには対応できない。戦場で派手なことをやらかした俺を邪教徒の残党は不愉快に思うかもしれない」
「……私がお守りしますよ。信じてはいただけないのですか?」
マヤは不安と寂しさが入り混じったような、か細い声をだした。
「忘れたのかい。俺は単独だったら、あのダンジョン第3層すら踏破できなかった新参者だよ。いつもマヤが隣にいてくれる。そのことが何よりも俺を心丈夫にしてくれる」
マヤは目を大きく見開いたまま、口も大きく開き俺を見つめる。その瞳に宿る不安は一瞬で消え去り、喜びの光が満ちる。
「そろそろ城門に向かってくれないだろうか?」
不機嫌オーラを全開に出した近衛の、空気を読まない苛ついた声が俺を現実に引き戻した。
* 上田敏訳詩集『海潮音』パウル・バルシュ「春」新潮文庫 1952
** 1時間持続




