第55話 ─国境の城塞─ 時は春 日は朝 朝は七時 片岡に露みちて 揚雲雀なのりいで 蝸牛枝に這ひ 神そらに知ろしめす すべて世は事も無し*
< 城塞『シュガローフ』 - 兵舎 - >
目が覚めるのとノックの音はほぼ同時だった。
ナイフを片手にテントから出てドアの前に立つと、ドア閂に括りつけた釣り糸を切り鈴も回収する。
ドアを開けたのは、金属製の札甲を着用し半球形の兜を被り腰には剣を吊っている若い近衛だった。
「総司令官によって、本日の日の出時刻をもって兵舎より退去せよと達せられました」
近衛は、それで用事はすんだとばかりに踵を返し立ち去って行く。
「城塞から出て行けということ?」
近衛の背中にむけて問いかける。
「総司令官の短剣は城塞内にいる限りにおいて返却の必要はないそうです」
近衛は立ち止まりはしたが振り向かない。
「貴方たちに責がないことは全員が承知しておりますが、兵舎と傭兵たちに近づけば双方が不快な事態へと発展する可能性があります。どうかご留意ください」
近衛は、吐き出すように早口で言うと足早に去って行った。軍靴の音が廊下に響くのを遮るようにドアを閉めた。
窓に歩み寄り、釣り糸を切ると戸板を外に押し上げる。
寒気を顔に浴びながら東の空を見るが、昨日からの小雨は未だ降り続いていた。
状況が全くわからないが、とりあえず命じられたことをマヤたちに伝えるため、彼女たちに宛てがわれた部屋に向かう。
部屋の前でノックするが反応はない。
少し大きな声で呼びかけるとマヤの声が聞こえた。しかしながらドアは開かない。
「いつまで鏡を見ているのよ!」
リンの呆れたような声が聞こえた後も少々待たされ、漸くドアが開く。
ランタンの仄暗い灯りが室内を照らしている。
マヤの笑顔を予想していたのに、案に相違してドアを開けたのはウィルマだった。
室内を覗き込むのも躊躇われたので、1歩左に下がるとウィルマへ『夜明けの時間に兵舎から退去するように軍から命じられた』ことを伝える。
警戒顔だったウィルマは表情を消し、何も言わず黙って俺の顔を見続ける。
おずおずという体でマヤがドアから顔を出してきた。
「おはようございます但馬さん。兵舎から出て行けとはどういうことですか?」
「おはよう。総司令官の命令を伝えに来た近衛によると、俺たちの責任ではないが傭兵たちと搗ち合うと双方が不快になるらしい。事情は説明してくれなかったけれど、夜明けの時間という非常識な時間指定は、若しかしたら外に出て行った傭兵たちが戻ってくる時間かもしれない」
「あんたの言う通りだったとしても、なんであたしたちが出て行かなきゃならないのよ」
リンも近くにやってきて詰問してきた。さすがに3人の若い女性が集まると混じり合った匂いを意識することになる。
「そういう話も含めて、これからの事は荷物をまとめて馬車内で話さないか? 小雨は未だ降り続いているから寝袋を天日干しできないけれど、[食糧、水を清める]で俺の寝袋は乾かすつもり。君たちのも一纏めにして一緒に処理しようか?」
「必要ないわ。あたしたちのはロミナにやってもらうから」
そう言うやリンは何かに気がついたという顔をして、やや強めにドアを閉めた。
ドア越しに馬車で待っていると告げ、荷物をまとめるために部屋へ戻る。
薄ぼんやりと周囲が白みだした頃、4人が馬車にやってきた。
「先に来ているなら、どうして馬を馬車に繋いでおかないのよ!」
「リンやロミナも馬と馬車を繋げられるかも知れないけれど、馬にすら触ったことのない俺にそれを期待しないで」
「あんた、馬が怖いの?」
「怖いか怖くないのか二択だったら、こんな大きな生き物は怖いよ」
「はっ! 情けない男ね」
俺とリンとがいつものようにじゃれ合っているのを横目に、マヤとウィルマは何も言わずに馬を連れてきて馬車に繋ぎはじめる。
これもいつもの事だがロミナは当然のように馬車に乗り込み、マヤやウィルマを手伝おうとしない。
準備ができたのか2人が俺のところにやってきた。2人共息が白い。
当たり前の話だが誰も発言しようとしない。突然出て行けと言われても、どこに行けばよいのか当てがない。
「取り敢えず礼拝堂へ向かおうか、宿屋も酒場も開いていなくとも宗教施設だったら夜明けには活動をはじめているだろう」
「神官相手にどのような振る舞いを行ったのか、貴方は覚えていないのですか?」
「感情を最優先させるタイプなら門前払いだろうけれど、向こうが聞きたい事を話す用意があると言えば、店が開く時間まで馬を濡らさないですむんじゃない? それとも、荷物を捨てて2頭の馬に5人が分乗して城塞から脱出するかい?」
「昨日言ったでしょ! 脱出なんて論外よ! 数百ぐらいのゴブリンが押し寄せてきても、この城塞内に居れば安全なのよ、何で危険な野外に飛び出す必要があるのよ!」
勝気なリンにしては目に怯えが見える。過去に何かあったのだろうか。
「どこに行くにせよ、わざわざ忠告してくれたのだから完全に夜が明けない内に兵舎からでるべきだ。ウィルマに代案がないのであれば礼拝堂に向かってくれ」
返事を待たずに俺は馬車に乗り込む。
それにしても傭兵間で何があったのだろう?
3人は顔を見合わせるが誰にも代案はないようで、マヤとリンも乗り込んできた。
ウィルマは御者台に向かったようだ。
「あたしたちが何故こそこそと逃げ出すような目に遭うのかしら? あんた! 正直に言いなさい! 何をやったの!」
乗り込んでくるや否やリンは俺に原因があると決めつけてきた。
舌を嚙まないように俺は馬車が動き出してから答える。
「俺が何かをやらかしたのなら、俺だけが追い出されていたんじゃないの? 陽が昇る前、小雨の中に女性を追い出すような行為がこの世界ではよくある事でなければね。リンが言うところの身分を明かしたロミナにこんな真似をするのはよくよくの事だと思う」
「その『よくよくの事』とは何か、但馬さんのお考えを聞かせてください」
これまでは肩や足が触れ合う程の近さに座るマヤだったが、今朝は少し距離をとっている。
「完全に推測だけれど、傭兵間で君たちのことが話題になって乱闘騒ぎでも起きたんじゃないの? それで軍の作戦に支障が起きたから末端の兵が処罰された。だから近衛は『俺たちの責任ではない』が、『傭兵たちとは離れてくれ』と、逆恨みでこっちに火の粉が飛ばないように配慮してくれた。というのがありそうかなとは思っている。全然別のことである可能性もあるから断定はしない」
何か突っ込める粗はないかとリンが眉間に皺を寄せ考え込む。
マヤは馬車の屋根近くの中空に視線を向けている。
ロミナは姿勢を崩すことなく正面に視線を向けたままで話に加わる様子はない。
誰も何も言わないまま馬車は街路を進んで行く。
戸板を押し上げ窓を開ける。いつのまにか物の形がはっきりとわかるまで外は明るくなっていた。
異世界の宗教施設を見たことはないけれど、あれが礼拝堂だろうと当を付けた建物に馬車は近づいて行く。
礼拝堂と思しき建物の前で馬車が停止した。
小雨の中車外に下り立つ。正面の扉は開放されていた。
俺とロミナとリンが扉の方に歩き出そうとすると、マヤが制止の声をあげる。
「横手の厩舎に馬を繋ぎとめてくるまで中には入らないでください。皆さんの護衛ができません」
そういえばウィルマがやらかしているから、ここは友好的な施設というわけではなかったなと、俺とリンは顔を見合わせる。
「私めが馬を繋ぎますので、貴方たちは先に中へ入ってください」
あの神官との面会はウィルマがいない方が良さそうなので、こちらへ小走りにやってくるマヤと合流して、俺たち4人は扉をくぐって中に入った。
石の壁に囲まれた人気のない礼拝室は外よりも寒く感じられた。正面と左右の壁沿いに複数の2m位はありそうな立像が据えられている。
長椅子といったものはない。イスラム系の礼拝堂のように、床に絨毯でも敷いて跪くのだろうか。
誰かが出てくるという事もなく、俺たち4人は戸口に佇む。部屋の左奥にはドアが見える。
「礼拝室は全ての信者に開放されていますけれど、ドアの先は管理している神官の占有ですから勝手に入ってはいけませんよ、但馬さん」
俺の視線の先を見たマヤに釘をさされる。
「朝食のためにこの室内で煮炊きをするわけにもいかないし、どうしようか?」
「バックパックには保存食としてのパンやチーズがありますから、それを水で流し込むしかないですね」
「ここで飲み食いしても問題ないの?」
「それは…… どうなのでしょう?」
自信がないのか、マヤはリンに助けを求めるように見つめた。
「え! あたしに聞いているの? そうね、礼拝室での飲食は神官の許可なしにはやらない方が良いでしょうね。あまり友好的とは言えない感じだったし」
リンは俺にジト目を向ける。
「ん? 俺は神官側に立って仲裁した側だったと記憶しているが」
「あんな恍けた返事をしておいてよく言うわね。あんたの質問されても誠実に答えない癖! 皆迷惑しているのよ。わかっていてやっているのでしょうけれども、いいかげんにして!」
バックパックを床に置いたマヤが意図的に音をだして中から保存食を取り出していく。
「扉の外。庇の下で食べませんか? 但馬さん」
マヤが取って付けたような笑顔で俺にパンを差し出してきた。
その後、遅れてやって来たウィルマを含む4人は、1人ずつ交代でドアの外に立ちそこで食事を済ました。
午前8時頃まで礼拝室に滞在していたが、訪れる者も神官も姿を見せない。
「宿屋も開いたでしょう。私めが以前滞在した宿に場所を移しませんか?」
ウィルマの提案にリンが飛びついた。
「何という名の宿屋なのかしら?」
「……短期滞在でしたから、宿の名は覚えていないのよごめんなさい。でも場所は覚えているから大丈夫。他に質問はあるかしら?」
ウィルマは何故か俺だけを見ている。
「その宿は馬車を預けられるの?」
「以前は厩舎もありましたよ」
「では、そこへ行こうか」
やや強くなってきた雨の中、俺たち5人はとぼとぼと馬車に向かう。
馬車の中、誰も口を開かない。篠突く雨が板1枚の屋根を容赦なく叩く。
ふと、郵便局勤めだった頃を思い返す。
こういう雨の日の配達。1軒家のポストに郵便物を入れる際にはどうしても濡れてしまう。
しかしながら、配達区域が変わっても何故か1軒はクレーマーがいて、(土砂降りの日の)郵便物が濡れていたと文句を言ってくる。
あれ。自分の家だけは郵便物が濡れないようにビニール袋に入れて特別扱いしろと暗に要求していたのだろうか?
雨の日が好きだという奴が世の中にはいるらしいが、俺は雨の日に外を出歩くのは今でも嫌いだ。
馬車が止まった。フードを被ったウィルマが何か言ったが屋根を叩く雨音が五月蠅くて聞き取れなかった。
ウィルマはどこかの建物へと入って行く。あそこが宿屋なのだろうか。看板に文字が書かれてある。
……異世界人のセンスは日本人には難しすぎる。何だよ「内股をしたオレンジの皮」って。意味がわからん。隠語なのか?
さして待つこともなくウィルマが戻ってきた。馬車の御者台に座り続けていた彼女の外套の裾からは水滴が滴り落ちている。
「部屋は空いていました。皆さんは先に中に入りますか? それとも、あてがわれた馬房に馬を入れ、私めと共に宿屋へ入りますか?」
馬車の中の3人が一斉に俺を見る。
「ウィルマだけではなくて、マヤも馬の場所を把握しておいた方が、何かあったときに選択肢を選べるようになるね」
マヤが頷いたのを確認して、ウィルマは御者台へと向かった。
直ぐに馬車がゆっくりと動き出し、馬車と馬を所定の位置に留める。
馬車の中に荷物を置きっぱなしにしていないか、最後に馬車を降りる俺が確認して5人で宿屋に向かった。
俺より身長が低く、ウィルマと同じぐらいの背丈しかない小男がカウンター越しに入ってきた俺たちを見ている。
「2部屋と言っていたが、まさか片方の部屋で商売をしようと考えていないだろうな?」
一瞬、小男の言った意味がわからなかった。
「あたしを買うと言ってきたら、あんたの粗末なモノをこの短剣で切り落とすからね!」
……意味はわかったが…… リンさん。君、元貴族のお嬢様ではなかったのか?
見た感じ、リンが激高しているようには見えない。庶民とのコミュ力が意外に高いのは喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか。
「2部屋ではなく、5人が泊まれる1部屋でお願いします」
マヤが真面目な顔で切り出す。冗談を言っている風には見えない。
「マヤさん。宿の主人の言い様は、本心から疑っての言葉ではなくて念の為の確認だと思いますよ。婚姻前の女性が殿方と同室で寝泊まりするのは感心しません」
「今は戦時です! 何かが起きたときに対応が遅れたら但馬さんを守れません。ロミナ様は侯爵から10日間の猶予を頂いています。それは、ダンジョン内で但馬さんとの寝起きに同意されているということです。ウィルマ様はダンジョン内で仮眠をとる際にも男女は別にしろと仰るのですか?」
ウィルマが言い淀む。
「仕方がないわね。あんた! あたしが寝ている所に近づいたら本気で刺すからね! これは予告よ! くれぐれもあたしに誤解されないように細心の注意を払いなさい!」
リンが嫌で嫌でたまらないと、これ以上はないかと思われる程の嫌悪感を剝き出しにしている。
「1部屋に変更ということでいいのか?」
宿の主人がぼそりと呟いた。
* 上田敏訳詩集『海潮音』ロバアト・ブラウニング「春の朝」新潮文庫 1952




