第56話 ─国境の城塞─ ながれのきしのひともと(一本)は みそらのいろのみづあさぎ なみ ことごとく くちづけし はた ことごとく わすれゆく*
案内された部屋には6台のベッドと付属する収納箱があった。
この部屋のベッドは床に固定されていないので配置換えを提案する。
俺用のベッドは窓の前へ。
1人用テントをベッドの上に置いて窓を塞ぐとの説明に、ウィルマが何か言いかけたが、リンが何かを思いついたとばかりに素敵な笑顔を見せてそれを制止した。
中間にはマヤとロミナが寝ることになり、リンとウィルマ用のベッドはドア側に配した。
ダンボール数箱分の容量がある収納箱も各自がベッドの頭側の床に置き直している。
そこそこ重量があるのに皆1人で持ち上げている。何かコツがあるのだろうか?
ドアが内開きなので、余った収納箱はドアの側に置き、ドアが開かないよう就寝前にドア前へ置き直すこととした。
雨の中、わざわざ出歩くのも億劫なので所在無げにしていると、リンが勉強会の開催を宣言する。
3人が俺の前に集まってきたので室内を見回すと、ウィルマがいつの間にかいなくなっていることに気がついた。
中学生の頃に俺が使っていた理科の教科書。何故かリンが私物のように持ち歩いているので、お願いして返してもらい、以前の続きを読み上げていく。
時折鋭い質問が飛び、問答していると直ぐに高校レベルの議論へと発展する。内容にもよるが、話がヒッグス粒子のような専門性の高いレベルにまで行き着くと、正確な理解が必要になることもなさそうなので、そこまで進むと口八丁手八丁で誤魔化している。一方で、ここは曖昧にしておくと駄目だなと判断した所はページを折って、日本に帰ってからの宿題として議論を保留にする。
俺の中学生時代には、秋になると紅葉するメカニズムは原因酵素が判明している程度だったのだが、今では説明が可能となっているはずなのだけれど、俺、化学は嫌いなんだよなぁ……
すいへーりーべーおらがふね、だったっけ? もう忘れちまったよ昔のことは。
五賢帝の「寝るトラは余る」とか、南京条約で開港した「上海に広福寧厦」は何十年も実生活で会話に出てくることはないのに、この歳になっても未だ覚えていることは不思議だが。
時間を忘れて講義していると誰かがドアをノックしている。何気に腕時計を見ると11時前だった。
講義への没入感が今1つ足りていないマヤが目聡く反応しドアに向かう。
マヤが立ちあがったので、ロミナとリンも誰かがノックしていることに気がついたようだ。
ドアが完全に開くと、マヤよりも背の高い老人の顔が見えた。粗末な外套から滴っている雨水が床を濡らしていく。
「今朝方、礼拝堂前で立ち食いをしていたのはあんた方でいいのか? 神官様が『用があるなら話を聞いてやるからマリールーンまで来い』と伝えろと言いなさった。あんたら何ぞ悪さでもしたのか? 飯食う場所がないなら個室があるからそこで食えるつー話だ。そんじゃぁ確かに伝えたぞ」
そう言うと老人は立ち去った。
「邪魔が入ったし、食事に行きましょうか」
リンが立ちあがるとロミナも続く。
「誰かウィルマに置き手紙を書いておくか、宿の主人に伝言を頼めるかな? それと、食事代がどちら持ちなのか曖昧な話だけれど、俺はこっちの金を持っていないから、自分の食事代程度は持って行ってね」
何故か誰かが舌打ちした。俺、顰蹙をかうようなことを言ったか?
通りで、統一性のない服を来た10人の集団と行き会った。全員が槍を持っていたので招集された民兵による城塞内の巡回だろう。ポンチョの前を大きく開いて、腰に吊った総司令官の紋章付き短剣をこれ見よがしに誇示すると、何も話しかけずに集団は通り過ぎて行った。
もっとも連中は連れ3人を見ていて誰もこっちに視線を向けなかったから、意味のない行為だったかもしれない。
2日ぶりの酒場。そういえば初回の訪問時には雨が降っていなかったんだよな。雨季は秋から冬と聞いていたのに、日本の菜種梅雨を思い起こす雲具合だ。こっちでも春の長雨を指す言葉があるのだろうか。
前回の訪問時には開いていた扉が今回は閉まっていた。首を捻りながら扉脇の支柱を強めにノックする。
少し待たされた後、小柄な老婆が扉を開けてくれた。
「お前たちか。入んな」
老婆は邪魔くさそうな声をだして半身になる。
俺たち4人が中に入ると、老婆は頭数を数えた後、周囲を見て誰もいないのを確認して扉を閉めると閂を掛けた。
3人は店の中程まで進んでいたが、俺は数歩だけ中に入り老婆の近くに立っていた。
「営業開始は半時間後からだよ」
俺の視線を受けた老婆がのんびりした声で説明してくれた。
老婆の演技力は完璧だったけれど、俺の直感がその声に引っ掛かった。
……あぁこれは後になってから引っ掛かった理由がわかるやつだ。何か隠し事をしている相手に話し掛けられると、こういうモヤっとした感覚に襲われる。
「さぁさぁそんな所に突っ立っていないで、奥のドアの先でエヴァが待っているからお前たちはそっちへお行き。営業時間前に来たんだから昼飯はこっちの都合に合わせてもらうよ」
立ち止まっているマヤ達の側を通り抜けて俺が先頭に立ちドアを開ける。
個室と言えば個室だが、はっきり言えばこの部屋はバックヤードじゃねぃか。
薄暗い部屋の奥で壁を背にして椅子に踏ん反り返った女神官は、俺と視線が合うとニヤリと笑ってからグラスを前に突き出し、意味ありげなポーズをとった後にグラスを口元に運び中身を一気に呷った。
酒なんだろうか? 麦茶を飲んでいるんじゃないだろうな?
「あたしゃどっちでも良いけれど、さっさと中に入ってドアは閉めた方があんた達には良いんじゃないのか?」
今回は自分が優位にいる。そう思っていることを隠そうともしていない。
子供の頃の自分の姿を見せられているようで神官への嫌悪感が先に立つ。
後ろから押されるかたちで俺は室内に入っていく。背後でドアの閉まる音が聞こえた。
「ん? 舐めた口を利いた金髪は逃げたのかい?」
「彼女は単独行動を好むし、ただの案内人としてついてきた人の行動を俺達は詮索しない。向こうも説明しようとしないからわからない」
「ふ~ん。つまり『紅宝石』と『狂犬』と黒髪の娘は目的があるということで良いのかい?」
「目的というか、俺の不慣れなダンジョン探索を見かねた親切な貴族が手助けしてくれているだけなんだけれど」
「小僧。お姉さんが優しく聞いている間に必要な事を喋った方が身のためだよ」
「総司令官や傭兵隊隊長も似たような事を言うけれど、異世界人の俺はこの世界の優先順位や常識を知らないから、何を不審に思っているのか、それがわからない」
「韜晦してんじゃないよ、小僧。お前はそんな素直な玉じゃないだろうが、他人の善意なんか毛ほども信じちゃいねぃ。いつも他人の言葉の裏を読もうとしている。そういう厭らしい面だよお前は」
「何故そう決めつけたのか理由は聞かないけれど、今後の事があるからはっきり宣言させてもらう。俺はマヤの善意を全く疑っていないよ。それだけはこの場で確言しておく」
「けっ! 惚気けやがって。しらけるねぃ」
「あの~。私から、お尋ねしても良いですか?」
嬉しさを抑えようとしているが隠しきれていないマヤが1歩前に出た。
「何だいお嬢ちゃん。言ってみな」
俺に話し掛けているときよりも、表情や声が柔らかくなっている。
「どうして私たちは兵舎から追い出されたのでしょう?」
「そう! それよ! あたし達が一体何をしたと言うのかしら?」
神官の柔らかい表情が顰面となる。
「……世の中には知らない方が良い事もある」
神官の視線にマヤ達は怯む。年季の差かなとは思ったが、口にすると迸りがこっちにきそうなので俺も黙っておく。誰も言葉を発しないまま沈黙が続く。
リンが何気ない風を装って半歩前に出ながら髪をかき上げつつ、俺に視線を向ける。
洗っていないから頭皮が痒いのかな?
呼応するようにマヤも俺を見て何かを訴えかけるような表情をする。
多分本当に知らない方が良いんだろう。
露骨に話題逸らしにならない適当な話に切り替えようと思案していると、入ってきたのとは違う左側のドアが開いた。
「シチューが温まったよ。ボサッとしてないでテーブルを空けな。そこの後ろにいる背の高い娘、あんたはついてきな」
ドアを開けた老婆はロミナを指名すると直ぐに引っ込んだ。10秒も掛かっていない。部屋に入る前から何を言うか決めていたかのように一瞬で立ち去った。
ロミナが俺に視線を向けてきたので頷くと、彼女もドアの向こうに消えた。
「嬢ちゃん! 悪い事は言わねい。その詮索は止めな。あたしらのような真っ当な人間はこの種のことを聞かれても教えるような性悪じゃねい。むしろ、そこの小僧のような奴だったら場合によっては話すかも知れねいな」
「但馬さんがご存知なんですか?」
マヤは心底驚いたという顔で俺を見る。
神官もニヤついた顔で俺を眺める。
「マヤは、そこの性悪な神官に揶揄われているというか、俺への意趣返しに使われたんだよ」
「そうなのですか?」
マヤは俺と神官の顔を交互に見比べる。
神官はニヤついたままだ。
珍しくリンが率先して動き出した。部屋内でテーブルとして使えそうな台を見定めると、そこにある物を片付け始める。それを見てマヤも動きはじめ手近な椅子を人数分配していく。
「嬢ちゃん。椅子は4脚でいい。金髪はこないのだろ?」
5脚目の丸椅子に手をかけたマヤを神官が制する。
「一緒にお食事を摂らないのですか?」
神官は答えず、グラスに液体を注ぐとそれを呷った。
神官に無視されたマヤは振り向いて俺を見る。
「但馬さんは朝食をお摂りになっていませんから、お昼はきちんと召し上がってくださいね」
マヤは何が何でも食べさせようとするのだろうけれど、俺には懸念がある。
「そういや小僧。お前、前回来たときも1人だけ食べずに帰ったそうだな。マリーの出すものに不満があるのか?」
「これから食事だというタイミングで話すことじゃない。誰かさんの口吻を借りると『真っ当な人間はその種のことを聞かれても教えるような性悪じゃねい』だね」
「お前、喧嘩売ってんのか?」
「魔法を使わないという縛りがあるなら、俺は負ける喧嘩なんか売らないよ」
「うん? お前? 魔法使いなのか」
「そう言っておけば少しは警戒してくれるかもしれないと、嘘をついているかもしれないよ。誰かさん風に言うと、他人の言葉を字面通りに受け取るような玉じゃないだろお姉さん」
神官が立ちあがる。同時に左手のドアが開いた。
「食事の前の運動かい? 埃が立つことぐらい叱られなくてもわかるだろ。さっさと食べな!」
老婆は持ち込んだ熱そうな湯気が立ち上る大鍋を音をたてて台の上に置く。
後にいるロミナがワゴンを押しながら入ってきた。
マヤとリンは黙々と、小皿やスプーン、飲み物や大皿に積んであるパンを台に移していく。手を洗えよ、お前等……
老婆が部屋を出て3人も着席した。
「パンは焼きたてのようです。食べましょう但馬さん」
マヤが洗っていない手で掴んだパンを俺に差し出しながら柔やかに微笑む。
「どうした! 食わねいのか色男! それとも見目麗しい女3人が一斉にパンを差し出すのを待っているのかい? モテる男も大変だな」
神官が安っぽい煽りを繰り出している。
「あんた。本当に食べないの?」
「店主ではないけれど、冷める前に食べた方が良いよ」
「ですから! 但馬さんも食べてください」
「但馬様。ここにあるのは全て加熱してある食べ物です。以前、仰られていた食中毒の心配もありませんし、[アナライズ]で毒が入っていないことも確認しております。何故お食べにならないのですか?」
心配してくれたのか、静かに食事を楽しみたいのか、ロミナまでもが話しかけてきた。
「君が[鑑定]したのは食べ物や飲み物だろ?」
久しぶりにロミナと見つめ合う。美しい顔は何時まで見続けていても見飽きない。
「どういう意味なのか、ちゃんと説明して!」
リンが何時ものように苛立ちはじめた。
「さっきも言ったけど食事の場で話すことではないし、可能性を1つ1つ数え上げていくと際限がない」
「その可能性って何だい?」
神官が真剣な眼差しで俺を見る。
「例えば…… 地下のトンネルを1つ潰した後も地下での活動を探し回っているのか、1つ見つけたことで満足してもう何もしていないのか知らないけれど、地下貯水槽からの送水路に何かするために、何とかという教団が複数の小規模トンネルをまだ掘り続けているかもしれない。だからと言って送水路全体を監視する人員なんか配置できないだろ? もしかしたら既に水路に手を加えているかもしれない。仮に晴れているのならば、地面が濡れてきたら小細工が発見できるかもしれないけどね」
「それとあんたが飯を食わないことと、何の関係がある?」
「食事の場でできる穏当な話題としての1例だよ」
「それ。守備隊の誰かに話したかい?」
女神官が真面目な顔をすると、昔は美人だったのかもしれないと思わせる風貌になった。
……偶々そう見えなくもないという奇跡の角度だったのかもしれないが。
「明確な根拠もなしに可能性だけで口にするようなことはしない。昨日、家畜小屋を離れたところから眺めていたけれど、もし豚や鶏に異変があったり、家畜の死体が転がっていたのなら食べるなと言うけれど、何もないのであれば俺から言うことは何もないよ」
「気になっているのなら何故近くに行って確認しない。その短剣はその為に預けられたんじゃないのか?」
少し目つきが険しくなった。何でこの女、そんなこと迄知っている?
「俺が家畜小屋に入って行った。翌日複数の家畜が死んでいた。最初に疑われるのは誰?」
「これはこれは、お偉い評論家先生だったのかい。魔法使いを名乗ったり、何の役にも立たない評論家を気取って、するべきことをしなかったり、先生は幾つもの顔をお持ちのようだ」
「但馬さん! このシチューの肉には、病気の家畜だったものが含まれているかもしれないということですか?」
「俺が気にしているのはそういうことではないよ」
「腹立つわねー。はっきり言いなさい!」
リンが立ちあがって、室内で1人立っている俺の前に詰め寄ってきた。この娘と至近で見つめ合うのは初めてのことだったかな?
「わかった。余計なことを言った俺が悪かった。食べるから機嫌をなおしてくれ」
空いている座席に座るとポケットからハンカチに包んだマイスプーンを取り出す。
本当は木の椀も拭いたいが、ハンカチでは意味がないので止めた。
大鍋に突っ込んである木製スプーンを掴んで自分用の椀に注ぎ黙々と食べはじめる。
神官を含めて全員が俺の食事を凝視している。リンに至っては手品師のタネを見つけようとする無粋な客レベルで、俺が食べているのか見極めようと、立ち位置を変えては何度も確認している。
お椀1杯分のシチューを食べ終えると椀を台に置き、マイスプーンをハンカチで拭ってポケットにしまう。
「男が1杯だけで足りたのかい? 食べると言うなら普段通りに食べな」
「俺が普段から小食なのをこの娘達3人は知っているよ。他の誰かの都合に合わせる理由が無い」
神官が疑わしそうな目つきで少女達の方を向く。
「但馬さんは普段からほとんど召し上がらないのは本当です」
マヤが代表するかのように神官に告げる。
ロミナがパンに手を伸ばすのを合図のように、他の2人も食事を再開した。
話が切れたのを契機としたのか、神官は立ちあがるとゆっくりと歩きながらこちらに近づき、丸椅子に腰掛けている俺の後ろに立つ。
同時にマヤが食事を止めて丸椅子を少し後ろにずらした。ロミナも手の動きを止めてパンをシチューの入った椀の上に置く。
左右の動きが視界に入ったのか、神官は再び最初に座っていた部屋の奥に戻って行った。
「さっき妙なことを言っていたな。送水路に小細工をしているかもしれないって。そんなものを掘ってどうするんだい? 犬の死体でも投げ込むのかい?」
「攻城戦が長引けばそういうことも考えられるね」
「長引かなければ気にするようなことでもないのに、初っ端から気にしているのかい?」
「俺はこの世界の土木技術の水準を知らないのだから、何をどこまで気にすれば良いのかなんて見当もつかないのだから仕方がない」
「何だい水準って? 今度は土木技術者の真似事かい?」
「地面を掘り下げて硬い岩盤層の上に城壁を築いているのなら問題ないと思うよ」
「築いていなかったら?」
「……物凄く忙しい事になるかもしれないね。あぁ繰り返すけれど、全て仮定の話だから。幾つもの仮定を繋げると俺達にとって良くない事が起きるかもしれない。でも俺は予言者ではないのだから、確実にそれが起きると断定していないことは覚えておいて。そして、この話をこれ以上続けると、この話のせいで俺は為政者から危険人物扱いされるかもしれない。杞憂であればいいけれど、俺が危惧していることへの対策が取られていないのであればこの話はこれ以上続けない。権力者に話の主旨を捻じ曲げられて伝えられたら困るから」
言葉の最後で神官の表情が動いたが、グラスに液体を注ぎ込もうと前のめりになることで神官は俺の視線から逃げた。
少女たちは黙々と食べ続けている。
神官は誰もいない方向に姿勢を変え、グラスをくゆらせはじめた。
「但馬様」
ロミナがこちらを見ている。
考え事をしていたので気がつかなかったが、いつの間にか食事台の上は片付けられていた。
「但馬様。わたくしは何を間違えたのでしょうか? ご説明いただけますか?」
「何の話?」
「食べ物や飲み物だけを[アナライズ]したのでは不十分だというお話しです」
「あぁその話…… 気持ちの良い話ではないから知らなくてもいいと思う」
「とても気になります。お話ししてください。お願いいたします」
ロミナは座りながら頭を下げたまま動かない。
「但馬さん。私も気になっています。何故教えてはくださらないのですか?」
マヤが俺の瞳を凝視したまま視線を動かさない。
「普段は聞いてもいないことを饒舌に喋っているのに、何を勿体ぶっているのよ」
リンにしては珍しく、感情を抑えた声だ。
「何をって、送水路の話もそうだけれど、この世界のことを知らないのに余計な知識を広めたくない。既に知られていることだったら話せるが、大量殺戮者の嚆矢として俺の名が後世まで怨嗟の的となることは避けたいから言えない」
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エヴァの表情が凍りついたように動かなくなった。彼女がこれまで対峙してきた危険人物は、力や金、親・一族の権威を玩ぶ者たちだった。だが、目の前の底の知れない日本人が口にしたのは、歴史そのものを汚染すると嘯く毒だ。
彼女の背筋に冷たい汗が流れる。水路に流される毒や、逃げ場のない地下で腐りゆく死体の山どころの話ではない。かつて見た草一本生えぬ呪われた大地の光景、この男はそれを再現できると言っているのだろうか、彼女の表面だけを装った笑みは完全に消え失せた。
激しくなる一方の雨音が、不意に遠のいたように感じられた。その静寂の中で誰かが生唾を呑み込む小さな音が、鼓膜に直接響くほど鮮烈に聞こえた。
リンの握りしめた拳が目に見えて白くなっている。彼女にとっての戦いは、目の前の敵を倒すことであり、その手段によって家再興という目的を達するものだった。但馬が語ったのは歴史という高見からの視線だ。自分とは見ているものが違う。少女はいけ好かない目の前の男について、考え違いをしていたことに気がついた。
ロミナは瞬きひとつせず但馬を凝視している。その瞳には、彼女にとって有り得ない存在への、底知れぬ興味と何かが宿っていた。
短い沈黙が、彼女たちの内側にあるものを変質させていく。
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「話さないと誓うわ」
「私も誓います」
「わたくしも誓います。どうかお話しください」
3人の少女は一斉に立ち上がると俺に頭を下げた。
「君たちの誓いは信じられるけれど、ここでは駄目」
俺は視線を奥にいる神官に向ける。
「ん? 誓えというのなら誓ってやるから話しな」
「いや、その言葉は信じられない。大人は正当化できるなら躊躇なく嘘をつけるから」
俺が言い終える前に神官は椅子から立ち上がり数歩近づいて来た。
透かさずマヤが俺と神官の間に割って入る。
「小僧! 日本人だから何を言っても許されるなどと考え違いをしてんじゃねいだろうな! お前は神官の誓いがそんなに軽いと思っているのか!」
「俺の国には『仏の嘘を方便といい、武士の嘘を武略という』という言葉があるし、他国の宗教でも理由があれば神職の嘘は許されている。今、『誓う』と言ったが誓うのであれば、話の内容ではなく、誰が言ったのかは話さないと誓ってくれ。それが妥協点だ」
怒りを抑えるための表情とはどういう表情なのか、時間をかけて思い出した神官は漸く平静な表情を取り戻した。
「……わかった。誰が言ったのか決して話さないと、アーナンダ神の御名にかけて誓う」
エヴァ・ガーナー聖職禄神官は喉から絞り出すような声で誓った。
* 上田敏訳詩集『海潮音』ウィルヘルム・アレント「わすれなぐさ」新潮文庫 1952




